【石見:七尾城&津和野城】石見の両雄、益田藤兼の七尾城と、吉見正頼の津和野城へ登る

西国
津和野城-三の丸から見る人質曲輪と本丸の石垣
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トピックス

① 父が当主の座を辞退した益田藤兼の継承の真相

② 益田宗兼と尹兼も参加した大内義興の上洛戦

③ 「大寧寺の変」後の益田藤兼の動向

④ 「大寧寺の変」後の吉見正頼の動向

⑤ 千姫事件について

七尾城

指 定国指定史跡
遺 構曲輪、土塁、堀、井戸、居館跡、大手門(移築)
駐車場住吉神社 一の鳥居 – Google マップ
住 所島根県 益田市 七尾町4-44
トイレ住吉神社の駐車場にあり
訪問日2026年4月5日(日)晴れ
形 態山城址難易度★----
比 高100m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類-見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ60m / 40m
所要時間7分 / 8分

1.住吉神社

住吉神社二の鳥居と駐車場

県道54号線沿いにある一の鳥居を車でくぐり、参道脇の駐車場に停めさせていただく。参道正面の二の鳥居から続く階段を登っていくと中腹に住吉神社があり、その先に石見いわみ七尾ななお城はある。

七尾城は石見最大の国衆・益田ますだ氏の本城である。石見益田氏の当主は初代・益田国兼くにかねから数えて20名いるが、最も有名なのは19代の益田藤兼ふじかねと20代の益田元祥もとよしだろう。天文13年(1544)藤兼15歳のとき、益田氏17代当主・益田宗兼むねかね(藤兼の祖父)が死去した。通常であれば子の尹兼ただかねが次期当主になるのだが、すでに40代後半だった尹兼は、自分(子)を飛ばして孫の藤兼に当主の座を譲ったという。益田家の伝記や系譜では、尹兼が藤兼の資質を見抜いたためだとされる。しかし藤兼を19代としている時点で、尹兼を18代とカウントしていることになる。一次資料にもそのような一代飛ばし継承の記録はなく、藤兼の才気煥発さいきかんぱつを喧伝したいがための創作エピソードのようだ。

とはいえ尹兼が早い段階で尹兼-藤兼のW当主体制を敷き、益田氏による石見支配を盤石なものとしたのは間違いない。当主が健在なうちに若い嫡男を名目の当主として自らは一歩引くのは、この時代にはよく見られた。その体制を取った有名武将を以下にまとめてみた。

和暦/西暦当主年齢嫡子年齢
天文15年/1546年毛利 元就49歳隆元23歳
弘治3年/1557年六角 義賢36歳義治12歳
永禄元年/1558年今川 義元39歳氏真20歳
永禄2年/1559年北条 氏康44歳氏政20歳
永禄3年/1560年
三好 長慶38歳義興18歳
浅井 久政34歳長政15歳
永禄6年/1563年
松永 久秀55歳久通20歳
北畠 具教35歳具房16歳
永禄10年/1567年真田 幸綱54歳信綱30歳
天正3年/1575年織田 信長41歳信忠18歳
天正8年/1580年北条 氏政41歳氏直18歳

成功者と呼ばれる戦国武将がずらりと並ぶ。平均すると42歳ほどで子に家督を譲っている。

駐車場にある七尾城の案内板より

七尾城はアルファベットの”Y”のような形をしている。城の北側を流れる益田川は天然の水堀だ。城の西側(俯瞰図で城の奥側)に青い筋が見えるのは、益田川の支流である多田川の水を引いてきて人工的に水堀にしているものだ。今もその一部が残っている。そして水堀と益田川の交差する地点付近に、大手門がある。大手道は東西の尾根の谷間を通り、500~600mほどで山の上にある厩うまやの段に通じる。七尾城は、戦国時代において一度も戦場になったことがないという。益田氏の統治がいかに優秀だったかが伺える。

益田氏のルーツは、平安後期の永久2年(1114)に石見国いわみのくに国司に補任した藤原国兼くにかねが、任が終わっても京都に帰らず石見に土着したのを始まりとする。最初は浜田の御神本みかもとに居館を構えたため御神本みかもと国兼と名乗っており、その後益田に本拠を移して益田国兼となった。武士が本拠地の地名を苗字とするのは中世あるあるで、その土地の支配者である正当性を主張するためだった。

