島原城
| 指 定 | 国指定史跡、日本100名城 |
| 遺 構 | 石垣、堀、[再建]天守、櫓 |
| 歴 史 | 元和2年(1616)、「大坂の陣」での論功行賞により4万3000石で入部した松倉重政が、日野江城と原城の代わりに島原に築いた近世城郭。当時は島原城ではなく森岳城と言った。しかし禄高をはるかに越えた10万石規模の城郭(5層5階の天守や49棟の櫓)を築いたため、領民から過酷な搾取を行うこととなった。 寛永14年(1637)、二代目・勝家の圧政により島原の乱(島原・天草一揆)が起こる。勝家は騒動終息後、江戸幕府の命により斬首された。 |
| 駐車場 | 島原城 – Google マップ |
| 住 所 | 長崎県 島原市 城内1-1183-1 |
| トイレ | 城内にあり |
| 訪問日 | 2025年5月24日(月)雨 |
1.島原城-本丸

島原城は、元和4年(1618)に松倉重政により築かれた。重政の父・重信は大和国(奈良県)の戦国大名・筒井氏の重臣だったが、天正14年(1586)の筒井騒動の際に筒井定次から離反した。この時重政は12歳で、その後の松倉氏の動向はよく分からない。次に歴史に登場するのは慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、父から家督を継いでいた松倉重政(26歳)は、単身徳川方として参陣し武功を挙げた。慶長20年(1615)の大坂夏の陣でも重政(41歳)は徳川方として武功を挙げ、肥前日野江藩4万3000石を与えられた。最初は前藩主・有馬直純のいた島原南部の平山城・日野江城に入ったが、島原東部に平城(当時は森岳城と呼ばれた)を築いて移った。それにより藩名も日野江藩から島原藩へ変更となった。

本丸へは車で入れる。しかしこれは城の虎口ではなく、後世になって無理矢理造られた出入り口だ。城壁を壊して堀を埋めて舗装路を通すという荒技は、美しくはないが合理的ではある。

本丸の南側もしくは南西側にあるのになぜか西櫓と呼ばれる櫓。

西望記念館のある巽櫓。南島原出身の彫刻家・北村西望氏の作品を集めた記念館で、櫓の外にも作品たちがところ狭しと展示されている。最も有名な作品は、長崎平和公園の平和祈念像だ。

島原城といえば「島原の乱」の激戦地のひとつとして知られている。島原領主・松倉重政と息子の勝家、および天草領主・寺沢広高と息子の竪高(唐津藩の飛び地として天草郡を領有)は、領民の生活が成り立たないほど過酷な年貢の取り立てを行っていた。同時にキリシタンの弾圧も行っており、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し、拷問・処刑を施行していた。その反発から島原と天草で同時に発生した反乱なので、近年では島原の乱改め「島原・天草一揆」と呼ばれている。
寛永14年(1637)10月から翌年2月までの4ヶ月間、島原地方と天草地方の農民が起こしたこの一揆は、日本史上でも他に類を見ない異質なものと考えられている。非戦闘民を含む3万7000人が原城址に立てこもり、幕府12万の大軍を相手に合戦を繰り広げた。最後は兵糧が尽きて落城したが、いわば戦争のプロ集団・武士である幕府軍を相手に、農民である一揆軍が圧倒的な寡兵で戦い抜いた。一揆軍のリーダーは、キリシタンの青年・天草四郎だと言われている。そして島原でも天草でも、一揆を主導したのはキリシタンたちだった。

