竹田城
| 形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★--- |
| 比 高 | 255m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
| 蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
| 駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
| 高 さ | 130m / 30m | ||
| 所要時間 | 40分 / 10分 | ||
| 指 定 | 国指定史跡、日本100名城 |
| 遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、切岸 |
| 歴 史 | 竹田城は、戦国初期に山名四天王のひとり太田垣光景が、山名宗全の援助を得て築城したのを始まりとする。太田垣氏は室町時代には但馬南部の守護代に補任されており、嘉吉の乱後に山名氏が赤松氏の旧領を得て播磨守護になると、その播磨守護代も兼任した。戦国末期、織田信長の西国侵攻(大将は羽柴秀吉)により太田垣輝延は敗北し、その後秀吉配下の赤松広秀が入城した。 |
| 駐車場 | 立雲峡駐車場(有料) – Google マップ 山城の郷駐車場 – Google マップ |
| 住 所 | 兵庫県 朝来市 和田山町竹田 兵庫県 朝来市 和田山町殿 |
| トイレ | 駐車場と大手門にあり |
| 訪問日 | 2025年5月5日(月)晴れ |
1.立雲峡

立雲峡の駐車場にある案内図。立雲峡は竹田城南側の朝来山にある。ここから第1展望台までの比高は約160mなので、戦国の山城へ登るくらいの道のりだ。あまり登りたくない人のために、割と低い場所に第2第3の展望台も設けられている。また登山者を飽きさせないよう、道中にある木や変わり岩に①~㉑の通り名前が付けられている。

運が良ければ雲海に浮かぶ竹田城が見られる。雲海の出る条件は3つある。
雲海の出る3つの条件
① 前日の昼間と当日の早朝の寒暖差が10℃以上あること
② 前日までに降雨などにより地面の湿度が充分あること
③ 風があまり吹いていないこと
この条件が揃い易いのは秋から春にかけてだが、冬期は閉山期間のため、10月~11月頃と3月~4月頃が狙い目だ。

登山道入口の看板。分かりにくい場合や、看板がなくても私有地で立入禁止のこともある登山口に、このような看板は地味にありがたい。

案内図④の「岩張る松」。登山道入口から第一展望台までの間に、このような木や岩が21ヶ所ある。

登山口から約25分で第一展望台に到着。朝6時半、天気は快晴。雲海推しの竹田城は、晴天を素直に喜べない特殊な事情がある。
現在見られる竹田城は、織豊期の天正13年(1585)に2万石で入部した赤松広秀により、改修されたものになる。
それ以前の戦国時代の竹田城は、山名四天王の一角として知られる太田垣氏の城だった。太田垣氏は、古代のヤマト王権時代に但馬国の国造(平安期の国司や鎌倉期室町期の守護に相当)だった日下部氏の後裔で、同族に八木氏や朝倉氏がいる。室町幕府の開府後、但馬守護は足利一門の今川氏や吉良氏が務め、約40年後に、足利氏と姻戚関係のある山名師義が但馬守護に補任されると、以降は戦国末期まで山名氏の統治下となった。そして代々但馬守護の傘下で守護代として朝来郡を治めていたのが太田垣氏だ。
山名氏当主が山名持豊(宗全)のときに、太田垣光景は山名氏の援助を得て和田山に竹田城を築いた。竹田城のある朝来郡は南の赤松氏領(播磨国)と接しており、山名氏の本拠・此隅山城(出石郡)を守る要衝としての役目を担った。
光景の跡を継いだ2代目竹田城主・太田垣景近は、応仁・文明の乱で挙兵した山名宗全に従い、武功を挙げた。そして垣屋煕続・田結庄某・八木宗頼とともに山名四天王と呼ばれた。
応仁・文明の乱から約70年後の天文11年(1542)、但馬国朝来郡の生野で銀が発見された。鎌倉末期の石見銀山(島根県)、室町初期の延沢銀山(山形県)に続き、3つ目の大規模な銀山発見であった。山名氏当主の山名祐豊(31歳)は、6代目竹田城主・太田垣朝延(22歳?)の領内にある生野銀山を直接経営した。天文末期(1553~1555)になると、祐豊は生野に拠点を構え、大量の銀を朝廷に献上した。そして生野に自らの菩提寺である銀山寺をも建立する。
しかし永禄2年(1559)になると、山名祐豊と太田垣朝延の間で、生野銀山の支配をめぐって紛争が起こる。詳しくは分からないが、祐豊が朝延の利権を侵害するような事案があったのだろうか。山名四天王と呼ばれると家臣であるかのように錯覚するが、太田垣氏は守護代とはいえあくまで国衆であり、その地域の昔からの支配者である。幕府から派遣された守護の山名氏とは緩い縦の連携でつながっているに過ぎず、どちらかというと独立勢力に近いと考えた方が良いだろう。

