【周防:凌雲寺&大内氏館】西国の太守・大内義興の築いた城郭寺院・凌雲寺と、山口奠都(てんと)を目指した大内義隆の大内氏館を歩く

西国
城郭寺院・凌雲寺の総門跡
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トピックス

① 城郭寺院・凌雲寺の建てられた経緯

② 大寧寺の変の真相

③ 厳島合戦で陶晴賢が敗死した理由

凌雲寺

指 定国指定史跡
遺 構石垣、門跡、切岸
駐車場凌雲寺跡見学者駐車場 – Google マップ
住 所山口県 山口市 中尾1241
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2026年4月6日(日)晴れ

1.凌雲寺跡

凌雲寺跡の遠景

周防すおう国吉敷よしき郡(山口県山口市)にある凌雲寺りょううんじは、大内義興よしおきにより創建された城郭寺院である。西ノ浴にしのよく川と東ノ浴ひがしのよく川という2本の川がその両脇を並行して流れる丘陵の上にあった。今は建物は何もなく、地上に見えるのは石垣と石壁の一部のみで、礎石列・石敷・階段などが地中に埋まっている。凌雲寺の建てられた経緯を述べるため、義興の生い立ちから順に追っていく。

義興の父・大内政弘まさひろは、周防すおう・長門ながと・筑前ちくぜん・豊前ぶぜんの4ヶ国の守護大名で、石見いわみと安芸あきの一部も支配する西国の太守だった。多くの守護大名はまだ在京していた頃だが、大内氏は領国経営に主軸を置いて周防を本拠としていた。そして博多商人と連携して日明貿易に力を入れており、遣明船の主導権をめぐって京都の細川勝元かつもとと激しく対立していた。その争いは、細川氏の主導する室町幕府とも対立を辞さない構えだった。そんな中、応仁元年(1467)に山名宗全そうぜんと細川勝元が京都で戦を始めた。発端は河内畠山氏の内乱であり、畿内近国の守護大名・国衆たちを巻き込んでの大戦となる。山名氏はこのころ、但馬たじま・備後びんご・安芸・伊賀いが・播磨はりまの5ヶ国の太守で、大内氏と姻戚同盟を結んでいた。それにより政弘は、山名氏(西軍)の援軍として1万人の軍勢とともに周防から京都へ乗り込んだ。[応仁・文明の乱]

大内政弘は京都に長期滞在し、西軍の主力として畿内各地を転戦した。文明2年(1470)になると、留守を守っていた大内教幸のりゆき(政弘の伯父)が、幕府から大内氏の当主と認められて大内領国を席巻し始めた。細川勝元の調略であったが、周防守護代の陶すえ弘護ひろもりと石見国衆の益田ますだ貞兼さだかねの活躍により周防を守り切り、窮地を脱した。教幸は追い落とされ、九州へ逃亡した。

文明5年(1473)に山名宗全と細川勝元が相次いで病死すると両氏は和睦したのだが、それでも政弘は足利義視よしみを旗頭に、細川氏と戦い続けた。そんな最中の文明9年(1477)に、大内義興(幼名は亀童丸)は京都で産声をあげる。時を同じくしてようやく東西両軍が停戦し、政弘は生まれたばかりの赤子と妻を連れて周防へ帰った。政弘の帰国後の最初の仕事は、教幸に奪われた九州(筑前・豊前)の大内領の奪還だった。

高さ約20mの切岸に設けられた階段を登る

応仁・文明の乱収束から14年後の延徳3年(1491)、時の将軍・足利義稙よしたね(25歳-当時は義材よしき)は、近江の六角氏を討伐するため畿内近国の大名に召集をかけた。

義稙は2年前に病死した前将軍・足利義尚よしひさの従弟で、義尚の母・日野富子の要請により隠遁先の美濃から京都へ戻り将軍となった。しかし共に上洛した頼みの父・義視よしみはその後すぐ亡くなる。政治経験はなく、頼れる親族も腹心もいない義稙は、幕府の重臣たちに認めてもらうために「六角氏征伐」を思いついた。これはその昔義尚が行った策で、隠居の身なのに権力を放棄しない父・義政よしまさからの自立(権力の強制移譲)を図り、六角氏征伐を行ったことがあった。各地の大名が義尚のもとに集まり、義尚の命で大名たちが軍勢を動かす。義尚が将軍であることを万民が理解出来るイベントだった。(そのために攻撃される六角高頼たかよりはたまったものではないが。)義稙はそれを模倣することにした。