国兼のあとの5~8代目で庶流が数多く誕生した。三隅みすみ氏、福屋氏、周布すふ氏、末元氏、丸毛氏、大草氏、波田氏などで、それだけ益田一族の勢力拡大が著しかったのだろう。庶流が多いと争いも増える。南北朝期には、益田氏が北朝を支持すると、庶流で益田氏に次ぐ№2の三隅氏は南朝を支持した。三隅氏は益田宗家に取って代わろうと画策していた。所領や被官を奪いたいこともあるが、益田氏は幕府から石見守護代に補任されているので「行軍指示権」などの権限を持っていた。国衆を束ねるリーダーであることで得られる役得は多かったことだろう。

二の鳥居の階段を登った先にある神門

室町中期の永享3年(1431)、15代当主・益田兼堯かねたかは幼くして家督を継いだ。このとき益田氏は、長門ながと・周防すおう・筑前ちくぜん・豊前ぶぜんの4ヶ国の守護・大内盛見もりあきらに従軍した九州で、当主の益田兼理かねただと嫡男・藤次郎が戦死した。東(浜田)の三隅氏や、南(津和野)の吉見氏からの脅威に、否が応でもさらされることになる。益田一族や家臣たちは幼い兼堯を支え、石見守護の山名氏や室町幕府との関係を深めて窮地を乗り切った。

益田氏の一族で禅僧の勝剛しょうごう長柔ちょうじゅうは、京都の東福寺で住職を務めたのち、晩年は石見へ帰って住職を続けていた。京都や大内氏の禅僧に顔が利いた勝剛しょうごうは雪舟せっしゅうとも親交が深かったため、兼堯の要望により周防の大内氏のもとにいた雪舟を益田に招き入れた。雪舟は萬福寺と崇観寺に庭園を築いたり、兼堯の肖像画を描いたりした。この「益田兼堯像」と、兼堯の孫・宗兼むねかねに贈った「四季花鳥図屏風」は現存しており、国の重要文化財になっている。

神門の先には拝殿と本殿があるが、門をくぐって左後方にある七尾城へ続く道を進む。

切岸に造られたつづら折りの道

永正5年(1508)に西国の太守・大内義興よしおき(31歳)は、足利義稙よしたね(42歳-当時は義尹よしただ)を奉じて上洛した。15年前の明応の政変より始まった、足利義澄&細川氏 vs 足利義稙&大内氏の争いは、終わりなき様相で続いていた。しかし細川政元の暗殺とそれに続く家督争いで細川氏が疲弊したことにより、義稙と義興にまたとないチャンスが巡ってきたのだった。

大内家臣団からは、三家老筆頭の陶すえ興房おきふさと、杉氏庶流の杉興相おきすけ。安芸国からは、武田元繁もとしげ・毛利興元おきもと・吉川きっかわ元経もとつね・平賀弘保ひろやすなど。石見国からは、吉見頼興よりおき・益田宗兼むねかね・三隅興信おきのぶ。そして出雲国からは尼子あまご経久つねひさも参陣した。総勢1万2,000~1万4,000人の大上洛軍だった。普段は陶&益田 vs 吉見&三隅で争うことが多い石見国衆たち(陶氏は周防)も、このときばかりは足利義稙の名のもとに集結した。安芸や出雲からも有名武将が勢ぞろいするという、空前のオールスターキャストによる遠征である。

前将軍の足利義稙が京都へ戻ると、細川京兆家(宗家)の当主に就いたばかりの細川高国は現将軍・足利義澄を見限り、義稙と義興を幕府に迎え入れた。そして将軍・足利義稙とそれを補佐する4大名(細川高国・大内義興・畠山尚順・畠山義元)による新体制がスタートした。益田氏17代当主・益田宗兼むねかね(34歳?)は嫡男・熊童丸くまどうまる(のちの尹兼ただかね-12歳?)とともに同行しており、大内義興のそばでその事業を支えた。宗兼の妻は陶すえ興房おきふさ(33歳)の姉妹きょうだいであるため、宗兼と興房は義兄弟、興房と熊童丸は叔父と甥の関係だった。家臣筆頭の陶興房の身内は、義興にとっても信頼できる存在だったことだろう。

京都を追われて近江に潜伏していた足利義澄は、同じく細川高国派に敗れて近江に潜伏していた細川澄元と再びタッグを組み、義稙幕府方に勝負を挑んできた。[如意ケ嶽の戦い] しかし完膚なきまで敗れ、義澄は近江の水茎岡山城(近江の国衆・九里氏の城)を本拠とし、澄元はホームの阿波へ帰って力を溜めた。