永禄12年(1569)、織田信長の家臣・木下秀吉(のちの豊臣秀吉)が2万の軍勢で但馬へ侵攻し、生野銀山から此隅山城まで、10日間で18城を陥落させたという。しかしこのエピソードは創作である可能性が極めて高いと考えられる。その理由は2つある。
ひとつ目はこのエピソードの出典である。秀吉による永禄12年の但馬侵攻については、一次資料として国家レベルの研究対象になっている『益田家什書』に書かれているという。しかし益田家什書は、戦国期にはすでに書かれていたものと、江戸末期に編纂されたものとが混在しており、それぞれ信頼度が異なる。信頼度の高い前者はA群、信頼度の低い後者はB群と呼ばれている。A群は一次史料だが、その中に戦国期の軍事記事についてのものはほとんどないという。なので、石見の国衆・益田氏にとっては遠い国である但馬で起きた戦国期の軍事エピソードは、信頼度の低いB群の史料のものだといえる。(Microsoft社の生成AIの見解。)B群は江戸末期に編纂された史料で、寄せ集めの資料を元に編纂者の独断と偏見で書かれたものだ。参考資料に「織田信長が但馬へ軍勢を派遣した」という記述を見つけ、「信長の家臣で西日本で活躍したといえば秀吉だろう」という思い込みから、想像で記述を追加した可能性は充分考えられる。
ふたつ目は当時の織田軍の組織構成にある。「織田信長が但馬へ軍勢を派遣した」理由を、時系列に述べる。事の発端は永禄6年(1563)に起きた因幡国での内乱から始まる。鳥取城代の武田高信が謀反を起こし、主君である因幡山名氏(但馬山名氏の庶流)の山名豊数を攻め、没落させた。山名宗家・山名祐豊は豊数救援のため出陣したが、高信のバックには毛利元就が付いており、元就の仲介により和平が成立した。山名氏の分国である因幡に毛利氏が介入してきたことで、両者の間で軍事的緊張が高まった。永禄9年(1566)に毛利元就が尼子義久を滅ぼすと、尼子領を取り込んで毛利氏は益々強大になる。その後、元尼子家臣・山中幸盛(鹿介)が尼子勝久を擁立して尼子氏再興を目指すと、山名祐豊は彼らを支援した。永禄12年(1569)に尼子再興軍は、出雲・隠岐方面で毛利氏打倒を掲げ、挙兵した。尼子再興軍のバックに山名祐豊がいることが分かると、毛利元就は室町幕府に援軍を求めた。
山名祐豊と毛利元就の争いは、山名氏旧領である但馬・因幡の失地回復を目指す祐豊と、領土拡大を狙う元就の私戦だった。しかしこのときの足利義昭は、昨年の永禄11年(1568)に織田信長に奉じられて上洛し、足利氏に代わって畿内を支配していた三好氏を駆逐して足利氏の権威を回復しようと尽力している最中。西国の大名たちを幕府奉公衆として再編する上で、元就は西国のリーダー的存在だった。その元就からの要請に、義昭はすぐに応えた。
