① 滝山城と八王子城が築城された理由
② 武蔵守護代・大石氏の歴史
③ 日本三大奇襲「河越夜戦」について
④ 北条氏照と北条氏規、明暗を分けた兄弟
⑤ 北条氏照と妻・比左の物語
滝山城
| 指 定 | 国指定史跡、続日本100名城 |
| 遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、縦堀、馬出、土橋、桝形虎口、井戸 |
| 駐車場 | 滝山観光駐車場 – Google マップ |
| 住 所 | 東京都 八王子市 丹木町3-81 |
| トイレ | 駐車場近くのコンビニ & 城内(中の丸) |
| 訪問日 | 2025年12月28日(日)快晴 |
| 形 態 | 平山城址 | 難易度 | ----- |
| 比 高 | 80m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
| 蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
| 駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
| 高 さ | 10m / 20m | ||
| 所要時間 | 2分 / 15分 | ||
1.大手口~千畳敷

秋川と多摩川の合流地点より南側に広がる加住丘陵に、滝山城はある。城の歴史について詳しいことは分かっておらず、確実なのは小田原北条氏の一門衆である北条氏照が城主だったことだけのようだ。滝山城案内板に書かれた八王子市の見解によると、戦国中期の大永元年(1521)に大石定重(54歳)により築かれている。(当ポストではこの大石定重築城説で解説する。)
大石氏は武蔵国西部の国衆で、関東管領・上杉氏に従属していた。上杉家臣団の中では白井長尾氏に次ぐ№2だったが、定重の代で長尾氏を追い抜き筆頭重臣となり、武蔵守護代に補任された。もともとは同じ加住丘陵の北端にある高月城を居城としていたが勢力拡大により手狭になったため、複雑な地形を巧みに活かし、広域におよぶ滝山城を新たに築いた。

車は大手口側にある滝山観光駐車場に停めさせていただいた。利用時間は朝8時~夕方4時。3月~10月は夕方6時まで利用可能となっている。

大手口から天野坂と呼ばれる急坂を登っていく。ここが大手道のようだ。

大石氏の動向を知る上で重要な河越夜戦について、戦の背景から述べる。
延元元年(1336)に足利尊氏により京都に室町幕府が開かれた際、関東地方を統治する機関として鎌倉府が置かれた。相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐の10か国を有する鎌倉府は、尊氏の四男・基氏がその長官である鎌倉公方に就任し、子孫が代々その職務を受け継いだ。享徳3年(1455)の「享徳の乱」後、相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)から下総国古河(茨城県古河市)に本拠地を移してからは古河公方と呼ばれた。その鎌倉公方、古河公方の家宰(執事)として国政を取り仕切った役職が関東管領であり、上杉氏が一手に引き受けていた。将軍の家宰で畿内を取り仕切った管領が3氏(斯波氏・畠山氏・細川氏)による持ち回りだったこととは対照的だ。上杉宗家は山内上杉氏と呼ばれ、上野国南部にある平井城(群馬県藤岡市)を本拠としていた。主だった分家に扇谷上杉氏と越後上杉氏がおり、前者は武蔵国北部にある河越城(埼玉県川越市)を、後者は越後国府中にある上杉館(新潟県上越市)を本拠としていた。

