七尾城
| 形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
| 比 高 | 250m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
| 蟲獣類 | 猪 | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
| 駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
| 高 さ | - / 20m | ||
| 所要時間 | - / 8分 | ||
| 指 定 | 国指定史跡、日本100名城 |
| 遺 構 | 曲輪、石垣、土塁、堀切、切岸、虎口 |
| 歴 史 | 正長元年~2年(1428~1429)、能登畠山氏の初代・畠山満慶により築かれた。6代目畠山義総のときに総構えのある城下町と当主と家臣団が居住出来る山城が完成した。 |
| 駐車場 | 七尾城駐車場 – Google マップ |
| 住 所 | 七尾城史資料館:石川県 七尾市 古屋敷町タ13-1シカマ藪8-2 |
| トイレ | 資料館内 |
| 訪問日 | 2025年10月13日(月)曇り |
1.七尾城史資料館

能登七尾城の麓にある七尾城史資料館。格子には、七尾城城主・畠山氏の家紋「丸に二つ引両」が付けられている。この家紋は足利氏の家紋のひとつで、足利一門衆にも広く使用が認められており人気があったという。
平安時代に、平氏一族の秩父重能が武蔵国男衾郡畠山郷を所領とし、畠山氏を名乗ったのを始まりとする。治承4年(1180)に源頼朝が相模国の石橋山で挙兵した際は、平清盛の御家人である畠山氏は京にいた重能に代わりその子・重忠(17歳)がその討伐に向かい頼朝を撃退した。しかし翌月頼朝が安房国で再挙すると、千葉常胤や上総広常も加わり2万の大軍となったため畠山重忠は降伏し、頼朝に臣従した。その後頼朝の義父・北条時政の娘(北条政子の妹)を妻とした。
源平合戦で平氏が滅び鎌倉幕府が開府され、執権となった北条時政が比企氏の旧領・武蔵国を統治するようになると、同じ武蔵国に領地を持つ重忠と対立する。そして元久2年(1205)、時政の謀略により重忠(42歳)は滅ぼされた[畠山重忠の乱]。その後、重忠の妻(時政の娘)の元に同じ源氏の御家人である足利義兼の庶子・足利義澄が婿に入り、畠山氏を継いだ。これにより畠山氏は足利氏の一門衆となる。

鎌倉末期、足利尊氏の台頭とともに畠山氏は武功を挙げた。延元元年(1336)に室町幕府が開府されると畠山氏は幕府の重鎮となり、三管領の職(斯波氏・畠山氏・細川氏の三氏が持ち回りで管領に就く)と、河内・紀伊・越中・能登の4ヶ国の守護職に就いた。畿内で領土としたのは河内一国だが、畿内5ヶ国のうち山城は守護の世襲が許されず、大和は興福寺が治め守護は不在だったことを踏まえると、残り3ヶ国のうち1ヶ国というのは決して少なくはないことが分かる。
応永13年(1406)、管領で4ヶ国の守護・畠山基国が死去し、家督は基国の次男・満慶が継承した。畠山氏の嫡男は長男・満家だったが、時の将軍・足利義満の勘気をこうむり蟄居していたためだ。応永15年(1408)に義満が亡くなると、満慶は兄・満家に家督を譲った。満家は4ヶ国のうち能登守護を弟に与え、ここに満慶を初代とする能登畠山氏が成立した。そういう経緯から、能登畠山氏と畠山本家との関係は良好で、満慶が2年間管領を務めていたこともあり能登畠山氏は幕府内での地位も高かった。
正長元年~2年(1428~1429)、畠山満慶は七尾湾を臨む山に七尾城を築いた。地図を見ると明らかなように、七尾城は東西の越中と加賀を睨む北陸の要衝にある。