足利義昭(32歳)の命を受けた織田信長(35歳)は山名討伐軍を派遣するのだが、誰がその軍を指揮したのかという話になる。このころ畿内で信長を支えていた家臣団は、連枝衆(織田一門)や旗本・吏僚を除けば、9名の部将から構成されていた。織田家臣ツートップの佐久間と柴田。美濃攻めで著しい功績のあった丹羽・木下・森・坂井・蜂屋。足利義昭上洛の立役者である明智。近習から部将に抜擢された中川、の9名だ。彼らは2つのチームに分けられ、チーム単位で行動するよう信長から指示された。佐久間信盛をリーダーとする5名は軍事チーム、丹羽長秀をリーダーとする4名は行政チーム。佐久間信盛のみ、特命があるときは単独で行動し、柴田勝家が残りの軍事チームを率いて行動する。
| 佐久間 信盛(41歳) 柴田 勝家(39歳) 森 可成(46歳) 坂井 政尚(43歳?) 蜂屋 頼隆(35歳) | 丹羽 長秀(34歳) 木下 秀吉(32歳) 明智 光秀(41歳) 中川 重政(32歳?) |
上洛直前に六角氏の観音寺城を攻めた際に、佐久間信盛・丹羽長秀・木下秀吉で攻めているが、それは上洛前の話。上洛後に信長が幕府の権威回復のため畿内で活動を始めて以降は、このチーム分けで運用していた。つまり永禄12年(1569)に毛利元就から援軍要請を受けて但馬へ軍勢を派遣したとすれば、柴田以下の4名か、佐久間を含む5名で出陣したはずだ。
この頃の木下秀吉は美濃1,500石を所領としていた。部将として裁量権を与えられてはいても、秀吉直属の部隊は数百人程度だ。2万の大軍の総大将を任されるとは考えにくい。そもそも織田軍が2万の軍勢だったかどうかも怪しい。情勢不安定な畿内に守備兵を残さないといけない状態で、2万も但馬に回せるとは思えない。畿内近国の大名国衆から徴兵した総力が2万だったのかも知れないが、それならなおのこと寄せ集めの大軍勢の統率を木下秀吉に任せるのはナンセンスだろう。
おそらく2万も出さずとも、織田軍が足利氏の旗印を掲げて但馬へ入れば山名氏は賊軍となり、但馬の国衆たちは戦わずして織田(幕府)に降ったことだろう。10日で18城陥落ということなので、ほぼ戦っていないと考えるのが自然だ。但馬の国境にいる太田垣朝延(49歳?)と輝延(24歳?)親子は最初に織田軍と対峙し、竹田城をほぼ無血開城した。此隅山城の山名祐豊(58歳)も、これには為すすべはなかった。
2.駐車場~大手門跡

