目次
一乗谷朝倉氏遺跡
指 定 | 国の三重指定[遺跡]特別史跡+日本100名城[庭園]特別名勝[出土品]国の重要文化財 |
遺 構 | 曲輪、堀切、竪堀、土塁、唐門(江戸期)、館跡、庭園、城戸 |
歴 史 | 越前朝倉氏の城。始めは地頭職だったが、越前守護・斯波氏の没落後、斯波氏に変わって越前を治めた。一乗谷に総構のような巨大な町を築き、5代100年の栄華を誇る。しかし天正元年(1573)織田信長により滅ぼされた。 |
駐車場 | 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 駐車場 – Google マップ 復原町並駐車場 – Google マップ |
住 所 | 福井県 福井市 城戸ノ内町 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2022年10月2日(日)晴れ |
1.一乗谷朝倉氏遺跡博物館

福井県福井市にある一乗谷朝倉氏遺跡博物館。総事業費約50億円を投じたこの博物館の目玉となる展示物は3つある。1つ目は、一乗谷の城下町を30分の1のスケールで再現した「巨大ジオラマ」。2つ目は、発掘された川湊の一角を露出展示した「石敷遺構展示」。3つ目は、戦国大名・朝倉氏の居館の一部を原寸大で再現した「朝倉館」。

一乗谷は全盛期には1万人の人が暮らしていたという。東西を山に挟まれた谷間にあり、南北の出入口を「城戸」と呼ばれる土塁と石垣の防御壁で封鎖し、人の出入りを制限していた。町全体を天然の地勢と人工の城壁で囲んだ、広い意味での総構だ。
城主である越前朝倉氏は但馬朝倉氏の庶流となる。南北朝時代に越前守護となった足利高経(斯波高経)に従ってやって来た。それから130年後の応仁の乱に、当主・朝倉孝景は主君である斯波義敏(足利高経の子孫)から離反し東西に分かれて争い、斯波氏を越前から駆逐して越前の統治者となった。そして文明3年(1471)に一乗谷へやって来てここを本拠とした。孝景を初代とし、戦国越前朝倉氏はその後5代100年の栄華を誇る。
①巨大ジオラマ

目玉その1、巨大ジオラマ。30分の1のスケールで実際の町並みを再現している。
②石敷遺構

目玉その2、石敷遺構。

石敷遺構は川の船着き場ではないかと言われている。他の用途の可能性もあるのでまだ調査中とのこと。
③朝倉館

朝倉氏の居館のジオラマ。

目玉その3は、その原寸大の朝倉館

原寸大朝倉館内で戦国衣装着付け体験があった。1回(1時間)500円と格安だったが、スタッフの補助は付かず完全セルフだった。心得のあるナオだから着られものの、1人では着られない人もいると思う。
2.一乗谷朝倉氏遺跡

博物館の次は、復元町並と遺跡。車は一乗谷史跡公園センター側(北側)の駐車場に停めた。
①復元町並

復元町並。武家屋敷は高い塀で囲われており、閉鎖的な空間になっている。

町民屋敷には塀はなく、開放的だ。
②米津

諏訪館橋を渡って遺跡地区へ向かう。

米津。金工師が刀装具を造っていた炉跡や坩堝が出土している。
③諏訪館跡

諏訪館跡と庭園跡。諏訪館は、朝倉氏最後の当主・朝倉義景の側室・小少将(諏訪殿)が住んでいた館になる。「小少将」は役職名のようで、同じ呼び名の女性が歴史上に4人はいる。戦国期の人物では、一乗谷の小少将のほかには阿波の勝瑞館にいた三好実休の妻が知られている。そちらの小少将については、【阿波:勝瑞城&一宮城】🔎をご参照願いたい。
諏訪館庭園は、一乗谷で最も規模の大きい庭園とのこと。ここを与えられた小少将は、朝倉義景にとって大事な存在だったのだろう。そのためか通説によると、義景は小少将とその嫡子を溺愛して政務を省みず、さらに小少将が政治に介入したことで朝倉家は弱体化した、ということになっている。
天正元年(1573)に朝倉氏は滅亡した。その実行者である織田信長と義景は同年代のライバル関係で、2人は何度となく戦で相まみえている。信長と美濃の一色義興(斉藤義興)との戦いで義景が一色方に与して以来、金ヶ崎の退き口 → 姉川の戦い → 志賀の陣 → 田部山の戦いと、激闘を繰り広げてきた。
事実だけを比較してみる。織田信長には兄弟が14人(男11人・女3人)いるが、朝倉義景の兄弟は景弘1人だけ。しかも景弘は活躍した記録が全く見られず、ウィキペディアではその存在すら認められていない。志賀の陣の前哨戦の坂本の戦いでは、織田信長の弟・織田信治が京都から駆け付け、守将の森可成とともに戦い討ち死にした。そういった信頼出来る兄弟が大勢いる信長と全くいない義景の明暗は、そのまま家の盛衰に大きく寄与したのではないかと思う。
④中の御殿跡

諏訪館跡の隣にある中の御殿の石垣。

中の御殿は文字通り屋敷群の中央にある御殿で、当主の妻が住む場所である。義景の母(若狭武田氏)と、義景の正室(細川晴元の娘)が住んでいたとされる。高い土塁と石垣に守られたこの城郭御殿は、当主の妻の居館にふさわしい様相を呈している。これを踏まえて諏訪館を見ると、中の御殿に比べ防御力は劣っており、城の外に造られた庭のような印象を受ける。側室の小少将は嫡子を産んだとはいえ、朝倉家の中ではあくまで地位の低い側室だったことが想像出来る。通説で言われるような、小少将が政治に介入する余地はなかったのではないかと思う。

