吉田城
| 指 定 | 豊橋市指定史跡、続日本100名城 |
| 遺 構 | 石垣、土塁、堀、[再建]鉄櫓 |
| 歴 史 | 吉田城は、永正2年(1505)に牛久保城を本拠とする牧野古白により、勢力拡大に伴い築城された。没落と復興を繰り返し、古白の3世代後の牧野成定の時に徳川家康の家臣となり、牧野氏は明治まで続いた。 |
| 駐車場 | 美術博物館 駐車場 – Google マップ |
| 住 所 | 愛知県 豊橋市 今橋町3-1 |
| トイレ | 隣接する美術博物館にあり |
| 訪問日 | 2026年2月8日(日)曇りのち雪 |
1.吉田城-三の丸

豊橋市美術博物館の駐車場に車を停め、吉田城の東側にある川毛口門跡を通って三の丸へ入る。駐車場は基本的に有料だが、美術博物館(入場無料)に入場すると駐車場代を3時間無料にしてくれるという破格の好待遇になっている。
三の丸の東側半分はこの赤いレンガ調の豊橋市美術博物館(↑)と、奥にコミュニティセンターの豊橋市三の丸会館がある。西側半分は全て豊橋市市役所になっている。

三の丸の周囲には土塁が残っている。

三の丸の中央、南側に面した三の丸口の虎口。

吉田城(築城時は今橋城)は、永正2年(1505)に牛久保城の城主・牧野古白により築かれた。古白は法名で、諱は成時という。
室町初期の三河国は一色氏が守護に補任しており、宝飯郡東部(豊川市)に勢力を持つ牧野氏も、一色氏の被官だった。永享12年(1440)に一色義貫が将軍・足利義教により殺害されると一色氏は衰退し、三河守護は阿波守護の細川持常が兼任した。しかしそれに反発する三河武士は多く、寛正6年(1465)に細川氏が持常の子・成之に代替わりした際、額田郡(岡崎市)の武士、丸山中務入道や大場二郎左衛門たちが徒党を組んで一揆を起こした。細川成之は、額田郡で最も大きな勢力を持つ松平信光や隣の宝飯郡の有力国衆・牧野出羽守に一揆討伐を命じた。ところが松平氏も牧野氏も細川氏に反発する三河武士のひとりであったため、討伐は遅々として進まなかった。松平氏は室町幕府の政所執事・伊勢貞親に仕えていたため、成之は貞親に現状を訴えた。主君貞親から討伐の直命が出され、同じく伊勢氏家臣で尾張を拠点とする戸田弾正左衛門も援軍に来ると、信光らは真剣にやらざるを得なくなる。かくして丸山・大場たちは討たれ、一揆は鎮圧された。この牧野出羽守は、牧野古白の父か祖父と考えられる。戸田弾正左衛門は、その後牧野氏のライバルになる田原戸田氏の初代となる人物だ。松平信光は松平氏の3代目当主で、この先の9代目に松平元康(徳川家康)がいる。