天文6年(1537)、扇谷上杉氏の当主・上杉朝興(49歳)が病死した。跡を継いだ嫡男・朝定がまだ12歳の若年だったため、対抗勢力で小田原城(神奈川県小田原市)を本拠とする北条氏綱(50歳)に攻められ、本拠である河越城を奪取された。翌年上杉朝定は家臣たちに支えられ、河越城を奪還するため挙兵したが、望み叶わず敗退した。その3年後に北条氏綱が亡くなると、朝定は好機とみて再度河越城を攻めたが、またしても取り返せなかった。北条氏の勢力が増していく中、朝定は単独では勝てないと悟り、それまで敵対していた古河公方の足利晴氏や山内上杉氏の上杉憲政と和睦した。
それから4年後の天文14年~15年(1545~1546)にかけて、上杉朝定(20歳)は足利晴氏(37歳)や上杉憲政(22歳)とともに、北条氏(当主は氏康-30歳)の所領となって久しい河越城を攻めた。このときの河越城の戦いについては記録はほとんど見つかっておらず、その経緯は江戸期の軍記物でしか知りえないようだ。結果として、北条氏康が上杉方を討ち破り、上杉朝定は討死。足利晴氏と上杉憲政もその勢力を大きく削がれた。
特に最後の攻防は「河越夜戦」と呼ばれ、日本三大奇襲のひとつに数えられている。余談だがその3つを以下にまとめた。対抗勢力のカッコ数は参加人数で、厳島と桶狭間は戦全体数ではなく局地戦での人数になる。
発生年:天文15年(1546)
対抗勢力:北条氏康(1万1,000) vs 上杉朝定・足利晴氏・上杉憲政(8万6,000)
結果:北条氏康の勝利。上杉朝定の討死、足利晴氏の北条氏への降伏、上杉勢力の弱体化。
発生年:天文24年(1555)
対抗勢力:毛利元就(6,000) vs 陶晴賢(1万)
結果:毛利元就の勝利。陶晴賢の討死、陶氏と大内氏の弱体化。
発生年:永禄3年(1560)
対抗勢力:織田信長(2,000) vs 今川義元(6,000)
結果:織田信長の勝利。今川義元の討死、今川氏の弱体化。
この3つに共通するのは、少人数で大軍を撃破し大将首を取ったことだろう。しかしながら、戦で勝つための大原則は数で相手を上回ることなので、内応や情報戦での明確なアドバンテージがなければ勝てる道理はない。最新の研究では、3戦とも人数に関しては創作だと言われている。

向かって左側は小宮曲輪、右側は三の丸。大手道はその間を通っており、両曲輪を通過する地点に桝形虎口の大手門があった。

大手門とその先の千畳敷を連絡するコの字型土橋は、左に大きく膨らみ2段階にクランクする動線で堀を迂回させ、側面攻撃を可能にしている。

河越城を巡って扇谷上杉氏と北条氏が抗争をつづけていたころ、大石氏の当主は定重の子・定久だった。そして北条氏綱が河越城を奪取したあとの天文6年~10年(1537~1541)の間に、大石定久は山内上杉氏と手を切り、北条氏の傘下に入っている。北条氏の小田原城、北条氏が扇谷上杉氏から奪取した河越城、山内上杉氏の平井城、そして大石氏の滝山城のそれぞれの位置関係を見ると、その理由は明白だろう。滝山城は小田原城と河越城を直線で結んだ中心にあり、平井城はそれらの城よりずっと北にある。北条氏の勢力圏内にいる大石氏が山内上杉氏の支援を期待出来ないのなら、北条氏に降るしか生き残るすべはない。河越夜戦においても、大石定久(54歳)と定久の子・綱周(29歳?)は、北条方として戦った。

千畳敷は、一辺が約60mの正方形に近い形をしており、滝山城で最も広い曲輪になる。千畳は1650㎡なので、3600㎡あるこの曲輪は二千畳敷と呼ばれるべき広さだ。

千畳敷北側にある弁天池跡。今は水はなく、大きな凹みになっている。二の丸の南東部にも大池があり、滝山城を要塞たらしめる特徴のひとつだろう。
2.二の丸~中の丸

千畳敷の東側一角に設けられた、二の丸西側の角馬出。二の丸には主に3つの馬出があり、あと3つは南側の「大馬出」東側の「東馬出」。二の丸の北側は、中の丸→本丸へと続いている。

河越夜戦から10年後の弘治2年(1556)、当主となっていた大石綱周(40歳?)は北条氏康の子・氏照(14歳)を養子にした。氏康から持ち掛けたのではなく、大石側から願い出たのが有力とされている。綱周は嫡男の定仲(22歳)を差し置き、北条の子を娘婿として迎え入れて大石氏当主の座に就かせることを選んだ。このあとすぐ、綱周は歴史の表舞台から姿を消す。病床にあった綱周が、古河公方や上杉氏に代わって関東一円を支配せんとする北条氏の一門衆になることで、家の安定した存続を図ったのだろうか。