「七尾」という名は七つの尾根(松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)に由来する。俯瞰図には、尾根に築かれたいくつもの曲輪とともに、城下町と総構えも描かれている。七尾城は、能登半島や七尾湾を一望出来る雄大な山城である。
室町中期に畠山満慶が築いた頃の七尾城は櫓程度の城だったらしい。七尾湾近くの府中(現在の七尾市の中心部)に居館と守護所(政庁)を構え、七尾城は詰城として機能させていた。そして能登畠山氏6代目当主・畠山義総のときに居館を山頂へ移し、城下町と総構えを築いて完全要塞化を行った。この俯瞰図は義総以降の七尾城といえる。天文13年(1544)に七尾城を訪れた禅僧が著わした『独楽亭記』によると、城下町は一里(約4km)ほどの長さからなる大都市だという。七尾城は「天宮」、城下町は「三市晴嵐」と著していることからも、その繁栄ぶりが窺える。“三市晴嵐”という表現は、中国湖南省の伝統的な名勝のひとつ“山市晴嵐”をオマージュしているのだろう。ただ商業の中心は府中のままであり、七尾城の城下町は武家屋敷・寺院・職人の町屋などが中心だったようだ。
畠山義総が産まれたのは戦国初期の延徳3年(1491)。能登畠山氏の当主は義総の祖父・畠山義統(48歳前後)だった。そして義総2歳のときに明応の変が起こる。時の将軍・足利義稙(当時は義材)が、日野富子と細川政元のクーデターにより失脚した。詳細は割愛するが、義稙は幽閉された上原元秀(細川氏内衆)の京都館からわずかな側近を連れて脱出し、近江⇒美濃⇒越中へと逃亡した。余談だが、義稙は歴代の足利将軍の中でも随一の剣豪として知られている。個の戦闘能力が長けていればこその逃走劇だったのだろう。
足利義稙の右腕といえば河内を拠点とする畠山本家の畠山政長だったが、先のクーデターで命を落としていた。政長の執事・神保長誠が越中にいたため、義稙はそれを頼って越中の放生津まで落ち延びた。畠山義統は北陸に来た義稙を歓迎し放生津へ挨拶に訪れたものの、細川政元が新たな将軍として足利義澄(最初は義遐)を擁立すると、幕府に恭順の姿勢も同時に示した。
北陸の諸将たちとでは細川政元-足利義澄とは戦えないと悟った義稙は、西国周防の大内義興を頼る。永正4年(1507)に細川政元が自身の重臣に暗殺されると、細川一族はその後の家督争いで混迷した[永正の錯乱]。
それをチャンスとみた足利義稙(当時は義尹)は、翌年大内義興に奉じられて上洛する。細川京兆家(本家)の当主となった細川高国は抵抗することなくそれを受け入れ、足利義澄を追放して義稙を将軍の座に返り咲かせた。明応の変から実に15年後の捲土重来だった。このとき能登畠山氏は、義稙の再任を祝うため上洛した。拝謁したのは、当主・畠山義元(40歳?-義統の嫡男)と、弟の畠山慶致(37歳?)とその息子・義総(17歳)の3人。なぜ3人も来たのかを一言で説明すると、亡き義統の跡を継いだ義元とその弟の慶致が争い、守護代・遊佐統秀を味方に付けた慶致が兄を能登から追い出したものの、北陸一向一揆の大蜂起により能登は大混乱に陥ったため、慶致は義元と和睦し兄弟力を合わせてその困難を乗り切った。その際、能登畠山氏の家督は兄に返したが、息子義総を兄の後継者にすることを条件とした。
永正5年(1508)に発足した第二次義稙政権は、将軍・足利義稙(42歳)を中心に、細川高国(24歳-管領)、大内義興(31歳-管領代と山城守護に新任)、畠山尚順(33歳-当時は尚慶-畠山本家)、畠山義元(能登畠山氏)の4大名により幕政が行われた。慶致と義総も御供衆として在京した。

畠山義総が能登畠山氏の当主となったのは永正12年(1515)、能登へ帰ってからほどなくのことだった。守護代の遊佐氏に起因する内乱が収束したばかりであり、いつ蜂起するやも知れない加賀一向一揆も警戒する必要があったため、義総は守護所のある湊町・府中から詰城の七尾城へ本拠地を移すことにした。
城の拡張とともに家臣団の居住する曲輪も整備した。遊佐氏・三宅氏・平氏といった能登畠山氏発足以来の譜代の家臣たちに加え、輪島の有力国衆・温井氏や、穴水を本拠とする幕府奉公衆・長氏を新たに重臣とし、七尾城の要の曲輪に住まわした。
義総は京都に5年ほど住んでいた影響で京文化に深い関心があった。古典を収集・研究し、七尾城内で歌会を催した。義総のもたらした京風文化は「畠山文化」と呼ばれ、七尾城やその城下町の発展と共に能登畠山氏の最盛期を築いた。
2.本丸北駐車場~遊佐屋敷跡