島原の乱を主導したキリシタンたちが何者なのか、島原の乱がなぜ起きたのかを解説するため、少し遠回りになるがキリスト教の伝来と河内キリシタン、そして伴天連追放令について述べる。
1492年にコロンブスが新大陸を発見したことで始まった大航海時代により、ローマ教会とポルトガル・スペイン両王室は、互いに海外進出政策を打ち出した。ローマ教会はポルトガルとスペインが海外の国々を植民地化(征服・領有・貿易)することを認め、ポルトガルとスペインはローマ教会によるキリスト教の宣教を援助した。つまり他国でのキリスト教の布教は、略奪とセットで行われた。
天文18年(1549)、ローマ教会の宣教部門であるイエスズ会から、フランシスコ・ザビエルが来日した。薩摩(鹿児島)に上陸したザビエルは島津貴久に謁見し、キリスト教の布教の許可を得た。そして1年間薩摩に滞在したのち京都へ上洛したが、その頃京都では細川晴元と三好長慶が争っており、布教どころではなかった。ザビエルは九州へ戻り、その後周防へ行き大内義隆から布教の許可を得た。それから豊後の大友義鎮(21歳-のちの宗麟)に布教の許可を得、来日から2年2ヶ月で日本を離れ中国へと旅立った。
ザビエルの後任として九州で活動していたコスメ・デ・トルレスは、ザビエル来日から10年後の永禄2年(1559)に京都での布教を開始した。トルレスが京都へ派遣したのは、イエスズ会宣教師のガスパル・ヴィレラと、肥前出身の盲目の修道士・ロレンソ了斎らだった。その頃ローマ教会から、「現地の状況に配慮して柔軟にキリスト教の布教を行うこと」という指示がきていた。南アメリカでの布教が現地の宗教や文化・文明を根こそぎ破壊し、現地民から強い反発を受けていることへの改善策だった。ヴィレラは日本の僧侶と同じように剃髪し、服装も僧侶に倣って袈裟を着た。そして日本に来る前にインドにいたため「天竺から来ました」と説明した。さらにデウスのことを大日如来と言い換えるなどしたため、京都の人々はキリスト教のことを、臨済宗や法華宗と同じように仏教の宗派のひとつだと勘違いした。そのためヴィレラたちは京都の人々から「天竺人」と呼ばれた。
迫害を受けないよう細心の注意を払って対策し、足利義輝に謁見したヴィレラたちだったが、日本仏教の頂点である比叡山延暦寺や京都富裕層に信者の多い法華宗、そして正親町天皇は強い危機感を抱いたため、結局京都で迫害を受けることになる。ヴィレラたちは時の権力者である三好長慶に庇護を求めた。法華宗たちもまた、三好長慶にキリスト教の排斥を求めた。
自身は日蓮宗でキリスト教に批判的な松永久秀は、ロレンソ了斎を大和国(奈良県)へ呼び、配下の信頼する3人(清原枝賢・結城忠正・高山飛騨守)に取り調べを命じた。清原は儒教・神道・幕府法に精通し、結城は元幕府奉公衆で、高山は久秀と同じ摂津上郡出身で三好長慶の家臣となり、3人とも久秀の与力となっていた。彼らの詰問にロレンソは巧みな答弁で返し、3人を感銘させて逆にキリスト教に入信させた。彼らは武士としてはほぼ初めてのキリシタンで、キリシタン武士の第一世代となる。イエスズ会が拠点としていた豊後国(大分県)では、キリスト教に入信するのは下層民と伝染病患者だけだった。イエスズ会が運営する病院で治療を受けた者が感謝の意から入信するのみで、ほとんどの者はキリスト教を相手にしていなかった。大友宗麟がキリスト教の布教を認めたのも貿易目当だ。最終的には宗麟も洗礼を受けてドン・フランシスコと名乗ることになるが、それはザビエル来訪から27年後の話。
2.島原城-天守

永禄7年(1564)、結城忠正の息子・結城左衛門尉アンタンが、三好長慶にキリスト教の布教に対する承認と保護を求めた。長慶は本拠地である河内国(大阪府東部)の飯盛城にロレンソ了斎とガスパル・ヴィレラを招き、左衛門尉アンタンの要求を認めた。長慶がキリスト教を受け入れた背景は、飯盛城周辺にいる若手武士の間でキリスト教が流行っていたことにある。いまだ戦国の世ではあったが、三好氏の安定した統治によりこの頃の河内は比較的平和な地域だった。領主層の嫡男ではない次男三男は割と暇で、何かしら刺激の欲しい若手が増えてきていた。それにより仏教とは見た目が異なるキリスト教が注目を浴びた。三好政権で地位のある清原・結城・高山の3人がキリシタンになっていることも大きく、若手武士たちはこぞってキリスト教に入信していった。飯盛城周辺の中河内は浄土真宗の根付いていた地域だが、長慶によるキリスト教承認後、三好家臣73名がキリスト教に改宗した。河内は領主層からキリスト教が浸透していくことになる。
余談だが、畿内のキリシタン第一世代のあと2人、清原枝賢と高山飛騨守も、日本のキリスト教布教に重要な役割を果たす。清原の娘・いとはマリアと名乗り、細川藤孝に奉公した。そして嫡男の妻・珠の侍女頭となる。そして珠はマリアのキリスト教に感化されて入信し、その後細川ガラシャとして後世に名を残した。高山飛騨守ダリオの嫡男・高山右近ジュストは父の影響で入信し、その後キリシタン大名となった。そして蒲生氏郷や黒田官兵衛といった同僚の大名を入信させ、キリシタン大名を増やしていった。