滝山城は、大石氏を継いだ北条氏照の城として知られている。(煩雑を避けるため、人物名は元服前でも元服後の諱で記す。)
氏照は、北条氏康とその正室・瑞渓院(今川氏親の娘)の子として生まれた。上に氏親と氏政のふたりの兄がいたため当主になる可能性はほぼなく、一門衆として兄に従うポジションだった。しかし天文21年(1552)に嫡男・氏親が若くして亡くなるとスペアの氏政が嫡男に繰り上がり、氏照はスライド式にスペアに繰り上がった。

弘治2年(1556)氏照14歳のときに、北条氏康のもとに大石氏から養子の要望が来た。このころ甲相駿三国同盟により氏康の娘(早川殿)が今川義元の嫡男・氏真に嫁ぐことが決まっていたが、まだ幼少のため同盟の証人として氏照のすぐ下の弟・氏規が代わりに駿府へ出向していた。なので小田原にいた氏康の息子たちは、嫡男・氏政(17歳)、氏照(14歳)、氏邦(8歳)、景虎(2歳)の4人。先述の大石側の理由により、なるべく早く成人して大石氏を統率してくれる者が欲しかったため、氏政以外で最年長の氏照が選ばれた。氏照は大石氏を継いだことでスペアを解除され、一門衆として家臣側に回ることになる。氏邦と景虎は庶子のためスペアになることはできず、その後駿府から帰ってきた氏規がスペアの座に就いた。
歴史にタラレバはないが、長男の氏親があと1年長生きしていれば駿府の証人は氏照が選ばれ、大石氏の養子は急がなくて良いのであれば8歳の氏邦が選ばれ、氏照のその後の人生は全く異なるものになっていただろう。

二の丸堀外にある案内板の縄張り図。信玄の城に比肩する馬出だ。本丸へ連絡する北側以外の全方向に馬出があり、出撃路が張り巡らされている。

氏照とその正室の比左(綱周の娘)は、仲睦まじかったという。氏照が大石氏を継ぐことが決まったとき、氏照は14歳、比左は9歳だったため、すぐに祝言は挙げず婚約という形になった。祝言までの4年間は、比左は小田原で氏照とともに過ごした。
永禄3年(1560)、氏照(18歳)と比左(13歳)が祝言をあげた年、越後の長尾景虎(30歳-のちの上杉謙信)が関東に攻め込んできた。北条氏に敗れて関東を追われた山内上杉憲政は越後の長尾景虎を頼り、関東管領上杉氏の名代という大義名分を掲げた関東入りだった。景虎は上野・武蔵の国衆たちを次々に攻略し、翌年春に越後へ帰った。
北条氏康(45歳)は上杉方となった上野・武蔵の国衆たちを再度攻略し、次々に北条方へ従属させた。しかし勝沼城(東京都青梅市)の三田氏は上杉方から翻意しなかったため、攻め滅ぼした。大石氏と領地を隣合う三田氏は、北条氏が大石氏を優遇し三田氏を冷遇(比較論だろう)していることに不満があったようだ。
大石氏の領地は八王子であり、氏照は最初はその中央の山麓にある由井城(浄福寺城)に入った。しかし三田氏滅亡後に八王子の北に隣接するその領地が大石領に接収されると、そちらにも目が届きやすい滝山城へ移った。大石氏の運営は父・氏康が取り仕切り、氏照はその傍らで領主経営を学んだ。前年に北条氏の当主は氏政に引き継がれていても氏康が権力を握っていることに変わりはなかったが、当主の仕事をふたりで分担できるので、割と時間は取れたのかも知れない。

永禄11年(1568)、甲斐の武田信玄(47歳)が今川氏の駿河へ侵攻した。甲相駿三国同盟は8年前の桶狭間の戦いで今川義元が敗死したことでパワーバランスが崩れ、この年義元の母で駿河の女帝・寿桂尼(80歳?)が亡くなり今川氏は求心力を失った。北条氏康の娘・早川殿(21歳)は今川氏当主・氏真(30歳)の正室だったため、氏康(53歳)は信玄の駿河侵攻に激怒した。信玄との同盟を破棄し、信玄と戦うため越後の上杉謙信(38歳)と同盟を結んだ。そして氏真と早川殿救援のため、4万5,000の軍勢で北条氏政(29歳)に駿河へ向かわせた。
今川氏真は駿河を失い遠江の掛川城で徳川家康と戦っていた。信玄が掛川へ圧力をかけてきたので、家康は氏真と和議を結ぶ方向へシフトした。そして氏真は家臣たちの助命を条件に城を開城し、掛川まで駆け付けた北条氏政に保護され、妻・早川殿とともに小田原へ向かった。信玄は標的(氏真)がいなくなったので、北条氏と戦うことは避け、甲斐へ帰国した。駿河侵攻については滝山城や氏照とは関係が薄いので詳細は割愛する。詳しくは【遠江:掛川城】で。