本丸北駐車場は比高230mの場所にあり、山の頂にある本丸とはわずか20m差になる。

調度丸跡。弓矢などの武具(調度)を整えた場所とのこと。江戸期の古絵図に「調度丸」と書かれており、出土品により裏付けも取れたようだ。

桜馬場跡北側の石垣は5段からなり、七尾城最大のものとなっている。そして七尾城内で、能登半島地震の被害が最も大きかった場所だ。2024年元旦の被災から1年3ヶ月の歳月を経て、この先の見学が再開された。
馬場は「ばんば」とも呼ばれ、「番場」が変化したものという説がある。馬場だから馬をつなぎ止めておいた曲輪だろうという安直な意見は多いが、高石垣の上の重要な守りの曲輪をそんなことに使用するとは考えにくいので、番場だったとすると腑に落ちる。

この急な石階段を見ると、やはり馬が登り降りしていたとは考えにくい。

桜馬場跡。

桜馬場の先にある遊佐屋敷跡の石垣。本丸に最も近い位置にあり、畠山家臣団の筆頭家老なのは疑いようもない。能登遊佐氏といえば、反乱を起こしたり主君を追放したりした梟雄のイメージがあるが、生き残るのが困難な戦国の世にあって、したたかに生きる頼もしいリーダーと言い換えることも出来るだろう。
能登遊佐氏は畠山本家に仕えた河内遊佐氏の庶流で、能登畠山氏の初代となった畠山満慶に仕えた一族と考えられる。室町初期は畠山氏も遊佐氏も京都に居たが、応仁の乱後の文明10年(1478)に畠山義統(34歳?)とともに遊佐統秀は能登へ下向した。明応9年(1500)、義統の死後家督を継いだ嫡男・義元と弟・慶致が抗争を始めると、統秀は慶致に与した。それにより慶致が勝利し、義元は能登を出奔して越後での隠棲を余儀なくされる。永正5年(1508)に、当主に復帰していた義元が慶致と義総を連れて上洛すると、統秀は能登の留守を任された。しかし永正9年(1512)に慶致が単身能登へ帰ってくると、遊佐統忠(前年に急死した統秀の弟?)はそれを擁立して義元派(加治直誠ら)に反旗を翻した。当主に復帰した義元は弟と和睦したものの自分に敵対した遊佐氏を快く思っておらず、遊佐氏の代わりに自分の側近(加治直誠ら)を重用して能登の治世にあたらせていた。明応9年の兄弟抗争で弟を選んだのは、その年能登は飢饉で民衆の不満を解消する必要があったため当主交代が望ましかったからだったが、永正9年の反乱は遊佐氏をないがしろにする義元からの離反だった。
畠山義総の調停により永正9年の内乱は収まり、ほどなく畠山氏の家督を義総が継ぐと、遊佐氏の家督も統秀の子・遊佐総光が継いだ。
3.本丸

遊佐屋敷跡から本丸へ続く道。

明応9年と永正9年に大規模な内乱が起きたことは先述の通りだが、能登畠山氏にとって最大の内乱は永禄9年(1566)に起きた。当主・畠山義綱(30歳-義総の孫)が、父・畠山義続(52歳?-義総の子)や一部の家臣とともに、遊佐続光や長続連によって能登から追放された。義綱が登用した新参の家臣と譜代の家臣による対立が原因だった。譜代の遊佐氏たちが当主ごと新参の家臣たちを追い出した形だ。遊佐続光らは、義綱の子・義慶(12歳)を当主に据え、能登畠山氏を存続させた[永禄9年の乱]。
能登畠山氏はとにかく内乱が多い。義綱の父・義続もその昔、家臣団の統率に失敗し、天文19年(1550)に温井総貞と遊佐続光を始めとする7名の重臣たちに攻められ、義続が重用していた家臣の切腹と自身の隠居を余儀なくさせられた[七頭の乱]。その時は14歳の義綱が跡を継いだのだが、“永禄9年の乱”で父と同じ憂き目にあうことになった。
永禄11年(1568)、義綱は上杉謙信の支援を得て能登への復帰を図ったが、不測の事態で頓挫した。次に上洛したばかりの足利義昭と織田信長に支援を求めたが断られ、半年後に再度支援を求めたがそれも断られた。その後、越中・越後・能登の諸勢力に支援を求め能登への入国を目指したが、成果を挙げることは出来なかった。天正4年(1576)を最後に義綱の活動は見られなくなる。