永禄8年(1565)の足利義輝の暗殺(永禄の変)、永禄11年(1568)の足利義昭の上洛を経て、元亀4年(1573)以降、畿内は織田信長が支配していった。三好氏滅亡後、三好氏の重臣だった池田教正シメオンは信長に重用された。教正シメオンは若江に教会を建てたり、信長の雑賀攻めに従軍した際に取ってきた鐘を京都の教会に寄付したり、信長から領地を加増されるとその分を貧民救済にあてるなどキリスト教布教に邁進した。それにより河内キリシタンのリーダー的存在へとなっていく。
天正6年(1578)の信長主催の茶会には、関白・近衛前久、細川京兆家当主・細川信良、元幕臣で信長の右筆・松井友閑をはじめ、大名クラスの重臣たち(織田信澄、佐久間信盛、万見重元、堀秀政、滝川一益、細川藤孝、筒井順慶、荒木村次、三好康長)が参加した。その中に教正シメオンの姿もあった。
天正10年(1582)に本能寺の変により織田信長が横死したあと、教正シメオンは河内キリシタンたちとともに河内に勢力を持っていた三好康長に仕えた。その後、康長の養子となった三好信吉(のちの羽柴秀次)の配下へ移ると、河内キリシタンの多くもそれに従った。翌年、羽柴秀吉は織田信孝と柴田勝家を滅ぼし、畿内と近江で大規模な領地替えを行った。大坂城築城に伴う摂津・河内の秀吉直轄領化だった。信吉(秀次)は康長の元を離れて羽柴姓に戻し、教正シメオンらを引き連れて柴田氏のいなくなった近江へ移った。

天正12年(1584)、羽柴秀吉 vs 織田信雄&徳川家康の戦いが始まった。秀吉は伊勢や尾張北部を制圧すると、秀次(16歳)を大将とする2万の軍勢で家康の本拠地・三河国へ攻め込ませた。小牧長久手の戦いである。羽柴軍2万の編成は次の通り。第一隊:池田恒興-5,000人、第二隊:森長可-3,000人、第三隊:堀秀政-3,000人、第四隊:羽柴秀次-9,000人。池田教正シメオンは300人の兵で、他の河内キリシタンとともに秀次本隊に組み込まれた。
池田恒興と森長可が武運なく討死すると、羽柴秀次も家康の急襲を受けて敗走した。教正シメオン隊300人は混乱により秀次本隊から離れ、戦場で孤立してしまった。助かる望みは薄く、教正シメオンは家臣から切腹を勧められたもののそれを拒否。巨大な金の十字架を描いた旗を掲げると敢然と敵中を突破し、堀秀政隊に吸収されて体制を立て直した秀次本隊に合流した。この戦いで、結城ジョアンをはじめとする多くの古参の河内キリシタンが討死したという。だが教正シメオン率いる河内キリシタンたちの勇猛果敢な退却戦は、秀吉からも多大な賞賛を受けた。