永禄12年(1569)、武田信玄2万の軍勢が今度は小田原へ向けて侵攻してきた。甲府を出発した信玄は、信濃小県から碓氷峠を越えて上野へ入り、武蔵へ南下した。南の小田原を攻めるのに一度北上するというトリッキーな進軍は、信玄の十八番だ。信玄は小田原の前に氏照のいる八王子を標的にした。そして多摩川を挟んで滝山城の北側の拝島に陣を敷いた。氏照は2,000人の軍勢を城内に配置し、信玄の動きに警戒した。
そんな中、武田別動隊の小山田信茂率いる1000人が八王子の南西側にある小仏峠から侵入し、廿里付近で廿里砦の北条方の守備軍と戦闘になった。未整備の間道だったため守備は手薄で、小山田軍は廿里を突破して八王子の村々を蹂躙しながら滝山城を南から攻めてきた。
多摩川対岸の拝島にいる2万の信玄軍に全集中していた滝川城の兵たちは、予想外の方向から敵が来たことで慌てた。その乱れを逃さず、信玄は一気に川を渡り滝山城を攻めた。戦いは信玄ペースで進み、滝山城三の丸まで攻め込まれたものの、氏照は二の丸を死守し、かろうじで滝山城を守りきった。

滝山城攻めを諦めた信玄は兵を引き、本来の目的地である小田原へ向かった。北条氏康-氏政のいる小田原城は、鉄壁の総構えを持つ堅城。過去には上杉謙信の10万の兵を完全にシャットアウトしている。信玄もそのことはよく分かっており、総構えの近くに布陣し、北条方を挑発するだけだった。城から出なければ負けることはないので、北条方は一切動かない。信玄はしばらくして甲斐へ帰国した。
甲斐の帰路にある三増峠に、氏照と氏邦の2万の軍勢が待ち構えていた。更に武田軍退却後、十分時間を空けて北条氏政2万が追撃を開始した。しかし信玄は最初からその北条氏の動きを想定しており、軍隊を3つに分けるというトリッキーな動きで北条軍をかく乱した。武田軍にダメージを負わせることはできたものの、それ以上に北条軍の被害があり、三増峠で挟み討ちにする北条氏康の作戦は失敗に終わった。
3.本丸

中の丸と本丸を連絡する曳橋。

堀から見上げた曳橋。曳橋は有事のさいには引き落とし、動線を完全に断ってしまう橋だ。

曳橋の先の本丸入口は桝形虎口になっている。

氏照が元服する前から甲相駿三国同盟が結ばれており、武田氏が敵になることを想定していなかった。滝山城は八王子の村々の北端にあるため、甲斐と国境を接している南西側の小仏峠から敵に侵入されると、成す術はない。八王子の防御ネットワークの見直しが急務だった。
氏照が出した結論は、滝山城を凌ぐ山城を小仏峠の近くに築き、滝山城との2城体制にするというものだ。小仏峠に最も近いのは廿里砦だが、海抜240mのこの山では監視範囲に限りがある。その奥の深沢山なら海抜470mで、小仏峠からの間道を見下ろすことも出来るため、ここに城を築くことにした。

本丸井戸。

本丸は下段と上段の2つのエリアで構成されている。

本丸上段曲輪。

本丸上段曲輪からの景色。滝山城の北東側は多摩川が流れている。
八王子城
| 指 定 | 国指定史跡、日本100名城 |
| 遺 構 | 曲輪、石垣、堀、井戸、竪堀、虎口、礎石、[再建]曳橋、冠木門、木塀 |
| 駐車場 | 八王子城跡公園駐車場 – Google マップ |
| 住 所 | 東京都 八王子市 元八王子町3-2727 |
| トイレ | 八王子城跡ガイダンス施設内 |
| 訪問日 | 2025年12月28日(日)快晴 |
| 形 態 | 山城&主殿址 | 難易度 | ★★--- |
| 比 高 | 240m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
| 蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
| 駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
| 高 さ | 20m / 200m | ||
| 所要時間 | 5分 / 30分 | ||
4.山城エリア