立雲峡の駐車場から、竹田城の駐車場である山城の郷駐車場まで10分強。ここから竹田城まで30~40分ほど歩く。

駐車場から竹田城までの道中に公衆トイレと模擬大手門がある。

受付処を通過し、竹田城の石垣が見えた。

当時は左右の石垣の間に大手門があった。右の石垣の上は見付櫓跡と呼ばれる。“見付”は江戸期の呼称なので、戦国期・織豊期なら“大手櫓跡”だろう。
3.北千畳~二の丸

大手門を入ってすぐの広い曲輪・北千畳。

北千畳から三の丸へ。赤松広秀により改修された織豊系城郭なので、出入り口は全て枡形虎口になっている。

三の丸は、北千畳に比べると格段に狭い。動線を限定して侵入してきた敵の動きを制限するのは、戦国期以来の城らしい縄張りだ。

二の丸下の帯曲輪。このまま真っ直ぐ行けば本丸がある。しかし敵兵であれば、左手の二の丸から攻撃を受けることになる。一気に駆け抜けようとしても、逆茂木などを動線に置かれていると立ち往生してしまう。

幕府軍(織田軍)による但馬侵攻から8年後の天正5年(1577)、竹田城のある但馬国朝来郡はふたたび戦場となる。
8年の間に、畿内の情勢は大きく変わっていた。足利義昭と織田信長が袂を分かち、争ったすえ義昭は京都を追われた。そして幕府の重臣たちの多くは義昭とともに去り、信長が畿内の支配者となっていた。信長は義昭の嫡子・義尋を後見して足利氏を存続させる姿勢を見せたため、畿内近国の大名・国衆たちに大きな混乱はなく、大半の者は信長に従った。
しかし足利義昭が備後の鞆を拠点とし、織田信長討伐の旗を掲げたことで事態は急変する。義昭から信長包囲網のリーダーに指名された毛利輝元は、3ヶ月間検討した結果、信長との同盟を破棄し毛利vs織田の全面戦争へと舵を切った。このころ山名祐豊は、元就が亡くなり指示系統が輝元に一本化された毛利氏と和睦していた。それは、父・朝延から家督を継いだ朝来の若き当主・太田垣輝延からの進言によるものだった。それにより山名氏も太田垣氏も、毛利氏とともに義昭の信長包囲網に加わった。

天正5年(1577)11月上旬、羽柴秀吉(40歳)の弟・羽柴秀長(37歳-当時は長秀)の軍勢が但馬国朝来郡に攻めて来た。前月に荒木村重に代わり西国方面軍の司令官に就任した秀吉は、織田氏に従属する播磨の国衆たちから人質を取ると、続いて生野銀山の代官・今井宗久からの徴収トラブルの訴えに応えて派兵した。信長公記には「太田垣氏が生野銀山を横領し」と書かれているというが、もともと生野銀山は太田垣氏の領地にあり、但馬守護の山名氏とともに領有していたもの。先の但馬侵攻のさいに織田信長に横取りされており、織田との手切れを機に支配権を取り戻していた。
播磨と但馬の国境にある真弓峠を越えて朝来郡へ入った羽柴秀長は、まず生野銀山を守る生野城を攻めた。5つの尾根を持つ生野城は、街道に向いた西側2つは出城で守り、東南北の3つは堀切で憂いを絶っている。秀長は正面突破は被害が大きすぎると判断し、生野城の東側の標高が同じ山に付城(大盛山城)を築いて牽制する。大盛山城は、超特急で築いたのであろうほぼ単郭の簡素な城だが、外枡形虎口を有する織豊系城郭である。そして完成したその城に別働隊を残し、秀長本隊は太田垣輝延(32歳?)のいる竹田城を目指した。生野城の城兵が竹田城へ向かう秀長本軍を背後から攻めようとした場合、さらにその背後を大盛山城の秀長別動隊が襲う形になる。
羽柴秀長は、播但街道沿いにある竹田城の出城・岩州城を落とすと、その勢いで竹田城を攻めた。どのような攻防があったのかは分からないが、竹田城はわずか数日で落城し、太田垣輝延は城を捨てて逃げた。竹田城は秀吉のものとなり、城代となった秀長により改修された。そして同月下旬に、今度は秀吉が西播磨の上月城を攻めた。城主である七条赤松政範は、他の播磨衆とは異なり足利・毛利方を表明していた。秀吉軍に攻められた政範は、毛利方の援軍が来ないと分かり降伏したが、秀吉はそれを拒否。城内の兵はもとより非戦闘民の女子供も捕えられ、全員磔にされて皆殺しになった。輝延も竹田城で徹底抗戦を選んでいれば、毛利方の援軍を得られず徐々に劣勢となり、城逃走ルートを全て押さえられて上月城の赤松政範のように皆殺しにあっていたかも知れない。結果論になるが、輝延はすぐに竹田城を捨てて逃げたため、皆殺しに遭うことはなかった。翌年、播磨衆が別所長治を筆頭に次々と足利・毛利方に寝返り、秀吉の肝を冷やした。秀吉に落とされた上月城はすぐに毛利輝元により奪還され、その勢いで輝延も秀長にリベンジし、竹田城を奪還した。
4.本丸~南千畳