額田郡一揆から40年後の永正2年(1505)、宝飯郡東部(豊川市)の牛久保城を本拠とする有力国衆・牧野古白は、八名郡や渥美郡北部(豊橋市)へも勢力を拡大していた。そして駿河の戦国大名で遠江を実効支配していた今川氏親と従属同盟を結ぶと、今川氏の全面バックアップを受け、水運の要衝である豊川沿いの馬見塚に吉田城(当時の名は今橋城)を築いた。
しかし翌年、牧野古白と今川氏親の関係は急速に悪化する。その原因は中央政権の情勢にあった。13年前のクーデターにより、時の将軍・足利義稙(当時は義材)は、管領・細川政元と元将軍の妻・日野富子により幽閉された[明応の政変]。それは畠山氏(政長・尚順親子)ばかり重用する義稙を廃し、政元にとって都合の良い将軍にすげ替えるためだった。その後、政元と富子に擁立された足利義澄と、幽閉から抜け出した足利義稙による抗争が始まる。義稙は周防の大内義興を頼り西国を拠点とし、紀伊の畠山尚順と連携しつつ細川政元&足利義澄と戦った。明応9年(1500)に畠山尚順は細川政元に大敗を喫し、畿内の義稙派勢力は壊滅した。ところがそれで「政元と義澄は安泰」とはならなかった。共通の敵が居なくなったことで、2人の主張が衝突する。室町幕府を意のままに操りたい政元と、将軍としてリーダーシップを取りたい義澄は、互いを必要としつつも牽制し合う関係になる。将軍に就任したときは14歳だった義澄は、このときすでに19歳だった。
幕府を支える三重臣は、細川政元(管領)・武田元信(若狭守護)・伊勢貞宗(政所執事)だったが、その伊勢貞宗の従甥である今川氏親に、義稙は調略を仕掛けた。ほころび始めた政元と義澄を、外堀から攻める策だ。氏親の母・北川殿は貞宗の従妹、今川氏重臣筆頭・伊勢宗瑞(北条早雲)も貞宗の従弟であり今川氏は伊勢一門であったが、義稙の誘いに応じ氏親は現幕府(政元&義澄)から離反し、義稙派として軍事行動に移す。
永正3年(1506)、今川氏親(33歳)は自ら出陣し、叔父の伊勢宗瑞(50歳)とともに牧野古白(66歳)の吉田城を攻めた。このとき渥美郡南部を本拠とする戸田憲光(戸田弾正左衛門の子)も今川氏に与して吉田城を攻めている。細川政元と足利義澄に反旗を翻した氏親たちに対し、牧野古白は幕府方を貫いて戦った。平城ながら堅牢な吉田城は容易には落ちず、籠城戦は100日間続いたという。古白の8人の男子(能成、三成、成勝、信成、成敏、成高、成国、成村)とその子供たちはよく戦ったが、多勢に無勢はいかんともしがたく、吉田城は落城した。牧野古白は、60~70人の子孫とともに討死した。
今川氏親と伊勢宗瑞はそのまま西へ進軍し、松平宗家である岩津松平氏・松平親長(信光の子)を討ち滅ぼした。庶流の安城松平氏・松平長忠(系図では長親)はすでに義稙方に取り込まれており、これを静観した。その2年後に足利義稙が将軍に返り咲くと、今川氏親は実効支配していた遠江国の守護に補任され、安城松平氏の松平長忠は松平宗家となった。そして吉田城と渥美郡北部の地は、戸田憲光の所領となった。
2.吉田城-二の丸・本丸

二の丸東側の虎口は土塁が現存している。虎口の外は三の丸で、豊橋市美術博物館が建っている。

二の丸北側へ向かう。ここには二の丸御殿があった。土塁の奥にある曲輪は金柑丸。金柑丸を左へ入ると本丸へ連絡している。

金柑と本丸の間には内堀があり、土橋で連絡している。急な吹雪きの中、本丸へ向かう。

土橋からクランク状に折れる動線。その先の石垣には裏門があった。

吉田城を支配した戸田氏だったが、その後今川氏親と対立したことで勢力を失い没落していく。先の戦から11年後の永正14年(1517)には渥美郡北部(吉田城)から撤退した。それにより、滅亡しかけていた牧野氏が再度勢力を回復していく。その中心人物は、牧野古白の孫・牧野信成だった。古白の息子にも信成がおり紛らわしいが、この信成は牧野三成の息子になる。三成は牧野古白の8人の息子のうち生き延びた3人(三成・成勝・成敏)のうちの1人だ。
信成の時代で大きな戦の記録はないが、連歌師・宗長の紀行文「宗長手記」に、吉田城と牧野信成の記述があるという。大永4年(1524)に宗長が京都から今川氏親のいる駿府へ向かう途中、吉田城で牧野信成の歓待を受けている。また、宗長が駿府から京都へ帰る際には信成は遠江と三河の国境まで迎えの兵を派遣し、吉田城へ招いて夜更けまで語り明かしたという。そもそも宗長は牧野信成の祖父・牧野古白ととても親しい間柄だった。古白が亡くなったときには、宗長は百韻連歌を作って古白の死を悼んだほどだ。百韻連歌とは、五七五の長句と七七の短句を交互に組み合わせ、それぞれ50句づつで計100句をつないだ連歌のことである。大永7年(1527)には、信成は宗長を招いて吉田城で連歌会を催した。