永正8年(1511)、細川高国を快く思わない一族の細川政賢を味方につけた義澄と澄元は、淡路守護・細川尚春なおはるや播磨守護・赤松義村よしむらとともに京都を攻めた。義稙幕府方は一時丹波まで退却したが、体制を立て直して再び京都で激突する。しかしこのとき水茎岡山城にいた義澄が急死した。病死とも暗殺ともいわれる。そんな中で義稙幕府方は京都の船岡山城に本陣を敷く義澄方を攻め、細川政賢を討ち取り澄元を阿波へ敗走させた。[船岡山合戦]

益田宗兼親子はこのときの戦功をたたえられ、熊童丸は義稙(当時は義尹よしただ)の偏諱を賜り元服し「尹兼ただかね」と名乗った。

2.西尾根曲輪群

切岸を登り切り、曲輪に入った。登城地点から少し北(左)にあるのは西尾根曲輪群の千畳敷だ。

千畳敷の手前の高台は「太鼓の段」と呼ばれているので、太鼓櫓が建っていたのだろう。

太鼓の段。その奥に千畳敷があるのだが、双方足しても千畳敷と呼ぶには狭い。

千畳敷の奥にある尾崎丸は通行困難とのことなので、踵を返して厩うまやの段へ向かう。

谷を介して反対側に東尾根が平行している。東尾根は西尾根より10~20m高い。

厩の段

ここは厩の段で、東西の尾根が合流する「Y」の交点の曲輪になる。左の谷へ降れば大手道、反対の尾根は二の丸・本丸のある東尾根曲輪群。

馬釣井

厩の段の北側にある一段低い曲輪は「馬釣井うまつるい」と呼ばれている。七尾城で唯一の井戸がある。

馬釣井から二の丸の切岸を見上げる。高低差は約30mほどか。

3.東尾根曲輪群

厩の段を俯瞰で見る

船岡山合戦から30年ほど経った天文11年(1542)、各家々で世代交代が進んでいた。大内氏は義興よしおきの嫡男・義隆よしたか(35歳)、陶すえ氏は興房おきふさの養子・隆房たかふさ(21歳-のちの晴賢はるかた)、益田氏は宗兼むねかねの嫡男・尹兼ただかね(46歳?)、尼子氏は経久つねひさの嫡孫・晴久はるひさ(29歳)が、それぞれ継いでいた。この30年で尼子氏は大内氏に比肩する大大名になっており、西国を二分して争っていた。この年、大内義隆は石見・安芸北部・西出雲の国衆を合わせて4万5,000人の大軍勢で、尼子晴久のいる東出雲・月山富田城へ侵攻した。家臣筆頭の陶隆房や、ほぼ譜代家臣並みの石見国衆・益田尹兼も参陣した。詳細は【出雲:勝山城】にて。

【出雲:勝山城】毛利元就が改修した月山富田城の付城、50本の畝状竪堀を持つ出雲勝山城へ登る
京羅木山城砦群は月山富田城の向かいの山にあり、尼子攻めの拠点として2度使用されている。特に毛利元就による第二次月山富田城の戦いでは、城砦群の南方にある勝山城に50本もの畝状竪堀を築き、富田城を落とすまでは帰らない本気の姿勢を見せ、難攻不落の富田城をついに攻め落とした。今も畝状竪堀の残る歴史の舞台、出雲勝山城へ登る。
二の丸(二の段)虎口。曲輪の大半は180°反転した方にある

出雲の国衆・赤穴光清みつきよを4ヶ月かけて攻略したころ、益田尹兼ただかねは陶すえ隆房たかふさに義兄弟の契りを結びたいと持ち掛けた。尹兼の父と隆房の養父は文字通り義兄弟であり2人は従兄弟いとこの関係になるのだが、隆房が養子であることを気にしたのか、益田氏と陶氏の関係をもっと密接にしようと働きかけた。隆房は尹兼の提案を受け入れ、年の差25歳の兄弟が誕生した。

冒頭の家督一代スキップの話に戻るが、陶隆房は若いとはいえ三家老筆頭の陶氏の当主。益田尹兼が益田氏当主でなければこの義兄弟の話は成立しない。歴史は点ではなく、線や面で見ないといけないという良い例だろう。