天正15年(1587)、九州を平定した秀吉(50歳)は伴天連追放令を発布した。今までイエスズ会を優遇してきた秀吉が方針転換したことにより、キリシタンの運命は大きく変わる。発布の前日に秀吉から日本のイエスズ会を統括する副管区長のガスパル・コエリョに出された「覚」には、三ヶ条からなる詰問が書かれていた。
第一に、イエスズ会はなぜ日本人にキリスト教を強制するのか? なぜ僧侶と協調出来ないのか?
この頃、イエスズ会宣教師が道ですれ違う仏教寺院の僧侶を捕まえ、暴行の末死なせ、亡骸を肥だめに捨てるといった事件が相次いでいた。そしてイエスズ会は、キリシタン大名で南伊勢の国主となった蒲生氏郷に、伊勢神宮の破壊を命じていた。これは伊勢神宮からの訴えで未然に防げたものの、日本仏教の危機的状況だった。
秀吉は続けて、「今後はイエスズ会の活動範囲を九州に限定し、日本の僧侶が行う通常の布教方法以外は許さない。それが不満なら帰国せよ、帰国の船賃は秀吉が出しても良い。」と述べている。
第二に、宣教師らは馬や牛を食するというが、やめてもらいたい
秀吉は、「馬は運送・戦争に使用され、牛は農耕に使用される日本人の財産だ。肉食をしたいのであれば、野生の鹿や豚を提供する用意はある。」と述べている。
第三に、ポルトガルや東南アジアからの渡来者が日本人を大量に買い取り、奴隷として売買している。売却された日本人が帰国出来るよう尽力せよ
奴隷売買の問題は、肥前の戦国大名・有馬晴信が一例として挙げられる。晴信はイエズス会の金銭的および人的援助により龍造寺隆信からの侵攻を食い止め、天正12年(1584)には隆信を討ち果たすことが出来た。それにより晴信はイエズス会の権威を認め、キリスト教の布教を全面的に支援していた。
イエスズ会司祭のディオゴ・メスキータがインド副王との間に生じたトラブルを解決するため、日本の少年少女を奴隷として進呈することを晴信に打診した。晴信は喜んでそれを受け入れ配下の者に指示したが、その際抵抗した母親を殺害してしまうという事件が発生し、民衆から批判が起きた。キリスト教の布教と植民地化がセットで行われていたことは冒頭で述べた通り。イエスズ会にとって布教国での奴隷の搾取は普通のことだった。秀吉は、「奴隷となった日本人の買い戻し費用を負担する用意がある。」と述べている。
しかしながら、イエスズ会副管区長のガスパル・コエリョは牛食のみ認めて今後は食さないことを約束したが、それ以外は完全否定した。それにより、翌日秀吉は伴天連追放令を発布することになった。九州へ追放する対象となったのはイエスズ会宣教師のみであり、修道士や一般のキリシタンは対象としていない。ポルトガルとの貿易は維持したい秀吉にとって、これが精一杯の対応だったのかも知れない。

伴天連追放令の発令後、キリシタン大名たちは冷遇された。代表格である高山右近(35歳)は、キリスト教を棄教して播磨国明石郡6万石の所領を安堵されるか、キリスト教を固持して豊臣政権から追放されるか、秀吉から選択を迫られた。右近が選んだのは後者。浪人となった右近は、隣の讃岐国小豆郡(小豆島)1万石の領主・小西行長(29歳)に庇護され、翌年行長が肥後三郡20万石へ転封になると、加賀の前田利家(48歳)を頼った。
黒田官兵衛(41歳)は播磨国宍粟郡5万石から豊前国12万石へ転封、蒲生氏郷(31歳)は小田原征伐後(3年後)に伊勢国12万3,000石から陸奥国会津郡42万石へ転封となった。数字だけ見ると所領は加増されたが、京都からの距離を勘案すると左遷と考えるのが妥当となる。
羽柴秀次(19歳)に仕える池田教正シメオン(40~45歳?)は、主君に辞意を訴えた。「我らはキリシタンであり、キリシタンとして死ぬ覚悟です。このたび殿下(秀吉)が宣教師を追放し、我らのことも快く思っていないでしょうから、辞去する許可をいただきたい」と。ところが秀次は教正シメオンの信仰を認め、継続して仕えることを認めただけでなく、さらに領地を加増したという。しかし文禄4年(1595)に秀次事件により秀次が自害すると、教正シメオンも歴史の表舞台から姿を消した。
主君秀次を失った河内キリシタンたちはその後、キリシタン大名の小西行長を頼って肥後へ下向した。宣教師たちが皆九州で活動していることと、行長は堺出身であるため親近感があったものと考えられる。三箇頼連マンショ、パウロ伊地知文太夫、結城弥平次ジョルジなど、多くの河内キリシタンが行長の臣下となった。河内以外でも、日比屋了荷ヴィセンテや内藤忠俊ジョアン(内藤如安)などの畿内各地のキリシタン武将が行長のもとへ集った。