天文7年(1538)、牧野信成から牧野保成へ家督が継承された。ややこしい話だが、古白の子に三成と信成の兄弟がおり、兄三成の子も信成で、弟信成の子が保成となる。つまり保成は前当主・信成の従弟で、三成弟・信成の子になる。2年前に渥美郡南部の田原城を本拠とする戸田氏が勢力を拡大しており、吉田城は戸田宗光に奪われていた。保成は苦しい状況の中、牧野氏の運営を任された。
天文15年(1546)、駿河遠江の今川義元(氏親の子)が三河侵攻を開始すると、牧野保成は今川氏に味方して失地回復を図る。その際「戸田氏が敵方となった場合は攻め落としたのち吉田城とその所領を、松平氏が敵方となった場合は長沢城とその所領を与えて下さい。どちらも味方になった場合は800貫文(1600石)の所領を与えて下さい」と要求している。保成は遠江から三河への兵站(物資の搬送)を担当し、今川義元の軍事事業に貢献した。結果、戸田と松平のどちらも敵方となり、戦後に長沢城とその所領を与えられた。しかし戦は三河一国を平定するまで継続したため、長沢城は今川軍の駐屯地として使用することとなり、牧野氏は長沢城を空け渡させられた。その処遇に不満を抱いた牧野一族の牧野成勝(保成の伯父)が反乱を起こし、保成はその責任を問われ当主の座から失脚した。
弘治2年(1556)、保成の次に当主に就いたのは牧野成定(31歳)だった。成定は保成の従甥にあたり、問題を起こした成勝の孫になる。戦国時代の国衆は当主が圧倒的な権力で一族や家臣を従えるのではなく、当主を代表者として一族と家臣がゆるやかな連携によりつながっているため、それぞれの思惑で行動する。成定は祖父・成勝が反乱を起こした際、いち早く今川方に付いて鎮圧に当たった。その功により、今川氏の指図で牧野氏の次期当主に選ばれた。そして牛久保城とその所領を与えられ、本領復帰を果たした。これが成勝と成定のマッチポンプだとしたら驚きである。
3.吉田城-鉄櫓

今川義元は戸田氏・牧野氏を従えて東三河を今川領国に組み込むと、軍勢を西三河へ派兵した。このころ、東三河の要衝「今橋」は「吉田」と改名し、吉田城と呼ばれるようになる。「今橋」が「忌まわし」を連想することから、今川方の誰かが提案したのだろう。吉田城とその所領は今川氏直轄となり、城代として今川譜代の家臣が入った。
西三河の最大勢力である松平氏はすでに今川配下となっていた。7年前に松平宗家の当主・松平広忠が亡くなった際、今川義元は人質の織田信広(信秀の庶長子)と、織田信秀が人質にしている松平広忠の子・竹千代(6歳-のちの徳川家康)を交換していた。松平宗家の新当主・竹千代を押さえた義元は、ほどなく三河全土を統治下に置き、駿河・遠江・三河の3ヶ国の太守となる。

永禄3年(1560年)、今川義元(41歳)は新たな領土拡大を図った。今川氏の家督は嫡男・氏真(22歳)にすでに継承済みで、駿河・遠江の統治は氏真に任せていた。竹千代改め松平元康(17歳-のちの徳川家康)が率いる三河衆とともに、義元は織田信長(26歳-信秀の子)の統治する尾張への侵攻を開始した。テレビドラマなどでは、大国の今川義元が上洛途中で小国の織田信長を蹴散らそうとしたが奇襲を受けて討ち取られる、という話で語られることが多いと思う。しかしそれは立場が逆で、“大国の織田信長に小国の今川義元が挑む”というのが正しい認識だろう。このころ信長は、尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代・岩倉織田氏の織田信賢を滅ぼし、尾張統一を目前としていた。国別の石高は以下の通り。
- 尾張国 … 57万石 → 織田信長
- 三河国 … 29万石 → 松平元康 / 牧野成定 / 戸田重貞 など
- 遠江国 … 25万石 → 今川義元・氏真
- 駿河国 … 15万石 → 今川義元・氏真
石高は国力であり、その大名の強さを数値化したものと考えていいだろう。織田氏は尾張一国で57万石あるのに対し、今川氏は駿河と遠江を合わせても40万石しかない。三河を加えて69万石なら今川氏は織田氏を越えられるが、それは三河の国衆たちが今川氏を裏切らないことが前提となる。
今川義元と織田信長の戦いは、桶狭間にて義元が討ち取られて決着する。桶狭間での戦力は、織田方2,000人 vs 今川方5,000人と言われているが、野戦で2,000人が5,000人を打ち破れる道理はなく、一次資料とされる「信長公記」といえどもこれに関しては誤りの可能性が指摘されている。実際には五分五分、むしろ織田方のほうが多かったのだろう。義元のいる場所を正確に知り、そこに戦力を投入した信長の知略の勝利と言える。[桶狭間の戦い]