播磨の別所長治のいる三木城が持ちこたえている間は但馬も安泰だったが、天正8年(1580)1月に三木城が落城すると勢力の境目は但馬へと移行し、竹田城は織田氏の脅威にさらされた。西国方面軍司令官・羽柴秀吉により竹田城は再度攻め落とされ、太田垣輝延は没落した。
太田垣氏の次に竹田城の城主となったのは、織田家臣で羽柴秀吉と丹羽長秀の両属の与力・桑山重晴である。竹田城に1万石で入部した。秀吉台頭後は羽柴秀長の家臣となり、天正13年(1585)に和歌山城2万石へ転封した。文禄4年(1595)に大和羽柴氏(秀長-秀保)が断絶すると、重晴は秀吉の直臣となり、秀次事件のあと和歌山の北部(和泉国日根郡)を加増されて計4万石となった。
その次に竹田城の城主となったのは、赤松広秀である。広秀は赤松氏中興の祖・赤松政則の直系のひ孫で、赤松宗家を継いでいるはずの血筋だが、広秀の祖父・村秀の代に政則の継室・洞松院により庶流へ追いやられ、龍野赤松氏と呼ばれた。龍野赤松氏については、【播磨:龍野城】🔎で詳しく述べている。

天正5年(1577)に羽柴秀吉が西国方面軍の司令官に就任し、播磨の国衆たちから人質を取るなどして織田氏への従属を再確認した際、赤松広秀(15際-当時は広英)は龍野城を明け渡し、赤松家老・平井貞利の所領へ蟄居した。その地名である佐江村から“斎村政広”と名乗ったという。しかし赤松氏をはじめ播磨の大名・国衆はその後ほとんど滅亡しているため、その歴史は不明な点が多い。このときの赤松広英は、広秀の兄・広貞(生没年不明)だったとする説もある。広秀は父・政秀が52歳のときの子であり、40歳を引退時期とする戦国の世にあって、10年以上後継者不在だったとは考えにくい。実子がいなければいくらでも養子を取ってくる時代だ。広秀の歳の離れた兄・広貞(広英)がまだ健在だった、と考えると合点がいく。
織田氏(秀吉)に臣従した赤松広秀は、龍野城の安堵を申し出たが却下された。天正8年(1580)の三木城の戦いを経て播磨が織田氏に接収されると、広秀は再度旧領・龍野城への復帰を訴えた。しかし龍野城5万3,000石は、秀吉与力の蜂須賀正勝に与えられ、広秀は龍野城近くの揖保郡のごく一部のみ与えられた。そして蜂須賀正勝の与力となる。織田信長の家臣・羽柴秀吉の与力の蜂須賀正勝のさらに与力というポジションだったが、反発せず腐らず、与えられた場所で力を尽くした。
広秀は蜂須賀軍に属し、鳥取城攻めや備中高松城攻めに参加した。天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長が横死すると、蜂須賀正勝は羽柴秀吉の家臣となり(かなり前から秀吉は正勝のことを自分の家臣だと思っていただろうが、正式にはこのとき)、広秀も秀吉の家臣となった。このとき斎村政広から赤松広秀に改名した。
翌年の賤ヶ岳の戦いでは、正勝が黒田官兵衛とともに毛利氏の取次役をつとめており折衝中だったため、蜂須賀軍の統括指揮を任された。赤松広秀-21歳、このころには秀吉の全幅の信頼を得ていた。続く小牧長久手の戦いや四国の役でも蜂須賀軍の副将として活躍し、但馬竹田城2万2,000石を与えられた。病没した正勝の子・蜂須賀家政が阿波一国(17万3,000石)に移封したことを踏まえると、少なすぎる印象だ。しかし広秀は秀吉の赤母衣衆のひとりに選ばれており、秀吉のお気に入りだったことは間違いない。秀吉は、信長が側近部隊である赤母衣衆・黒母衣衆を編成していたのを真似、22~24名からなる黄母衣衆を作っていたが、その後「赤母衣衆」の名称をそのまま使い4名を選出した。
広秀は九州の役・小田原の役・朝鮮出兵を経て、文禄2年(1593)には秀吉の伏見城普請に参画し、その城下に邸宅を持った。
秀吉の死後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは石田三成に味方した。細川藤孝の丹後田辺城の包囲に加わったが、三成の西軍が敗北すると竹田城へ帰還し守備を固めた。但馬を攻めてきた東軍が旧知の仲である亀井玆矩だったため、説得に応じて東軍に転じ、西軍の因幡鳥取城を攻めた。しかし戦後の論功行賞で、広秀は鳥取城下を焼き討ちしたことを咎められ、徳川家康から切腹を命じられた。城下の焼き討ちは城兵の戦意喪失を目的としてよく使われる策であり、切腹に値する過失なのか、はなはだ疑問ではある。広秀の所領を奪うだけなら改易でよい。命まで取ったのは、”赤松氏”の嫡流で豊臣政権で地位のある広秀を、家康は恐れたのではないかと思う。秀吉が、功績に対して過少な石高にしたのも、広秀が”赤松”広秀だったからではなかろうか。その昔、嘉吉の乱後に改易された赤松氏を、旧臣たちが集まり再興させた経緯がある。その反骨力は、秀吉も家康も決して看過出来ないものだった。赤松広秀、享年38歳。