キリシタンたちは、ヨーロッパやアジアを往来する宣教師やその関係者とコミュニケーションを取るため、おのずと国際的な言語スキルを身につけていた。文禄元年(1592)に文禄の役(朝鮮出兵)が始まり、小西行長がその先陣を務めると、行長配下のキリシタン武将たちは豊臣政権の外交官として活躍した。
島原名物「具雑煮」

昼食は島原城の目の前にある姫松屋本店で、島原名物の「具雑煮」をいただく。出汁の効いた優しい味わいでした。
原城
| 指 定 | 国指定史跡、続日本100名城、世界文化遺産 |
| 遺 構 | 曲輪、空堀、切岸、虎口 |
| 歴 史 | 南島原の日野江城を本拠とする有馬貴純が、明応5年(1496)に有明海に張り出した丘陵に支城を築いたのを始まりとする。当時は原城(はらじょう)ではなく原の城(はるのじょう)と言った。それから約100年後の豊臣政権時に、有馬晴信が原城を近世城郭へ改修して本拠地を移した。その後有馬氏に代わって入部した松倉重政が島原城(森岳城)を築くと、原城は日野江城とともに廃城となった。 |
| 駐車場 | 原城跡大手口駐車場 – Google マップ 原城跡駐車場 – Google マップ |
| 住 所 | 長崎県 南島原市 南有馬町丁 |
| トイレ | 原城跡駐車場(国道251号線沿い)にあり |
| 訪問日 | 2025年5月24日(月)雨 |
3.原城-三の丸・二の丸

原城跡大手口駐車場からすぐのところに、大手門跡がある。

原城は当時は“原の城”と言い、肥前の戦国大名・有馬晴信により築かれた。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)で小西行長や加藤清正による織豊系築城術を目の当たりにした晴信が、日野江城に代わる本拠地として慶長4年から9年(1599~1604)にかけて築いた近世城郭だ。原城は有明海に張り出した独立丘陵にあり、南北1200m×東西450mと、広大な城域を持つ。陸地である西側は深い水田のためまともに歩くことは出来ず、西以外の北東南は海のため近づくことすら困難な要塞である。大手門・二の丸・本丸とも内枡形虎口となっており、土造りの曲輪をベースとしつつも本丸は総石垣で、高石垣や三層からなる天守があったという。特に本丸虎口は国内最大級と言われている。
元々ここには戦国初期に築かれた日野江城の支城があったとされるが、どのエリアにどの様な城(砦)があったのかは分かっていない。当時の出土物がないことから、物見櫓程度のものだったのかも知れない。

北三の丸の段曲輪。三の丸は大手道を挟み込むように、北西と南東の2つのエリアに分かれている。

三の丸から空堀を介して南側に二の丸がある。

有馬晴信がイエスズ会のお陰で戦国の荒波を生き残れたことは前節で述べた通り。天正12年(1584)の有馬晴信vs龍造寺隆信の戦いは、最初は隆信が優勢だったのだが、イエスズ会の説得によりほとんどのキリシタン武将が晴信側に留まった。そしてイエスズ会から弾丸や火薬の原料となる鉛や硝石を提供され、戦を優位に展開した。それにより隆信を討ち、島原を堅守することが出来た。そのため島原では、領主である有馬氏よりもイエスズ会の権威が上回る事態に陥っていた。島原はもともと伊勢信仰の盛んな地域だった。島原をキリシタン王国にしたいイエスズ会にとって、伊勢神宮は目障りな存在となる。島原での宗教抗争が蒲生氏郷への伊勢神宮破壊命令となり、秀吉の伴天連追放令へつながるトリガーとなった。