二の丸

天文13年(1544)、益田宗兼(70歳?)が亡くなった。益田氏の当主には随分前から尹兼が就いており、益田氏の運営に支障はなかった。翌々年、京都の将軍・足利義晴の嫡男(10歳)が朝廷から諱いみなを賜り“義藤よしふじ”と名乗ると、尹兼は早速その偏諱へんきを賜り、嫡男(17歳)を“藤兼ふじかね”と名乗らせた。このとき家督も譲ったという。尹兼は10代前半のころから父・宗兼とともに上洛し、様々な経験をさせてもらった。藤兼も13歳のときに出雲侵攻に同行している。17歳で家督を渡すのも、自分と同じように若いころから経験を積ませたいという尹兼の思いなのだろう。

本丸(二の丸と地続きだが1段高い)

天文20年(1551)、西国はおろか日本全土を揺るがす大事件が起こる。大内氏の三家老筆頭・陶隆房(30歳)が、主君・大内義隆(44歳)を攻め、自刃に追い込んだのだ。[大寧寺の変]

隆房は謀反に際し、大内家臣団の首脳陣5名全員の合意を取っていた。つまりは隆房以外の三家老(内藤興盛おきもり・杉重矩しげのり)、安芸備後国衆のリーダー・毛利隆元たかもと(28歳)、石見国衆のリーダー・益田藤兼(22歳)である。毛利氏と益田氏の合意を得たということは、隆元の父・元就もとなり(54歳)と藤兼の父・尹兼ただかね(55歳?)も了承済なのは言うまでもない。義隆を排除したあとの大内氏当主には、義隆の甥で条件付き養嗣子として大内氏に居た実績のある大友晴英はるひでを迎え入れる予定だった。謀反ではあるが下剋上ではなかった。「主だった家臣全員に背かれるとは、大内義隆は一体何をやったんだ?!」という話については【周防:凌雲寺&大内氏館】にて。

【周防:凌雲寺&大内氏館】西国の太守・大内義興の築いた城郭寺院・凌雲寺と、山口奠都(てんと)を目指した大内義隆の大内氏館を歩く
日明貿易と西国4ヶ国の統治により莫大な経済力を誇った大内氏。義興は山城守護や管領代に補任し、中央政権に直接関与した。義隆は幕府に代わって朝儀を取り計らい、山口の京都代理都市化を推し進めた。中央政権に多大な影響を及ぼした大内氏により築かれた、凌雲寺跡と大内氏館跡(龍福寺)を歩く
本丸から見る益田の町

大内義隆の亡き後、陶隆房たかふさは“晴賢はるかた”と改名した。大内氏当主に据えられた大友晴英はるひで(19歳)は大内義長よしながと名乗った。“据えられた”という言葉通り、大内氏の全実権は陶晴賢が握った。義長は兄・宗麟からも「陶の傀儡になるだけだぞ」と引き止められていたが、それでも大内氏の当主になることを選んだ。何にも成れないまま人生を終えるより、名目だけでも大大名の当主となり、何かを成せる可能性にかけたのだろうか。とても興味深い人物だが、脱線するので義長については割愛する。

天文22年(1553)、陶晴賢は当初から計画していた津和野攻めを、益田藤兼とともに決行した。津和野は陶氏の宿敵・吉見氏の本拠だった。三本松城(津和野城)に籠城する吉見正頼を、晴賢らは包囲した。無理な城攻めはせず調略工作を行った。「他の吉見方の支城が落ちた」「今降伏したら稲の作付けができるぞ」「厚遇を約束する」などと押したり引いたりで仕掛けたものの、効果はなかった。吉見氏は毛利氏と仲が良いので「毛利軍が救援に来たが敗れたぞ」と偽情報も流した。しかし毛利隆元が本当に軍勢を動かし、陶晴賢に敵対することを表明したため、晴賢と藤兼は津和野から撤退した。

その後益田藤兼は、三隅氏攻めへシフトした。

本丸南側の堀切

天文24年(1555)、厳島合戦にて陶晴賢は毛利隆元に大敗し自害した。毛利氏は大寧寺の変の2年前から急速に勢力を拡大しており、この頃には陶氏を凌いでいた。晴賢にとって最大の誤算だっただろう。厳島の戦いについての詳細は、大寧寺の変同様【周防:凌雲寺&大内氏館】にて。

益田藤兼は、南に吉見正頼がいるため厳島へ陶氏への援軍を出すことは出来なかった。晴賢のいなくなった大内氏は沈む船となり、藤兼は毛利氏との和睦を模索し始める。柔軟で頭の切り替えが早いところが、藤兼の器量が優れているといわれる所以だろう。その後毛利隆元は周防へ侵攻し、3年後に大内義長は討たれ、大内氏は滅亡した。