赤松広秀のあとに竹田城のある朝来郡を与えられた山名豊国(因幡山名氏当主)は、竹田城を使用せず廃城にした。嘉吉3年(1443)に山名持豊(宗全)の支援で太田垣光景が築いて以来150余年の歳月を経て、竹田城はその歴史に幕を降ろした。

夏草や 兵どもが 夢の跡
松尾芭蕉

竹田城から見る朝来山(立雲峡)。
八木城
| 形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★★★- |
| 比 高 | 230m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
| 蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
| 駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
| 高 さ | - / (石)230m (土)300m | ||
| 所要時間 | - / (石)40分 → (土)20分 | ||
| 指 定 | 国指定史跡 |
| 遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、切岸 |
| 歴 史 | 但馬国を統治していた日下部氏の後裔・八木氏の城。室町期には但馬守護・山名氏に従った。戦国末期に、足利氏に代わって天下統一を狙う織田信長と、それを阻もうとする足利義昭(毛利輝元ら)との争いに呑まれ、八木氏は滅亡した。織豊期には別所重棟が入部した。 |
| 駐車場 | 八木城址駐車場 – Google マップ |
| 住 所 | 兵庫県 養父市 八鹿町八木1161-1 |
| トイレ | 八木城交流館にあり |
| 訪問日 | 2025年5月5日(月)晴れ |
5.下八木登山道

竹田城から高速に乗って約30分の所にある八木城。城主である八木氏は、古代のヤマト王権時代に但馬国の国造(平安期の国司や鎌倉期室町期の守護に相当)だった日下部氏の後裔にあたる。平安末期になると日下部氏は、養父郡を本拠とした兄が「養父太郎」を名乗り、朝来郡を本拠とした弟が「朝来三郎」を名乗った。その後、養父氏は養父郡朝倉郷に城を築き朝倉氏となり、隣の八木郷に新たな城を築いて八木氏となる。その地名を苗字とすることで地域支配における自らの正当性を主張するのは、中世武士あるあるだ。朝来郡の朝来三郎は、地名にこだわらず太田垣氏となった。また、八木氏の庶流で越前へ移り朝倉氏を名乗った一族がいる。一乗谷で有名な越前朝倉氏である。
地図右下の★印が現在地で、その南側に八木城交流館がある。『トイレ使用可』とのことなので、使わせていただいた。
地図右端に見える殿屋敷は、平成元年に発掘調査が行われている。その結果12~14世紀の中国製の土器が多数出土したものの、15世紀のものは発見されなかったという。鎌倉期は山城麓の平地に住んでいたが、室町期には山城の上に移ったことが推察出来るだろう。
登山道は3つ。下八木登山道は、尾根の最も東側から登る。中八木登山道は、尾根上にある「あずまや」に連絡している。上八木登山道は、城域の最初の曲輪「秋葉さん」に連絡している。