周防にも義稙から召集状が届いたが、大内政弘は今回は動かず、代わりに嫡男・義興(14歳)を名代として上洛させた。義稙の呼びかけに集ったのは、安富元家もといえ(細川政元の名代)、細川義春よしはる、畠山尚順ひさのぶ、斯波しば義寛よしとお、武田元信もとのぶ、赤松政則まさのり、京極政経まさつね、山名俊豊としとよ(政豊まさとよの名代)、一色義直よしなお、土岐とき成頼なりより、そして大内義興。東は尾張から西は周防まで、合計2~3万人の軍勢が集まったものと考えられる。

六角氏征伐イベントは無事成功した。気を良くした義稙は、続いて河内の畠山義豊よしとよ(当時は基家もといえ)の討伐に兵を挙げることを大名たちに命じた。これは幕府の重臣・畠山政長まさなが-尚順ひさのぶ親子の要望を聞き入れたものだ。と同時に、その次は越前を実行支配している朝倉貞景さだかげ(元斯波しば氏の家臣)を討伐すると宣言した。これも重臣・斯波しば義寛よしとおの要望によるものだ。将軍の家宰で幕府№1の「管領」の地位はもともと、斯波氏・畠山氏・細川氏の三氏の持ち回りで行い、権力が集中しないようにするルールだった。しかしこの頃には細川氏ひとりが管領を独占していた。義稙は畠山氏と斯波氏の勢力回復を図り、三氏体制の復活を考えていたのかも知れない。

宝篋印塔(ほうきょういんとう)。大内義興公とその妻の墓

明応2年(1493)に京都でクーデターが起こる。足利義稙が河内へ畠山義豊討伐へ向かっている間に、新たな将軍・足利義澄よしずみ(初名は義遐よしとお)が擁立されたのだ。首謀者は細川政元で、日野富子と伊勢貞宗さだむねの合意のもとに決行された。富子は自ら軍勢の陣頭指揮を取り京都を制圧し、貞宗は義稙とともに河内にいる大名や奉公衆へ「新将軍に従うように」との密書を送った。政元側に日野富子がいることが大きく、大名たちは次々に河内から撤退した。新参者の将軍よりも、長年将軍の妻として京都を統治してきた富子のほうが求心力が強かった。義稙にはまだ畠山政長まさなが-尚順ひさのぶの軍勢8,000人がいたが、幕府を牛耳った政元たち大軍勢の前に屈した。政長は敗死し、尚順は紀伊へ敗走。義稙は捕らえられ幽閉された。[明応の政変]

大内義興は数千人の軍勢で義稙とともにいたのだが、京都に滞在していた妹を政元派に誘拐され脅されており、河内から離れて摂津西端の兵庫津まで引き上げ、中立の立場で事態を見守った。幽閉された義稙は、政元の指示で殺されそうになったものの自力で抜け出し、畠山政長の家宰・神保長誠ながのぶを頼って越中へ逃亡した。京都はふたたび、細川政元ひとりが支配するところとなった。

凌雲寺最大の見どころ「総門跡」へ

翌年の明応3年(1494)、大内義興(17歳)は病床の父・政弘に代わり大内氏当主になる。しかし家督継承後、不穏な事件が次々に発生した。大内三家老の筆頭・陶すえ武護たけもりは、先の足利義稙の六角氏征伐・畠山義豊征伐で義興に付いて従軍していたが、突如出家し行方不明になる。2年後に周防でふらりと現れると、陶氏を継いでいた弟の興明おきあきをいきなり殺害してしまう。その後、三家老の内藤弘矩ひろのりがそれを主導していたことが分かり、義興はこれを成敗した。さらに三家老の杉武明たけあきが出家している義興の弟・尊光そんこうを擁立して反乱をおこしたので、これも鎮圧した。陶武護の乱心はグレーだが、それを操った内藤弘矩と、尊光の反乱を画策した杉武明は、大内氏の弱体化を狙った細川政元の調略により行われていた。調略で敵方の内乱を起こさせるのは細川氏のお家芸だ。陶氏は三男・興房おきふさが、内藤氏は弘矩の弟・弘春ひろはるが、杉氏は武明の子(?)・重祐しげすけが継ぎ、大内三家老は全メンバーが一新した。