慶長17年(1612)、岡本大八事件が発生した。本多正純の家臣による詐欺事件だが、その巻き添えを食う形で有馬晴信は死罪となる。その事件でイエスズ会の関与が疑われたため、徳川家康はキリスト教禁止令を発布した。天正15年(1587)の秀吉による伴天連追放令とは異なり、キリスト教の信仰そのものを全国民に禁止する厳しいものだった。有馬晴信の嫡男・直純は家康の娘婿(家康のひ孫を養女として嫁がせた)のため、有馬氏の改易は免れた。しかし父と同じキリシタンである直純にとって、キリシタンの多い島原でキリスト教禁止令を遵守することは苦痛を極めた。幕府に転封を願い出、慶長19年(1614)に日向国の延岡に5万3,000石の代替え所領を与えられた。
島原4万石から転出する際、有馬直純は当然ながらキリシタンである家臣たちを置いていった。彼らの信仰を否定し、棄教しない者を処罰しなければならない苦痛が、転封を願い出た理由だからだ。有家監物時次も、島原に残った有馬氏家臣のひとりだ。その年の冬と翌夏に大坂の陣があり、その後島原の領主は松倉重政になったが、有家監物はそれには仕えず、島原の地で帰農した。キリシタンである旧有馬氏家臣たちのほとんどが、これを期に帰農したという。キリシタンたちは皆んな、表面上はキリスト教を棄教したことにして、幕府からの弾圧を凌いだ。

それから20年以上経った寛永14年(1637)の10月下旬に、事件は起きた。島原の領主は二代目・松倉勝家になっていたが、宗教弾圧と経済搾取は、父・重政を凌ぐほどだった。この年は飢饉が発生し、例年より厳しさを増していた。キリスト教を棄教した人々(転びキリシタン)は、この苦境を乗り切るため、ふたたびキリスト教を心の拠り所にしていた。しかし転びキリシタンの1人が、キリスト教の礼拝を行っているところを藩の役人に見つかり、身を守るための行動でその役人を死なせてしまった。
この事件をきっかけに、島原の領民たちは立ち上がった。先頭にたったのは、このとき60歳になる有家監物だった。今は農民だが、10代後半のころは文禄・慶長の役(朝鮮出兵)で、主君・有馬晴信に付き従い朝鮮半島で戦った。23歳のときは関ヶ原合戦の東軍として、晴信の陣代を務めた有馬直純(14歳)を支え、西軍・小西行長の宇土城を攻めた。37歳で有馬直純の転封を機に武士を辞めたが、昔取った杵柄は健在だ。転びキリシタンたちは次々と信仰を表明して集まり、藩の拠点である島原城(森岳城)を攻撃した。この話を聞いた天草の転びキリシタンたちもキリスト教を表明し、島原衆に呼応するように唐津藩の天草支配の拠点である富岡城を攻めた。どちらもよく戦ったが城を攻め落とすことは出来ず、幕府軍が後詰めに来るとの情報が入ったため、11月中旬には城攻めを中断した。
そして幕府軍から身を守るため、有家監物たち島原一揆勢は廃城となっていた原城(原の城)に入城した。天守は元和元年(1615)の一国一城令により取り壊されていたが、石垣や空堀はそのまま残っており、城としての機能は充分だった。破城は形式的で軽微なものだったため、門や塀の破壊は一部で、櫓も残っていたのではないかとの説もある。
島原一揆勢から連絡を受けた天草一揆勢も海を渡って原城へやってきた。天草一揆のリーダーは益田甚兵衛好次(54歳)といい、やはりキリシタンだった。若い頃に小西行長の右筆を務めており、17歳だった関ヶ原合戦では、行長の側近の1人として活躍した。しかし関ヶ原で敗れ、死罪となったため小西家は改易。甚兵衛は浪人となり、天草の地で帰農した。有家監物はその戦いでは行長の城を攻めており敵同士だったが、今は志を同じくする仲間だ。
4.原城-本丸

土橋を渡った先の曲輪。正面にあるのは本丸の石垣で、廃城前は恐らくこの上に多聞櫓が建っていたのだろう。

本丸の縄張り図。①~③の門があるエリアが全て枡形虎口で、本丸の半分近くを占めている。この巨大さは、国内最大級だという。枡形虎口の内外の敵を、多聞櫓から攻撃するのだろう。搦手口である池尻口門から犬走りを通って本丸正門の敵を背後から急襲することも可能になっている。

12月上旬に幕府軍が原城に到着し、戦いが始まった。司令官の板倉重昌が何度か攻撃を繰り返したものの、戦の経験があり軍の統率を心得ている有家監物や益田甚兵衛がいる一揆勢は士気が高く、諸藩の寄せ集めである幕府軍では太刀打ち出来なかった。年を越した元旦に幕府軍は原城へ総攻撃を仕掛けたが、無策で闇雲な攻撃だったため強烈な反撃を食らい、甚大な損害とともに司令官の板倉重昌まで討死してしまった。幕府軍の指揮は、戦後処理のために江戸から来ていた松平信綱が引き継いだ。そして戦術を兵糧攻めに変更した。