義元を失った今川軍は撤退し、三河の国衆たちはそれぞれの本拠地へ戻った。牧野成定も西三河の牛久保城へ帰った。そして翌年の永禄5年(1561)、西三河の徳川家康(当時はまだ松平元康)が東三河へ攻め込んでくる。
家康は今川氏真の命で岡崎城へ入っていたが、尾張から近いため織田氏の脅威にさらされていた。実際には信長は美濃一色氏(斉藤氏)との戦いで手一杯だったため三河へ軍勢を差し向ける余裕はなく、家康との戦いは小競り合い程度だった。とはいえ織田が大軍を率いて三河へ攻めて来る可能性がないわけではない。三河を防衛するよりも、越後上杉氏に攻められている同盟国の武田氏北条氏を救援することを優先する氏真に、家康は失望した。そして今川氏から離反することを選んだ。

家康は牧野成定の牛久保城を攻めた。成定の重臣・真木兵庫助が戦死する激戦だったという。徳川軍は兵を引いたが、牧野平左衛門や牧野助兵衛など牧野一族からの離反が相次いだ。それでも成定が今川氏真へ忠誠を誓ったのは、成定の嫡男・新次郎を人質に取られていたからだった。その後4年の歳月の中で東三河の城は次々に落とされ、今川直轄の吉田城も開城交渉により落とされた。城代の大原資良を始め駿河・遠江出身の武士は国へ帰り、三河出身の武士は家康に三河での所領を安堵してもらい、徳川家臣になって残った。東三河で今川方として残るのは牧野成定の牛久保城のみとなる。ここでも家康は開城交渉を行った。開城条件は、徳川氏の臣下に入ることで成定の権益をそのまま認めるというものだ。成定は病床に伏しており、余命幾ばくもなかった。徳川方の切り札は、成定の嫡男・新次郎(11歳)だった。新次郎は今川方に人質に取られていたのだが、その場所は吉田城であり、大原が開城した際に家康に託していた。かくして成定は牛久保城を開城し、徳川氏の家臣となった。そして家康は三河平定を成し遂げた。
その後ほどなく成定は病没し、新次郎は元服して牧野康成と名乗った。その後牧野氏は、徳川氏の繁栄とともに明治まで家名を残す。

雪雲は去り、吹雪は止んだ。

豊川市と豊橋市の間を流れる一級河川・豊川。戦国時代当時と同じ場所に流れている。

ここには多聞櫓があり、向かって左端には三重櫓の川手櫓が建っていた。この階段を使って川から直接多聞櫓内へ入ることが出来た。

田原城
| 指 定 | - |
| 遺 構 | 石垣、堀、[再建]門、櫓 |
| 歴 史 | 文明12年(1480)頃に戸田弾正左衛門宗光により築かれた。元々は尾張の知多半島を領しており、田原城を本拠として渥美半島も統治すると、三河湾を支配した。渥美郡北部の牧野氏領へ侵攻し領土拡大を図るも、今川氏や松平氏(徳川氏)に翻弄された。最後は徳川家康に臣従し松平姓を与えられ、戸田忠重の子が松平康長となった。戸田姓は、庶流の戸田一西-氏鉄が名を残している。 |
| 駐車場 | 田原市博物館駐車場 – Google マップ |
| 住 所 | 愛知県 田原市 田原町巴江15-1 |
| トイレ | 駐車場にあり |
| 訪問日 | 2026年2月8日(日)曇りのち晴れ |
4.田原城-空堀・二の丸