草原を南へ下る

明応9年(1500)、足利義稙よしたね(34歳-当時は義尹よしただ)が大内義興(23歳)を頼って周防へやってきた。明応の政変から7年が経っていた。

幽閉から抜け出した義稙は、越中で庇護された。越中の神保じんぼ長誠ながのぶや能登の畠山義統よしむねに政元を討つよう要請したが、彼らは腰が重く、軍勢を出さなかった。六角氏征伐のときには畿内近国の大名が集まり一大連合軍となったのだが、今回はそうはならない。なぜなら足利義稙は前将軍であり、京都には幕府が認めた現将軍・足利義澄よしずみがいるからだ。義稙が刃を向けようとしているのはその義澄の右腕。義稙が勝てる確証がなければ誰も動けなかった。かといって義稙を邪険に扱うこともなかった。「前将軍を追い払うとは、いざとなったら信用できない奴」というレッテルを貼られるわけにもいかないからだ。駆け引きなしで義稙に味方するのは、もはや畠山尚順ひさのぶと大内義興だけだった。義稙は、義興に援軍を要請し神保氏・能登畠山氏と合同で上洛する案を打ち出したが、長誠ながのぶと義統よしむねに却下された。大内氏のほうがはるかに大身のため、一緒に戦うと“大内氏とその他連合軍”となって手柄を持っていかれるのを懸念した。

義稙はその後越前へ赴き、神保氏・能登畠山氏より可能性のありそうな朝倉貞景さだかげの説得を試みた。そうこうしている間に、畠山尚順が紀伊で挙兵し、京都の細川政元を目指して進軍を始めた。義稙は居ても立っても居られなくなり、貞景の反対を振り切って、わずかな手勢で越前から出陣した。越中・能登・加賀・越前・若狭から有志を募り、合流して京都を目指す。しかし近江に入ったところで六角高頼の攻撃を受けた。正当な理由のない六角氏征伐で一方的に痛めつけたしっぺ返しが、こんなときにやってきた。寡兵の義稙軍はひとたまりもなく壊滅し、その悲報を受けた畠山尚順ひさのぶ軍も士気がダダ下がりで大敗した。

義稙は北陸へは戻らず、大内義興のいる周防を目指した。

2.総門跡

総門東端の石垣

足利義稙を迎え入れた大内義興はすぐにでも上洛したかったが、まだ動くことは出来なかった。周防にいながら、細川政元との戦いはすでに始まっていたのだ。先の内藤弘矩ひろのりや杉武明たけあきの謀反がまさにそうだ。政元は幕府の権力を笠に大内氏家臣たちに甘い話を持ち掛け、大内氏を内部から破壊しようとした。義興は内外の対抗勢力を叩き、不安要素の排除に努めた。この頃には九州北部に勢力を持つ少弐しょうに氏との抗争に勝利し、その弱体化に成功していた。しかし九州最大の大名・大友氏との抗争は継続中だった。

総門跡の石垣

義稙が周防へ下向してからさらに7年後の永正4年(1507)、細川政元が家臣により暗殺された。その後の家督争いで細川氏でも内乱が勃発した。政元の3人の養子(高国・澄之・澄元)が直接争ったわけではなく、その取り巻きである細川一族や家臣同士の争いだった。細川京兆家(宗家)の次期当主は政元の生前に澄元と決まっていたが、澄元が来る前は澄之だったため、それを不服とする澄之派により政元は暗殺される。→ 謀反の咎で澄之と澄之派は討たれる。→ 澄元が当主となるが、澄元は阿波細川氏出身のため阿波衆が幅を利かす。→ それが面白くない細川野州やしゅう家は高国を推し澄元を追い出す。といった経緯により、最終的に細川高国が京兆家の当主となった。その過程で細川一族と家臣たちは多くの血を流した。義稙と義興にとっては、またとない上洛のチャンスが到来した。

案内板の写真

この写真は10年前の発掘調査の航空写真だ。埋蔵遺構や遺物が多数発見されているが、その中に大内氏の家紋である大内菱が型取られた瓦がある。家紋入り瓦としては、国内最古のものだという。そのレプリカ(?)は、大内氏館跡(龍福寺)で見ることが出来る。

大内義興は、大内氏館から西へ4~5kmほどのところにある丘陵を整備して凌雲寺を築いた。その東側・西側は天然の水堀と切岸で守り、南側は朝鮮半島の城グスクを思わせる巨石を積み上げた総門で守った。自分が留守の間の、有事の際の防御拠点として位置付けた。