中の御殿と湯殿跡庭園の間の堀切。
⑤湯殿跡と朝倉館

国の名勝「一乗谷朝倉氏庭園」は4つの庭園が指定されているが、この湯殿跡庭園はその中で最も古い庭園となる。天正元年(1573)に朝倉氏が織田信長に滅ぼされて以来、現在まで再開発されることなく忘れ去られた場所であるため、戦国時代当時のままの遺構が残っている。

湯殿跡から朝倉館跡が見える。

当時はこんな風に見えていた事だろう。

朝倉館跡にある朝倉義景の墓所。

江戸期に再建された朝倉館の虎口「唐門」。
昼食 越前そば

遺跡のあとは越前そばの定食。
⑥下城戸

最後になったが下城戸にやってきた。下城戸はその名の通り一乗谷の入口で、総構の大手門に相当する。川の下流にあるのが下城戸、川の上流にあるのが上城戸(搦手門)となる。

下城戸の虎口は巨石の石垣で、喰違虎口になっている。戦国末期から豊臣期では当たり前だが、戦国期の城でこのような巨石を積み上げた虎口は全国的に見てもほとんどないだろう。朝倉氏が戦国期トップクラスの築城技術を誇ったと言われているのが、これを見ると納得出来る。
朝倉氏が滅ぼされる直前の元亀年間(1571-1573)で、1万人以上の兵を動員出来る戦国大名は全国に5氏しかいなかったという。織田信長、北条氏政、武田信玄、毛利輝元、そして朝倉義景である。しかし朝倉氏は築城技術はトップクラスである反面、戦の評価は低い。四代・朝倉孝景が攻めた美濃郡上の篠脇城(城主・東常縁)、五代・朝倉義景が攻めた若狭の国吉城(城主・粟屋勝久)など、敗戦の記録が多い。
戦の強い戦国大名は武田信玄や上杉謙信などが挙げられるが、どちらも水害や降雪などで国が貧しく他国に攻め入って物資や人を奪わないと生き延びられなかった。逆もまた真なりで考えると、朝倉氏は豊かな国土で裕福だったため、命がけで貪欲に戦う者が少なかったからなのかも知れない。

下城戸内側の遠景。荒廃した石垣と彼岸花のコラボに哀愁を感じる。
一乗谷城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★★★★ |
比 高 | 400m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | 熊、スズメ蜂 | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 50m / 350m | ||
所要時間 | 10分 / 60分 |
3.英林塚ルート

一乗谷城への登城ルートは4本あり、私は所要時間の短い英林塚ルートを選んだ。まずは諏訪館跡を通過する。

中の御殿には行かず、上の道へ。

英林塚。“英林”とは初代・朝倉孝景のこと、つまり孝景の墓である。

英林塚の先に登城口がある。猪避けの鉄線を越えて進む。

道なき道を行く。

岩に苔。リボンがなければ確実にルートアウトしているだろう。私が登った山城の中でワースト1位かと思うくらい過酷な道だ。後で知ったが4本あるルートの中で「英林塚ルート」は最上級者向けのルートだった。一番北の「三万谷ルート」が初心者向けでしかも英林塚ルートより10~20分短かったのだが、林道の奥にある駐車場からスタートするので敬遠した。その結果、中級者向け「下城戸ルート」や上級者向け「馬出ルート」より所要時間は短いものの、難易度MAXの最上級者向け「英林塚ルート」を選んでしまった。

傾斜がエグい。

最上級者向けルートでも元気なナオ。

不動清水と呼ばれる水場。今でも不動明王の石仏の足元から水が湧き出ている。
4.主郭部
①千畳敷

千畳敷跡。不動清水のすぐ上にある曲輪。総面積は1,500㎡なので、約926畳だ。朝倉義景の時代は、ここは本丸として機能していたそうだ。
天正元年(1573)8月、田部山の戦いで敗れた朝倉義景は織田信長の厳しい追撃を受け、利根坂で壊滅的なダメージを負った。義景は一乗谷に逃げ帰ったもののすでに織田と戦える戦力は残っておらず、一乗谷にいた将兵も逃げだし、一乗谷は戦わずして陥落した。

土塁がある。

土塁の奥の曲輪は観音屋敷跡で、千手観音を奉った屋敷が建っていたという。山城内に聖域を造る、あるいは聖域のある山に城を建てるというのは、戦国時代によく見られる。

先へ進む。千畳敷の上には3つの曲輪がある。千畳敷に近いほうから一の丸、二の丸、三の丸と呼ばれる。一般的には最も高い曲輪を一の丸(本丸)と呼び、以下高い方から二の丸、三の丸とするものだが、あくまで千畳敷目線の命名だ。
②一の丸

一の丸。千畳敷より高い場所にある最初の曲輪。一乗谷城の初期の曲輪だという。義景の時代、一乗谷総構を敵に突破されることを想定しておらず千畳敷を本丸とするならば、ここはただの古い遺構だったのだろう。しかし戦局が悪化した元亀3~4年(1572~1573)に一乗谷城は100条もの畝状竪堀が設けられたので、その際ここも手が加えられたかも知れない。
③二の丸

一の丸のさらに上にある二の丸。藪がひどく、地面はほとんど見えない。やはり山城は冬から春にかけての、草が枯れきった時期に来るべきだ。
④三の丸

三の丸。2段の曲輪からなる一乗谷城の最高地点。初期一乗谷城の本丸と思われる。
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