八王子城跡ガイダンス施設に隣接する八王子城跡見学者専用駐車場。滝山城から車で約30分のところにある。

八王子城は御主殿跡の居館地区と山城跡の要害地区があるので、先に山へ登ることにした。

尾根の途中にある曲輪・金子曲輪。天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、氏照の家臣・金子三郎右衛門家重が守備していたと言われている。いくつかの段曲輪で構成されており、敵はここを攻略しないと主郭部へは進めない。

山の八合目にあるこの曲輪は柵門跡と呼ばれている。詳細は不明だが、主郭部を守る重要な拠点だったことは間違いないだろう。

深沢山に新たな本城を築くにあたって氏照がまず行ったのは、家の分割だった。本拠地を移動しても滝山城は今まで通り維持したいため、大石氏の家督を比左の兄・定仲に譲り、自らは別家を立てる。大石氏照から北条氏照へ姓を戻し、北条氏の分家となる八王子北条氏を興した。恐らく最初の本拠地である由井城(浄福寺城)に入ったと思われる。深沢山の新城・八王子城は、元亀2年(1571)から築城が開始されたが、すぐに頓挫した。この年北条氏康が亡くなると、氏政がすぐに武田信玄と和睦したからだ。甲斐からの脅威が無ければ八王子城は急ぐ必要がない。
八王子城の本格的な築城が始まったのは、天正6年(1578)のこと。この年に越後の上杉謙信が亡くなり、ほどなく御館の乱が勃発した。一般的には「謙信の養子である景勝と景虎による家督争い」と言われているが、実際は発端も目的も全く異なる政治的な事件である。詳細は【越後:春日山城】で。

北条氏も武田氏も、上杉氏の越後を二分する内乱に大きく巻き込まれ、その先の展開次第では北条氏と武田氏(当主は武田勝頼)が敵対する可能性は大いにあった。甲斐からの脅威に備え、八王子城の築城は急務となる。

八王子城主郭部。正面を登れば本丸、左へ登れば二の丸に相当する“松木曲輪”、右へ登れば三の丸に相当する“小宮曲輪”がある。秀吉による小田原征伐の際の守備には、本丸は横地監物吉信が、松木曲輪は中山勘解由家範が、小宮曲輪は狩野一庵がそれぞれ就いた。

左へ進み松木曲輪へ。二の丸に相当すると言われている。

松木曲輪から八王子神社と横地社のある曲輪へ。ここはまだ本丸ではない。二の丸の延長のような曲輪なので、二の丸上段曲輪とでも呼ぶべきか。

神社曲輪は神社下段の曲輪から階段で直接登れるが、恐らく当時は切岸だったのだろう。松木曲輪を経由しないとここには来れなかったと考えるのが自然だ。その際、背後の小宮曲輪への警戒が必要となる。

神社曲輪の上にある本丸。八王子城は天正6年(1578)から本格的に築城が開始され、9年後の天正15年(1587)に完成したという。その間八王子に戦火が及ぶことはなかったが、他国では大事件が次々に起きた。
| 発生年 | 出来事 | 内容 |
|---|---|---|
| 1579年 | 御館の乱終結 | 景勝が上杉氏の当主となる。北条氏政の末弟・景虎は自刃し、北条氏は上杉氏とも武田氏とも敵対する |
| 1580年 | 北条氏、織田氏に従属 | 朝廷から官位奏請権を得た織田信長が足利氏に代わる武家の棟梁として全国的に認知されたことで、北条氏政もそれに協調した |
| 1582年 | 武田氏滅亡 | 織田信長に攻められた武田勝頼が嫡子・信勝とともに自刃した |
| 本能寺の変 | 織田信長と信忠が明智光秀に討たれた | |
| 1584年 | 小牧・長久手の戦い | 織田氏との抗争に終止符を打った羽柴秀吉が天下人へ向かう |
| 1585年 | 紀州・四国征伐 | 秀吉は対抗する勢力を武力で討伐した |
| 1586年 | 豊臣政権確立 | 秀吉は天皇から“豊臣”の姓を賜り太政大臣に就任し、豊臣政権を確立させた |
| 1587年 | 九州平定 | 秀吉は九州を平定し、事実上日本の国王になる |
そして天正18年(1590)、ついに北条氏が秀吉の標的となる。
5.居館エリア