そして年が明けてすぐ、生まれたばかりの嫡子(亀童丸-のちの義隆)と産後の妻を残し、義興は義稙を奉じて京都へ向けて出陣した。総勢1万2,000~1万4,000人の上洛軍は、大船70艘の大艦隊で周防を出発し、堺を目指した。その軍勢の大半は、他国の国衆で占められていた。安芸国からは、武田元繁もとしげ・毛利興元おきもと・吉川きっかわ元経もとつね・平賀弘保ひろやすなど。石見国からは、吉見頼興よりおき・益田宗兼むねかね・三隅興信おきのぶ。そして出雲国からは尼子あまご経久つねひさも参陣した。大内家臣団は、三家老筆頭の陶すえ興房おきふさと、杉氏庶流の杉興相おきすけのみだった。豊前守護代・杉重祐しげすけ、筑前守護代・杉興長おきなが、長門守護代・内藤弘春ひろはるらは、九州の大友氏などの敵対勢力の抑えとして本国に残した。余談だが大内氏重臣の杉氏には庶流が多く、宗家と7つの分家は「八本杉」と呼ばれた。豊前守護代の杉重祐が宗家で、筑前守護代の杉興長は庶流の“弾正忠だんじょうのちゅう家”、杉興相は庶流の“次郎左衛門尉じろうざえもんのじょう家”。

総門跡(高さ2.6m×長さ62.7m)

義稙上洛軍が堺に着くと、細川京兆家(宗家)の当主に就いたばかりの細川高国は現将軍・足利義澄を見限り、義稙を将軍に迎え入れた。義興は義稙が将軍になったら周防へ帰るつもりでいたのだが、義稙から山城守護と管領代を与えられ、なかば強引に幕政に加えられた。「管領」は細川高国が持っているので、義稙はそれに比肩する「管領代理」という役職を新たに設けた。将軍・足利義稙とそれを補佐する4大名(細川高国・大内義興・畠山尚順・畠山義元)による新体制がスタートした。

京都を追われて近江に潜伏していた足利義澄は、同じく細川高国派に敗れて近江に潜伏していた細川澄元と再びタッグを組み、義稙幕府方に勝負を挑んできた。[如意ケ嶽の戦い] しかし完膚なきまで敗れ、義澄は近江の水茎岡山城(近江の国衆・九里氏の城)を本拠とし、澄元はホームの阿波へ帰って力を溜めた。

永正8年(1511)、細川高国を快く思わない一族の細川政賢まさかた(細川典厩てんきゅう家)を味方につけた義澄と澄元は、淡路守護・細川尚春なおはるや播磨守護・赤松義村よしむらとともに京都を攻めた。義稙幕府方は一時丹波まで退却したが、体制を立て直して再び京都で激突する。しかしこのとき水茎岡山城にいた義澄が急死した。病死とも暗殺ともいわれる。そんな中で義稙幕府方は京都の船岡山城に本陣を敷く義澄方を攻め、細川政賢を討ち取り澄元を阿波へ敗走させた。[船岡山合戦]

義興はその武功をたたえられ、従三位じゅさんみ(公卿)に列せられた。

しかし在京が長引くと、西国の国衆たちは耐えきれなくなって勝手に帰国する者が相次いだ。安芸で戦乱が発生したので、その鎮圧のため安芸の武田元繁もとしげを帰国させた。ところが元繁は帰るや否や出雲の尼子経久つねひさ(先に勝手に帰っていた)と手を組み、武力で領地を拡大し始めた。収拾がつかなくなったため、義興は山城守護と管領代の地位を返上し、周防へ帰ることにした。義興にとって重要なのは海外貿易の利権と領国支配であり、中央政権の役職などどうでもよかった。貿易で得られる莫大な利益に比べたら、国内でのパイの取り合いなど愚かしく見えたのではないだろうか。

大内氏館

指 定国指定史跡
遺 構土塁(築山跡)、堀跡、井戸跡、塼列建物跡、掘立建物跡、池泉跡、土橋跡、かまど跡、[再建]西門、庭園、石組溝
駐車場大内氏館跡・十朋亭 来場者用駐車場 – Google マップ
史跡大内氏遺跡 見学者用駐車場 – Google マップ
住 所山口県 山口市 大殿大路120-5
山口県 山口市 野田3-2
トイレ築山跡と大内氏館跡の間の駐車場にあり
訪問日2026年4月6日(日)晴れ