南曲輪の畝状竪堀

大内氏が滅んだあと、周防長門は毛利隆元と吉見正頼が支配した。藤兼は本拠・七尾城を改修し毛利との決戦に備えつつ、毛利隆元の長弟・吉川元春と和睦交渉を行った。益田氏との和睦を元春が前向きに考えていることを知った父・元就は、「毛利と共同戦線で戦った吉見正頼への配慮を欠いている」として激昂したという。しかし元春はもっと広い視野で世の中を見ていた。出雲の尼子晴久は新宮しんぐう党を粛清し、尼子氏の最盛期を迎えている。尼子氏の更なる勢力拡大が予想される中で、石見国衆のリーダーとして統率力を持つ藤兼の力を、元春は“必要”と判断した。

永禄8年(1563)、益田藤兼は毛利氏の本拠・吉田郡山城を訪れた。毛利氏当主・毛利隆元たかもとは、安芸・備後・備中・長門に加え周防の守護にも補任され、5ヶ国の太守になっていた。藤兼は重代相伝の名刀「舞草房安もぐさふさやす」を隆元へ進呈し、益田氏は毛利氏と正式に従属同盟を結んだ。その年隆元が急死し、嫡男の輝元てるもとが毛利氏の当主となる。そして藤兼の子が12歳になったときに輝元(17歳)に烏帽子親になってもらい、「益田元祥もとなが」と命名した。その後、益田元祥は吉川元春の長女を正室とし、毛利一門衆に名を連ねる。

4.大手門・資料館

医光寺の総門(七尾城大手門)

益田氏の菩提寺である医光寺の総門。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、毛利輝元てるもと(隆元の嫡男)が周防へ移封させられた際に益田元祥もとよしも同行し、廃城となった七尾城の大手門がここへ移築された。

益田市立歴史文化交流館れきしーなでは、11時から開催される「れきしーな周年祭-ますだ春まつり」の準備が行われていた。

館内入口で、歴代の当主たちがお出迎え。左から11代当主・益田兼見かねみ、兼見の玄孫やしゃごで15代当主・益田兼堯かねたか、兼堯の孫で17代当主・益田宗兼むねかね、宗兼の曾孫ひまごで20代当主・益田元祥もとよし。元祥は関ヶ原の戦い後、毛利輝元とともに周防へ転封となったため、益田の地での益田氏としては最後の当主となった。

津和野城

指 定国指定史跡、日本100名城
遺 構櫓、曲輪、土塁、石垣、堀切、門跡
駐車場町営駐車場 – Google マップ
太皷谷稲成神社 参拝者駐車場 – Google マップ
住 所島根県 鹿足郡 津和野町 後田
島根県 鹿足郡 津和野町 後田409
トイレ駐車場にあり
訪問日2026年4月5日(日)晴れ
形 態山城址難易度★----
比 高210m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類-見応度☆☆☆☆☆
駐車場 → リフト → 主郭部
高 さ- / 40m
所要時間5分 / 20~40分

5.駐車場~観光リフト

七尾城から1時間弱で津和野町営駐車場に到着。山の上に津和野城の石垣が見える。沙羅の木茶屋で津和野名物「うずめ飯」を食べ、登城する。

山の中腹にある太皷谷稲成たいこだにいなり神社。津和野城と三本松城の御城印はここで売っている。“津和野”はこの辺一帯の地名で、「三本松城」が城の本来の名前だ。江戸期に津和野藩が出来たころ「津和野城」と呼ぶようになった。