下八木登山道から尾根伝いに登っていく。尾根の幅は細く、左右は急降下する切岸となっている。

中八木登山道との合流地点「あずまや」。名前の通り四阿が建っている。

ここが中八木登山道。

先へ進む。
6.秋葉さん~三の丸

尾根を登りきり、八木城最初の曲輪「秋葉さん」に到着。左側の上八木登山道との合流地点でもある。横穴に不動明王像が鎮座している。

不動明王像の上が三の丸となる。

先端から三の丸を見守っている石像たち。左は「三つ顔さん」と呼ばれている。
7.二の丸~天守台

二の丸と本丸の間に、獣防止の金網がある。標準時間は登山道からここまで約40分だが、私は写真を撮りながらあちこち見周り登ってきたので、1時間近くかかった。

本丸南側の帯曲輪を登っていく。この石垣の上が本丸になる。

八木城は、八木豊信の城として知られている。応仁・文明の乱のさいに命名された「山名四天王」の一角になる。永禄12年(1569)の幕府(織田信長)による但馬侵攻、天正5年と8年(1577・1580)の織田信長(羽柴秀吉)による但馬侵攻については、竹田城のセクションで述べたので割愛する。
天正8年(1580)、八木豊信(56歳)は竹田城の太田垣輝延(35歳?)とともに戦ったが、織田西国方面軍・羽柴秀吉の前に降伏した。毛利輝元の叔父・吉川元春は、「八木豊信の八木城と垣屋豊続の轟城が落ちれば、因幡はおろか伯耆も出雲も秀吉に攻め落とされるだろう。」と言い、八木城へ援軍を派遣しようとしたという。しかしそれは間に合わず、但馬は秀吉の支配下となった。その後、太田垣氏は武士の世界からフェィドアウトしたが、豊信は秀吉軍に加わることを選んだ。

但馬国を制圧した秀吉は、続いて因幡国へ攻め込み支配地を拡大した。それにより、八木豊信は若桜鬼ヶ城とその領地2万石の守将を任された。しかし因幡鳥取城の城主が山名豊国から吉川経家に代わると、毛利勢が巻き返し、若桜鬼ヶ城は吉川元春に攻められ落城。豊信は失脚し、織田氏の家臣を辞めた。
その後、堺商人・津田宗久の茶会に出席した記録が見られる。和歌にも長けていた豊信は、教養を生かして九州の島津家久のもとで右筆として仕えた。

八木豊信のあとに八木城に入ったのは、別所重棟である。東播磨守護代・別所村治の三男として生まれた重棟は、兄・安治を支えて活躍した。安治が38歳で病死し、その子・長治が若干12歳で家督を継ぐと、次兄・吉親とともに別所氏を運営した。吉親は内政、重棟は軍事と外交を担当した。外交責任者として織田氏と長らく折衝していたため、天正6年(1578)に織田方だった別所氏が反旗を翻した際は、織田氏に留まるよう長治と吉親を説得した。別所氏が織田氏と戦うことが決定的になると、重棟のみ別所氏から離れて織田氏に与した。
三木合戦の詳細と別所氏については【播磨:三木城】🔎をご参照願う。
ちなみに別所重棟の跡を継いだ嫡子の別所吉治は、別所長治の隠し子との説がある。重棟は庶流なのに本家が名乗る通字である『治』を名乗らせているのも、その説を後押ししている。三木城落城時、1歳になるかならないかだった吉治は、秀吉軍の最前線にいた重棟により秘密裡に匿われた可能性もなきにしもあらずだ。そんな想像の出来る余白が、歴史の面白いところだろう。

本丸西側の石垣。中央がVの字に凹む、屏風折れの石垣だ。
8.八木土城

八木石城からさらに登っていく。

石垣のある本丸から下の八木城は八木石城(または石城)と呼ばれ、その上の石垣が全くないエリアは八木土城(または土城)と呼ばれている。

ほぼ直線に並ぶ段曲輪郡は、西側(向かって左側)のみ土塁が築かれている。東側(右側)は切岸が急なため敵兵の侵入を警戒する必要はあまりなく、西側に防御を集中するためだと考えられる。

別所時代には石城に天守を築き、土城は使用しなかったとの説がある。しかしこの虎口は織豊城郭の代名詞である桝形虎口であり、八木氏ではなく秀吉配下の別所氏がここを改修したことは確実だろう。別所重棟は石城を主郭としながらも、その上にある土城を詰城として機能させていた。

石垣よりも土は防御力が低いと思うのは現代人の間違った考え方で、切岸は野面積みのような粗い石垣より土のほうが登りにくく、敵の侵入に対し防御力は高い。石垣のない土城本丸にどのような建造物が建っていたのかは分からないが、土であることの利点を生かしたものだったのだろう。

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