3.龍福寺(大内氏館跡)

龍福寺の山門

凌雲寺跡から車で約20分で大内氏館跡に到着。ここは、南北朝期に大内氏第9代当主・大内弘世ひろよが守護所として築いた城郭館である。弘世の孫・大内教弘のりひろの代で館の北側に築山館つきやまやかたを増築した。その後、政弘-義興-義隆と3代続き、約200年ものあいだ大内氏はこの地で繁栄した。最大版図は最後の義隆のときで、周防・長門・筑前・豊前・安芸半国・石見半国、あわせて約90万石を支配した。勢力の及んだ地域を含めると、約150万石にも及ぶ。

余談だが、山門両側の土塀に三本線が入っているのは「筋塀すじべい」といって、寺院の格式を表す。

豆知識

【筋塀】

一本筋:一般的な寺等

二本筋:比較的格式の高い寺院

三本筋:かなり格式の高い寺院。勅願寺・

門跡寺院・有力大名の菩提寺など

五本筋:皇室や将軍家と深い関係のある特別な寺院

龍福寺

大内氏館は天文20年(1551)の大寧寺たいねいじの変で焼失した。その後大内義隆の7回忌に、娘婿である毛利隆元により菩提寺・龍福寺りゅうふくじが建てられた。残念ながら当時のものは明治期に焼失しており、現在の龍福寺は再建されたものになる。

大内義興公像

大永4年(1524)が大内義隆の初陣となる。大内氏は山陰の尼子氏と激しく争っており、義隆(17歳)は父・義興(47歳)に従い、2万5,000人の軍勢で尼子方の佐東さとう銀山かなやま城を攻めた。それから17年後に、義隆は2度目の佐東銀山城攻めを行っている。詳細は【安芸:佐東銀山城】にて。

【安芸:佐東銀山城】「今項羽」とうたわれた武田元繁の居城、広島の三角州をのぞむ佐東銀山城へ登る
“西の桶狭間”と呼ばれる有田中井手の戦いで、毛利元就に敗れた武田元繁。戦国初期に主家や守護大名に頼らず己の才覚のみで覇を競った勇将、「今項羽」の異名を持つ武田元繁の居城、佐東銀山城へ登る。
大内義隆公の墓

第二次佐東銀山さとうかなやま城攻めと吉田郡山よしだこおりやま城攻めのあった天文10年(1541)は、大内氏にとって大きな転機となる。その年の11月に尼子経久(83歳)が死去し、翌年1月に大内義隆は尼子氏との雌雄を決するべく、出雲の月山富田城攻めを決行した。この戦は総勢4万5,000人を動員して1年以上かけて行軍し、義隆最大の大戦となった。しかし尼子氏当主・尼子晴久(30歳)の壮大な調略にはまり、世紀の大敗北を喫する。このとき義隆(36歳)は、養嗣子ようしし・義持よしもち(19歳-義隆の姉の子)を失った。その後尼子氏と戦うことをやめ、九州の大友義鑑よしあき(41歳)とも5年前に和睦していたため、これ以降は大内氏が積極的に軍事行動を起こすことはほぼなくなった。詳細は【出雲:勝山城】にて。

【出雲:勝山城】毛利元就が改修した月山富田城の付城、50本の畝状竪堀を持つ出雲勝山城へ登る
京羅木山城砦群は月山富田城の向かいの山にあり、尼子攻めの拠点として2度使用されている。特に毛利元就による第二次月山富田城の戦いでは、城砦群の南方にある勝山城に50本もの畝状竪堀を築き、富田城を落とすまでは帰らない本気の姿勢を見せ、難攻不落の富田城をついに攻め落とした。今も畝状竪堀の残る歴史の舞台、出雲勝山城へ登る。
大内義隆公 辞世の句碑

辞世の句「討つ人も 討たるる人も 諸共もろともに 如露亦如電にょろやくにょでん応作如是観おうさにょぜかん」は、現代語訳すると「私を討とうとする者も討たれる私も、共に、露や雷のように一生は短く儚はかないものだ」となる。

義隆は天文20年(1551)に大寧寺たいねいじで自刃した。大寧寺の変は、義隆が月山富田城の戦いで敗れてから8年後に起きた。義隆とそれを討った陶すえ隆房たかふさ(のちの晴賢はるかた)の行動を理解するためには、そのときの京都の様子を知る必要がある。歴史は常に、点ではなく線や面で見ないといけない。