吉田城から田原城まで、車で40分程度。現在本丸は巴江神社、二の丸は田原市博物館、三の丸は護国神社になっている。大手門である桜門と二の丸にある二の丸櫓が再建されている。本丸西側の水堀跡にある駐車場に車を停め、空堀を通って田原城へ入る。

本丸(左側)と二の丸(右側)の間にある空堀。戦国時代には水堀として使われていたようだ。

二の丸には二の丸櫓が再建されている。

尾張国の知多半島を本拠としていた戸田氏が三河へやってきたのは、前節で述べた通り。戸田弾正左衛門宗光は、渥美郡南部の田原に城を築いた。宗光の子・憲光の代で、吉田城の牧野古白を討ち、渥美郡北部へと版図を拡大した。戸田氏は見ての通り三河湾の出口である知多半島と渥美半島を押さえており、三河では松平氏に比肩する有力国衆だった。
三河戸田氏で最も有名なのは、戸田憲光の孫の戸田弾正忠宗光だろう。曾祖父と同じ弾正と宗光を名乗ったため混同しやすいが、こちらは大永~天文年間半ば(1521~1547)に活躍した人物だ。別名・戸田康光として知られている。有名なエピソードは次のものだ。
今川義元に臣従した松平広忠が、嫡男の竹千代(4歳-のちの徳川家康)を人質として差し出した。それを護送する役目を担った戸田康光は、渥美半島から船で出航した。しかし義元のいる駿河へは向かわず、今川氏が敵対する尾張の織田信秀の元へ行った。「三河物語」では1000貫文、「松平記」では100貫文で竹千代を売り渡したという。
怒った今川義元は田原城へ軍勢を差し向け、戸田康光と嫡男・堯光ともども攻め滅ぼした。
しかしこれは創作で、実際には松平広忠自身が織田信秀に竹千代を人質に出したようだ。

江戸期の田原藩の藩船・順応丸。当時の最新鋭兵器であるドンドル銃(雷管銃)は驚異的な火力を誇り、それを装備した順応丸は、江戸と田原を往復する海上で異彩を放っていた。諸藩の有志が砲術修行のため、田原藩に教えを請いに来たという。

田原城と現在の地図を重ねたもの。三河湾とのアクセスは不明だが、田原城の北側と西側には山があり、南側にも平地が広がっているため、当時は東側の汐川が城のすぐ近くまで来ていたものと考える。
5.田原城-本丸・桜門

二の丸から連絡する土橋を通って本丸へ入る。土橋の両脇は堀になっている。

三河戸田氏4代目・戸田宗光のとき、全盛期を迎える。天文5年(1536)、宗光は渥美郡北部の吉田城(当時は今橋城)を攻め、牧野信成を敗走させて領土を拡大した。田原城にいる嫡男・堯光に家督を譲ると、吉田城の東にある二連木城には次男の宣光を入れ、自身は吉田城へ入った。そして娘の真喜姫を、西三河の有力国衆・松平広忠に嫁がせた。広忠は、正室・於大の方(家康の生母)とはすでに離縁していたので、真喜姫は継室になる。

天文15年(1546)、今川義元による三河侵攻が始まる。遠江の国衆たち(天野景泰・井伊直盛・松井貞宗)の活躍により吉田城と二連木城は攻め落とされ、宗光と宣光は敗走した。田原城にも今川軍が攻め込んできたが、戸田堯光は徹底抗戦した。先ほど述べた通説エピソードではこのとき堯光は敗死することになっているが、実際は今川軍を撃退している。城から出て追撃しようとする堯光を、殿の松井宗信がなんとか押し返して凌いだという。

戸田氏はその後、宣光の子・忠重が跡を継ぎ、徳川家康の家臣となる。そして姻戚関係であったことから松平姓を与えられ、忠重の子は松平康長となり、明治まで家名を存続させた。


コメント