松平信綱は12万人の幕府軍で原城を包囲し、原城の兵糧が尽きるのを待った。城の北東南は海で、唯一陸地である西側は深い水田になっており、容易には近づけない。城へ入るのが困難ということは、裏を返せば城から出ることも困難ということになる。
幕府の兵站部隊は、大工や鉱山職人を多数同行させていた。メインの出入り口である原城大手門の正面に、2kmに渡る柵を建てた。城内からの脱出や出撃をこれで防いだ。西側の水田には城へ向かって縦1列に土嚢を埋めて、城までのアプローチルートを造った。望楼に板を打ち付けた可動櫓を何基も作製し、城内からの銃撃や投石を防ぎながら偵察を行った。さらには城の下に向かって横穴を掘り、井戸水脈の破壊を試みた。
兵站部隊の主たる業務は食料の搬入である。戦場には毎日のように大量の食料が運び込まれた。戦闘のあった日は、玄米で1人1日9合、行軍のあった日は7合、何もない日は5合が支給された。掛ける12万なので、すさまじい量の食料である。何もない日で1日90トンの米が支給されていたことになる。

12万の人間が一つの場所に長期滞在するとなると、それを目当てに色々な輩が集まってくる。食料を運搬してきて売る農民たち。戦闘に必要な武具や備品を作り、補修や技術提供する職人たち。商人たちは様々な物販をはじめ、遊郭の仮説住宅もできた。日本各地から功を得ようと浪人が集まり、出兵の指示がなかった藩は陣中見舞いと称して軍勢を派遣した。浪人と諸藩の軍勢だけで3万人はいたという。その周りの庶民と、原城の一揆勢3万7,000人を加えると約20万人になる。当時の日本列島の人口が2,000万人というから約1%、日本人の100人に1人はここに集まっていた。原城周辺は異様な大都市と化していた。

一方、原城に籠もった一揆勢はというと、入城のさい飢饉で食料が少ないなか手当たり次第に食料・物資をかき集めたが、それが全てだった。食料も武器も補給のあてはなく、時間が経つにつれて減っていき、不利になっていく。
城の外周は、大砲や鉄砲の攻撃に備えて土俵を積んだ土手や竹で補強した塀で遮蔽した。冬季なので暖を取る必要があったが、燃料不足のため小屋の柱を薪とした。住居は縦穴を掘って地下に住むことでまかなった。

2月下旬、一揆勢は成年男子に有志を募り、城を囲む幕府軍へ夜襲を仕掛けた。しかし失敗し、一揆勢に多数の犠牲者が出た。それから一週間後の2月末日、幕府軍の総攻撃が始まり、原城は陥落した。一揆勢3万7,000人はほぼ全員殺された。

籠城する一揆勢は、日が経つにつれて不利になっていく戦況を実感していた。城には様々な人がおり、キリシタンも仏教徒も老若男女とも、皆んなおびえていた。彼らを支え、教え導いて安寧を与えたのは、天草一揆勢のリーダー・益田甚兵衛の息子だった。名を益田四郎時貞といった。16~17歳のこの少年は、一揆勢の心の拠り所となった。

島原一揆勢で有家監物に次ぐ副将格だった山田右衛門作は、幕府に内通して城内の牢屋に捕らわれていたため、唯一生き残った人物として知られている。それにより、城内の様子を後世に伝えることが出来た。
「天草の四郎こそ、一揆の本当の指導者だった。」と右衛門作が言ったかどうかは定かでないが、天草四郎時貞が島原の乱(島原・天草一揆)の中心人物だったと伝わっている。

池尻口門跡。

池尻口門跡から見る原城。奥の丘陵は二の丸で、手前の低地は蓮池跡。今は畑になっているが、土の中から大量の人骨が発見されたという。戦のあとは戦死者を埋葬するのが慣わしだが、島原の乱では死者を放置していたことが分かる。江戸幕府の怒りのすさまじさが窺える。

終戦後、原城は徹底的に破壊された。

城巡りのあとは、雲仙岳にある小地獄温泉で。

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