八王子城を降り、続いて居館跡へ向かう。

ナオのいる辺りに大手門(薬医門)があった。

北条氏政は豊臣秀吉から上洛を求められており準備を進めていたが、名胡桃城事件が起きたことで窮地に立たされた。
これにより、上洛したところで拘束・切腹・領地没収の可能性が大きく、氏政は動くことが出来なくなった。そして天正18年(1590)、秀吉による小田原征伐が始まった。そもそも名胡桃城事件は秀吉の仕組んだ罠だった。氏政の認識では、秀吉の裁定により名胡桃城は北条方の領地となったのに真田方の武将が居座り続けているため、家臣に命じて血を流さず謀略で城を奪取した、ということだった。
秀吉の号令により、20万人を超える軍勢が小田原城とその支城の周辺に集結した。対して北条方の軍勢は8万2,000人。これは一合戦の参加人数としては日本史上最大となる。以下の表から、次点の関ヶ原の戦いや島原の乱と比べて断トツに多いことが分かる。一大名だけで8万人超を動員した北条氏がいかに強大だったかが、この表の特筆すべき点だろう。北条氏領250万石は伊達ではない。秀吉は最初から北条氏を潰すつもりで2年前から小田原征伐を準備していたという説に信ぴょう性を感じる。
| 合戦名 | 勢力 | 各参加人数 | 合計人数 |
|---|---|---|---|
| 小田原征伐 | 豊臣秀吉 | 208,000人 | 290,000人 |
| 北条氏政 | 82,000人 | ||
| 関ヶ原の戦い | 徳川家康 | 75,000~80,000人 | 155,000~165,000人 |
| 石田三成 | 80,000~85,000人 | ||
| 島原の乱 島原天草一揆 | 江戸幕府 | 120,000人 | 157,000人 |
| 一揆勢 | 37,000人 |

秀吉の基本戦略は、主力は畿内から小田原へ進軍し、行く手を阻む山中城・韮山城・足柄城を武力で突破して小田原に着陣。同時に水軍は伊豆半島を回り込んで相模湾に展開し海上経路を封鎖、北関東からも同時に圧力をかけるというものだった。 北条はというと、氏照や氏邦は駿河での野戦を主張したが、氏規や重臣の松田憲秀らは籠城策を主張し、小田原城籠城となった。氏政は北条方の各諸将に命じ5万余の兵力を小田原城に集め、そこから精兵を抽出して戦場となる三城に配置した。関東内の各支城は主力を小田原に引き抜かれた留守居部隊となったが、普段は戦に参加しない老壮年の兵などで頭数を賄った。守備し切れるとは思っていないが、少しでも豊臣軍を足止めして北条氏の恩顧に報いようと考えた。
北条氏照も小田原城に参陣することになった。八王子城に残る家臣は、先に述べた横地監物・中山勘解由・狩野一庵らだ。そしてもう1人興味深い人物が、氏照の妻・比左である。比左には八王子城落城時に滝で自害した説と、小田原征伐を生き延び、出家して氏照と八王子城で亡くなった人々を弔ったという説がある。後者の場合は、恐らく氏照とともに小田原城へ行き、小田原城開城後に氏政・氏照と松田憲秀らは切腹させられたが、その他の者たちは助命されたので、出家して菩提を弔ったということになる。前者の場合はどういうことになるだろうか? 氏照と主力部隊は小田原城へ詰め、横地らは八王子城に残った。八王子城で豊臣軍の攻撃を防ぎ切ることは想定されておらず、討死にありきの留守居部隊だ。比左も八王子城に残ったということは、つまり比左は最初から死を選んだことになる。