神社の先にある津和野観光リフトに乗ると、津和野城まで行ける。太皷谷稲荷神社の駐車場からだと5分ほど歩く。100名城カードはここで売っている。

リフト降り場から尾根伝いに出丸へ続く

津和野城の前身である三本松城は、石見の国衆・吉見正頼まさよりの城として知られている。

吉見氏は源頼朝の弟・範頼のりよりを祖とする。武蔵国むさしのくに横見よこみ郡吉見よしみ荘を本拠としたため吉見氏を名乗る。承久の乱後、石見国いわみのくにの西端である鹿足かのあし郡を所領とした。南の周防国すおうのくに都濃つの郡を領する陶すえ氏と、北の石見国美濃みの郡を領する益田氏とは領地を接しているため争うことが多く、応仁・文明の乱が始まると激しく対立するようになる。陶氏・吉見氏・益田氏はいずれも西国の太守・大内政弘まさひろに従属していたが、応仁・文明の乱で政弘が西軍に付くと、一族の大内教幸のりゆき(政弘の叔父)は東軍となり大内一族が2つに割れた。そして陶氏と益田氏は政弘に、吉見氏は教幸に与して戦った。乱後大内氏の一族抗争も落ち着き、吉見氏は許されて政弘に帰順した。しかし文明14年(1482)の大内氏館での宴席の最中、吉見信頼のぶよりが陶弘護ひろもりを刺し殺すという事件が起きた。信頼のぶよりは「吉見氏100年の繁栄のためには陶弘護を殺すしかない」と言ったという。乱の11年間におよぶ抗争よりも、その後同僚となったあとの、陶氏による吉見氏いじめのほうが問題が大きいようだ。両氏の間には、関係修復が不可能なほどの敵意が生まれた。

陶弘護刺殺後すぐに成敗された吉見信頼のぶよりに代わり、吉見氏は弟の頼興よりおきが継いだ。大内政弘は最初は吉見一族を討伐しかけたが、弘護に非があったと冷静に考え、これまで以上に吉見氏を重用するようになる。

22歳で吉見氏当主となった吉見頼興よりおきは、大内政弘-義興-義隆の三代に仕え、72歳で亡くなるまで50年間当主を務めた。頼興の長男は早世していたため次男の隆頼たかよりが継いだが、9年後に40歳で亡くなると、寺にいた五男(27歳)が還俗し「正頼まさより」と名乗り、跡を継いだ。

6.出丸(織部丸)

出丸(織部丸)

この出丸は織部丸おりべまるとも呼ばれている。津和野藩初代藩主となった坂崎直盛なおもりは、三本松城を近世城郭・津和野城へと改修した。その際、この出丸の改修を弟の浮田織部に任せていた。

織部丸は、中世山城の形をそのまま使用しており、隅部が鈍角に折れ曲がる鎬隅しのぎすみで石垣が組まれている。

出丸の北東隅(写真右奥)に石が集中している辺りに二重櫓があった。津和野城は本丸に天守等の建物がなかったため、この櫓が津和野城を象徴する建物となっていた。鎬隅の石垣に合わせ、櫓も壁が鈍角に屈曲する形状をしていたという。

7.津和野城

出丸から本城へ

戦国期に話を戻す。天文20年(1551)に大寧寺たいねいじの変がおこると、三本松城(津和野城)の吉見正頼は窮地に立たされる。吉見氏は南北を陶氏と益田氏に挟まれ争っていたが、大内氏の庇護のもとそのバランスは保たれていた。しかし大内義隆がいなくなったことで、陶すえ晴賢はるかたは気兼ねなく吉見氏を攻め滅ぼすことができるようになる。しかも大内軍は晴賢が意のままに動かせるようになり、吉見軍を圧倒する勢力となっていた。

天文22年(1553)、大内-陶連合軍を率いる陶晴賢は吉見正頼の籠城する三本松城(津和野城)を包囲した。晴賢の同盟者である益田藤兼ふじかねは支城の下瀬山城を包囲し、三本松城へ後詰が出せないようにした。晴賢の軍勢は先の杉重矩しげのり討伐で戦ったばかりであり、兵の温存のためにも無理攻めはせず、三本松城の周囲に付城を築き長期戦で臨んだ。その後毛利隆元たかもとが挙兵し反大内-陶氏の意思を表明したため、晴賢は正頼と和睦し周防へ帰った。

津和野城の縄張り図

天文24年(1555)に厳島合戦で陶晴賢が敗死すると、吉見正頼は毛利氏と共同戦線を張り大内氏を攻めた。津和野のすぐ西にある大内方の賀年かね城を攻め、城主・町野隆風たかかぜを降伏させた。さらに正頼は渡川わたりがわ城へ迫った。この城は津和野と大内氏館のある山口との中間地点にあり、山口の東側防御の要だ。一度は追い返されたものの、波状攻撃により渡川城も攻め落とした。大内義長は山口から逃亡し、正頼は毛利氏より先に大内氏の本拠へ入った。このとき正頼は大内氏館にあった海外貿易用の通交印章等を押収した。その後毛利氏が周防を支配した際に印章等の引き渡しを要求し、その覚書が証拠として残っているという。