家臣たちに振り回されてばかりの感がある能登畠山氏だが、決して何もしていなかった訳ではない。永禄3年(1560)以降、畠山義綱は2つの大きな政策を成立させている。
1つ目は、独立勢力である寺社(寺院と神社)の支配だ。能登一宮である気多神社の遷宮を執り行い、社領の権利関係を整理して一円所領として与えた。そして畠山家臣が社務奉行として社内を統制した。真宗寺院に対しては兵糧米を賦課する代わりに争いごとなどの裁定を畠山氏が受け持った。
2つ目は、土豪の掌握だ。村落を束ねる土豪に対し年貢減免などを条件に軍役を掛けたり、沿岸部の土豪には船の供出を命じた。また、配符状を発給して臨時役の徴収を行う仕組みを構築した。
特筆すべきは、これらの政策は能登畠山氏が滅亡したあとに能登の支配者となった前田氏が、このシステムをそのまま活用して円滑に能登支配を行っているということだ。畠山義綱が優れた統治者だったことがここに確認出来る。

本丸から見える七尾湾。

七尾城の石碑。

本丸櫓台に建つ城山神社。昭和の太平洋戦争中に建てられたという。鳥居は先の震災により無残な姿になっている。
4.温井屋敷跡~安寧寺跡

桜馬場の西(本丸の反対方向)にある温井屋敷跡。能登畠山氏の重臣・温井氏は輪島の有力国衆で、畠山義総の時に温井孝宗-総貞親子は臣下に入った。享禄4年(1531)の加賀一向一揆との戦で敗死した孝宗の跡を継いだ総貞は、天文14年(1545)の義総の死後、義続の代になってから頭角を現わす。
義総の晩年に勃発した畠山一族の反乱は、代替わりを好機とみてさらに激化した。義総の庶兄・九郎、同じく庶弟・勝禅寺と駿河の3名が、若き当主・義続を悩ませた。能登畠山氏は次第に疲弊し、家臣たちの反乱を招いた。温井総貞と遊佐続光を始めとする7名の重臣たちが剃髪し、義続を攻めた。そして義続の側近を切腹させ、義続の隠居を強制した[七頭の乱]。当主には義続の子・義綱を据えたが、温井総貞を筆頭とする家臣7人衆による協議制にて、能登畠山氏は運営されることとなる。しかしその後、総貞が義綱を七尾城から追い出して能登畠山氏を完全に乗っ取ろうと計画したため、連歌会の席で総貞は暗殺された。その暗殺を主導したのは義続だったという。

九尺石は震災により立入禁止になっている。

二の丸の石垣。

二の丸。

二の丸から三の丸への動線は、切岸に階段が設けられている。

三の丸。

三の丸の下にある段曲輪・安寧寺跡。

安寧寺跡にある畠山廟。

能登畠山氏が他の守護大名と一線を画すのは、家臣たちの下剋上により滅亡していった大名が多数いる中、家臣に背かれながらも時には家臣を抑え、当主としての求心力を最後まで維持したことだろう。天正5年(1577)に上杉謙信により七尾城が落城した際、当主・畠山義慶は病死か事故死かで亡くなっていたものの、家臣たちはその遺児・春王丸を擁立し、一致団結し能登畠山氏を存続させようとしていた。
七尾城落城後、春王丸は上杉謙信の命で上杉家臣・上条政繁が預かった。その後政繁の養子となり上条義春と名乗るが、のちに畠山姓に復した。春王丸の子孫は江戸幕府の高家旗本となり、その系図は綿々と続いていく。

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