資料がないため想像で再建された曳橋。橋の下にも道があるが、これは江戸期に造られたものなので戦国期には無く、曳橋を渡らなければ居館へは入れなかった。

曳橋を渡った先の動線は、クランク状に右へ左へと折れ曲がっている。

その先は石段になっており、中央の踊り場には櫓門が建っていたという。

大名の妻というとドラマ・映画などで描かれる江戸期の武家をイメージしがちだが、戦国期は女でも城に詰めて戦に参加していた。氏照クラスの大名の妻であれば、戦に参加し、当主の代わりに指揮を執ることは珍しくない。氏照と比左のあいだには娘ひとりしか恵まれなかったが、氏照は生涯側室は持たず、兄・氏政の子を養嗣子としていた。この2人は幼少の頃より心を通わせ合い、互いに信頼し合い、最強のバディであったのではないかと思う。氏照が城外へ出たさいには、氏照の考えを誰よりも理解している比左が名代となり、家臣に指示している姿は想像に難くないだろう。氏照家臣のひとり横地監物が城代となり、同じ氏照家臣の中山勘解由や狩野一庵に指示したと考えるよりよほど自然である。

八王子城を取り囲んだ豊臣方の軍勢は、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの部隊1万5,000人。対して八王子城は、城兵の大半は氏照とともに小田原へ出陣したため残った現役の武士はごく一部で、老壮年の兵と領内から保護された領民(女性や子どもを含む)を加えた約3,000人が立て籠った。豊臣軍から降伏勧告の使者がやってきたが、比左はそれを殺害し、徹底抗戦を選んだ。
夜の濃霧のなか、豊臣軍は東正面の大手口と北側の搦め手口の2方向より攻めてきた。先陣を切ったのは先に投降した北条氏の元家臣たち1万5,000人で、戦いは熾烈を極めた。両軍とも多数の死傷者を出す激戦となったが、日暮れ前に城は陥落し、中山勘解由と狩野一庵は討死、横地監物は残兵とともに城から抜け出し多摩の山奥へ向かったが、途中で逃げ切れず自害したという。
比左は自らの役割を全うし、城を枕に自害した。享年43歳。

御主殿跡の礎石。御主殿は政庁としても使用されていた。公私は明確に区分されるものなので、同じ建物であっても居館エリアと政庁エリアは分けられているものだが、詳細は分からないようだ。

会所跡。主殿で儀式を終えた後に宴会を催した場所という。

御主殿跡から見る曳橋

御主殿の滝。八王子城が落城した際、御主殿にいた女・子供・将兵たちは滝のそばで自刃し、滝底へ身を投じた。川の水は3日3晩、血で赤く染まっていたという。

豊臣軍は小田原城総構の周囲に布陣し、海路もすべて封鎖して城内の兵糧が尽きるのを待った。日本の王である豊臣秀吉には潤沢な財源・人員・物資があり、250万石の北条王国といえども抗うことはできなかった。家康や東北の勢力の救援も期待できなかったため、北条氏政は降伏し小田原城を開城した。氏政と氏照は切腹を命じられ、北条氏当主・氏直(氏政の嫡男)と氏規は高野山に蟄居させられた。翌年に氏直は1万石を与えられ、豊臣大名として復活した。その後氏規の嫡男・氏盛が宗家を継ぎ、北条の血脈は幕末まで続く。
切腹させられた氏照と生き残り血脈をつないだ氏規。現代の感覚では「暗」と「明」だろう。しかし八王子城に残って徹底抗戦した比左の生きざまを見れば、北条一門衆筆頭・八王子北条氏としての矜持は自分の命より大事だったのではないかと思う。氏照と比左は一片の悔いなく、武士の人生を全うしたのではなかろうか。

お昼ご飯は、八王子の名店「味の昌久」で。
① 滝山城は大石氏の勢力拡大により、八王子城は武田氏の備えとして築城された
② 大石氏は関東管領・山内上杉氏の重臣として勢力を伸ばしたが、台頭する北条氏の一門衆になることでその地位を確実なものにした
③ 河越夜戦の奇襲は創作。兵力で優っていたため勝利した
④ 生死を明暗と捉えるのは現代人の偏見。氏照も氏規も自分の運命に生きた
⑤ 氏照も比左も武士の矜持を貫いた

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