城の東側にある太鼓丸の石垣

大内氏が滅び、吉見正頼の天敵である益田藤兼は毛利氏の配下となったが、長年陶氏の盟友だったため毛利家臣団の中で緊張関係が続いていた。永禄5年(1562)、尼子方になっている石見東部の国衆を攻撃するため、毛利氏は出陣にさいして益田藤兼にも援軍を要請した。しかし東へ向かうと西が手薄になるため藤兼は難色を示した。この頃、吉見氏の本拠・石見国鹿足かのあし郡と益田氏の本拠・石見国美濃みの郡の両方と接している長門ながと国阿武あぶ郡は、山側を吉見氏が海側を益田氏が所有していた。毛利氏が検使を派遣し見張らせるというので、藤兼は援軍を東へ向かわせたのだが、結局その隙をついて正頼は海側の益田領・萩を奪い取った。

戦後毛利氏から非難を受けたものの、正頼はゴネてその領有を認めさせた。吉見氏は内陸部の領主であり、港を持つことは一族の長年の夢だった。正頼は萩に指月城を築き、城下町を整備した。

【長門:萩城】毛利輝元の晩年の居城、中世と近世が融合した石垣の名城・萩城を歩く
西国8ヶ国120万石という毛利家最大版図を築いた毛利輝元は、関ヶ原の敗戦により防長2ヶ国に減封となった。その際本拠地とした萩城は、中世と近世が融合する石垣の名城となった。指月山山頂に築かれた詰丸・萩城要害と併せ、萩城を歩く。

それから約40年後の慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの敗北により毛利輝元が防長二ヶ国に減封となると、毛利氏の本拠地として萩が指定された。吉見氏は正頼の孫・広長ひろなが(19歳)が当主で、正頼の子・広頼ひろより(58歳)は隠居しており父・正頼がそうしたように指月城(萩城)を居城としていた。配置換えに従い広頼は萩を明け渡したが、広長はそれを不服として毛利輝元に反発し出奔した。その後帰参したものの、ほどなく輝元に暗殺され、吉見氏嫡流は断絶した。

北側切岸に設けられた仮設階段。ここから台所跡に入れる。

津和野城の案内図。

① 馬立・台所・海老櫓跡

台所跡

戦国期の三本松城は、坂崎直盛により近世城郭・津和野城へ改修された。関ヶ原の戦い後、石見国津和野3万石を領して津和野藩の初代藩主になった人物だ。しかし「坂崎」という姓に全く聞き覚えが無い歴史ファンは多いと思う。それもそのはず「坂崎」は二代限りの姓で、この一族は後にも先にも坂崎とは名乗っていない。宇喜多うきた知家ともいえというのが彼のもともとの名前だ。岡山が生んだ戦国の梟雄きょうゆう・宇喜多直家なおいえの甥である。もっとも、直家の跡を継いだ秀家ひでいえ(知家の従弟)が「分家は宇喜多ではなく浮田を使え」と命じたため、「浮田知家」と書いた。

馬立場跡

慶長5年(1600)、会津征伐(上杉景勝の討伐)のため大坂から出陣した徳川家康に従い、福島正則・細川忠興・加藤嘉明などとともに先鋒として宇喜多知家(37歳)は従軍した。宗家の宇喜多秀家は、後発部隊として大谷吉継よしつぐや安国寺あんこくじ恵瓊えけいらとともに会津征伐に向かう予定だった。しかし佐和山城で隠居している石田三成が大谷や恵瓊を取り込み徳川家康討伐の旗を掲げて挙兵すると、秀家も三成軍(西軍)に入ってしまった。知家は秀家と決別するつもりは全くなかったのだが、家康や反“三成派”の福島・細川らの手前、「あっちに行きます」とは言いづらかったのが実情のようだ。成り行きで福島らと行動を共にし、関ヶ原の最前線でうっかり西軍と戦い、「主家と決別してよく徳川に付いてくれた」と、戦後の論功行賞でうっかり3万石の大名になってしまった。

海老櫓跡

その後、宇喜多知家は徳川家康から「坂崎」と名乗るよう命じられた。「宇喜多(浮田)」は関ヶ原で西軍の主力部隊として戦った宇喜多秀家の苗字なので嫌ったのだろう。「知家」は「家康」の“家”が後に来ているからそれも変え、「坂崎直盛」と名乗った。

② 三の丸

帯曲輪を通って三の丸へ

坂崎直盛にはひとつだけ全国区のエピソードがある。千姫せんひめ事件である。

千姫は徳川家康の孫で、徳川秀忠とお江(浅井三姉妹の三女)の娘。豊臣秀吉の死後、律儀者の徳川家康が秀吉との約束を守り、豊臣秀頼に嫁がせた。慶長8年(1603)、千姫6歳、秀頼10歳のときのこと。それから11年後に大坂冬の陣が起こり、翌年の夏の陣で豊臣氏は滅亡した。

【通説・千姫事件】

元和2年(1616)、大坂城に籠城する豊臣秀頼(21歳)を攻める徳川家康は、秀頼に嫁いでいる千姫(17歳)の身を案じていた。落城間近になると家康は「千姫を救出した者は、妻に取らせる」と約束してしまう。坂崎直盛は見事千姫を救出し、家康の前に連れてきた。ところが千姫が「そんな話は不承知です」と直盛との縁談を拒否したため、本多忠刻ただときに嫁ぐことになった。約束を反故にされた直盛は、婚姻の日に輿入れ行列を襲撃しようと計画する。しかしそれは未然に露見し、直盛は死罪、坂崎家は取り潰しとなった。

三の丸

◇□ 千姫事件の真相 □◇

元和2年(1616)大坂夏の陣。豊臣氏重臣の大野治長は、豊臣秀頼と淀殿の助命嘆願を千姫に託した。千姫は城を出て徳川方の陣地へ赴き、入った先が坂崎直盛の陣所だった。そこから直盛に連れられて家康に面会できたものの秀頼と淀殿の助命は受け入れられず、豊臣氏は滅亡した。

その後、千姫の再婚について家康が直盛に相談したため、直盛は公家との良縁を探して手配した。しかし家康が急死し、千姫の父・秀忠が本多忠刻ただときとの縁談を決めてしまう。秀忠は直盛が探していることを知らず連絡できなかっただけなのだろうが、梯子を外された直盛は面目を失った。そして「祝言を襲ってやろうか」などと暴言を吐いたのを「謀反の意あり」と誰かにチクられ、直盛は死罪、坂崎家は取り潰しとなった。

三の丸に隣接する人質曲輪の石垣。その一段上の石垣は、本丸(三十間台)の石垣。

三の丸の先端にある南門櫓跡。

③ 二の丸(天守台)

三の丸の上にある天守台。二の丸に相当すると考えられる。

天守台から見る西門櫓跡。

天守台から見る馬立・台所跡。

天守台の一段上に三十間台(本丸)がある。仮設階段により今はここから入れるが、当時は左へ進み、太鼓丸を経由して本丸へ入るのが唯一のルートだった。

④ 本丸(三十間台)

本丸-三十間台

「どう死んだか」でその人物を判断してしまう傾向は避けられないだろう。坂崎直盛の場合、面目を潰され暴言を吐いたことで死罪となったため、粗暴で愚か者なイメージを持たれがちだ。しかし彼の業績に目を向けると、まったく印象は変わってくる。

関ヶ原の戦いの功績により3万石で津和野藩藩主となった直盛は、城の整備を行い津和野の統治に尽力した。城下町を再編する際、津和野川の水を引いてきて町中に縦横の水路を整備した。そして民衆に鯉を飼うよう奨励した。鯉はボウフラを食べ、疫病を予防し清流を維持した。その結果、津和野藩はすぐに3万石から3万3,000石となる。土地が増えたわけではなく、同じ広さで1割増しの収穫が出来るようになったのだ。鯉は飢饉や戦禍の際に食料になることも見込んでいたようだが、津和野の民衆は鯉を食べることはなく、鯉を可愛がる文化が定着した。津和野は今でも「鯉の住む町」として、鯉が重要な観光資源のひとつになっている。

本丸から見る津和野の町。

本丸虎口。この下は太鼓丸。

まとめ

① 一代飛び継承は創作であり、藤兼の父・尹兼も当主を務めた

② 益田宗兼と尹兼は大内義興とともに京都で活躍した

③ 益田藤兼は陶晴賢の盟友であり毛利と敵対したが、晴賢亡きあと毛利氏と和睦し、その後毛利一門衆となり幕末まで家名を残す

④ 吉見正頼は毛利氏の盟友となり共に大内氏を滅ぼしたが、毛利氏と仲違いし討たれ、嫡流は断絶した

⑤ 千姫事件は祝言襲撃テロではなく、面目を潰された坂崎直盛が暴言を吐いただけ

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