天文15年(1546)、細川晴元はるもと(32歳)の重臣・三好範長のりなが(24歳)は、諱いみなを“長慶ながよし”と改めた。「三好長慶ながよし」の誕生である。この頃の京都は、将軍・足利義晴よしはる(35歳)と管領・細川晴元の2人が支配していた。義晴は足利義稙よしたねに敗れた足利義澄よしずみの子で、晴元は細川高国たかくにに敗れた細川澄元すみもとの子であり、それぞれ親の無念を晴らした捲土重来けんどちょうらいだった。特に晴元は高国との直接対決により天下を勝ち取っていた。しかし晴元は、天下取りの直後にその最大の功労者である三好元長もとながを殺していた。この裏切りは元長の嫡男・長慶ながよしにとっては許しがたく、満を持して改名とともに晴元に反旗を翻した。詳しくは【淡路:洲本城】にて。

【淡路:洲本城】安宅冬康の居城にして近世遺構「登り石垣」が良好に残る淡路の城・洲本城へ登る
戦国時代、淡路島の洲本を拠点に安宅水軍を率いて畿内を転戦した安宅冬康。兄・三好長慶を支え、戦国最初の天下人への原動力となった冬康の居城・洲本城へ登り、その生き様に思いを馳せる。

天文19年(1550)、三好長慶の下剋上により細川晴元は近江へ追われた。長慶は晴元のみを排除することが目的だったが、足利晴元と幕臣たちは陪臣の三好氏が京都を支配する状況を受け入れることが出来ず、晴元のいる近江へ撤退してしまった。長慶は将軍のいなくなった京都を自分だけで治めるしかなくなり、図らずも将軍を推戴しない政権・三好政権が誕生した。

大内氏館跡内にある池泉庭園

京都から足利義晴と細川晴元がいなくなると、困ったのは朝廷だった。朝廷が執り行う様々な儀式「朝儀ちょうぎ」は、幕府や晴元の資金援助に支えられていた。三好長慶が朝廷にまったく援助しなかったわけではないが、新興勢力にそこまでの財力はなかったものと考える。そのため朝廷は大内義隆を頼るようになる。義隆は、天文3年(1534)に後奈良天皇の即位料を献金して以来、毎年朝廷に献金していた。現在の通貨で数百万円ほどであるが、天文6年(1537)に10年以上見送りになっていた白馬節会あおうまのせちえなどの朝儀を再興した際は、1億円に相当する援助を行っていた。

天文19~20年にかけて、京都からの訪問者が続々と山口に集まってきた。二条尹房ただふさ・三条公頼きみより・持明院じみょういん基規もとのりといった公家。東儀とうぎ兼康かねやすなどの宮廷雅楽ががくの演奏家。櫛田宗次むねつぐという朝儀設営を専門とする下級官人。彼らは皆、朝儀の専門家だった。集まっていたという状況証拠だけではあるが、後奈良天皇を山口に招き、翌年の正月節会せちえを行う準備をしていたものと考えられる。アジア史に詳しい歴史学者のトーマス・コンラン教授はこれを、京都を廃してその機能を山口に移す“遷都せんと”であると主張している。しかし裏付ける一次資料はなく、研究者のあいだで議論となっているようだ。ただ、京都を主としながら山口を“第二の都”として京都の機能を持たせるのであれば、都を定める“奠都てんと”だといえるだろう。

西門(再建)

着々と朝儀の準備は進められていたが、山口で正月節会が開催されることはなかった。天文20年(1551)8月、陶隆房(晴賢)は大内義隆の討伐を掲げて挙兵した。隆房は謀反に際し、大内家臣団の首脳陣5名全員の合意を取っていた。つまりは隆房以外の三家老(内藤興盛おきもり・杉重矩しげのり)、安芸備後国衆のリーダー・毛利隆元たかもと(28歳)、石見国衆のリーダー・益田藤兼(22歳)である。謀反の明確な理由は分かっていない。ただ私見を述べるなら、大内家臣団が大きくなり過ぎていたことが挙げられるだろう。武士を形成するもの、これは公家との決定的な違いであるが、武士には「主君と家臣」という縦のネットワークがあった。これがトーナメント戦のラインのように上下に何階層にも張り巡らされているからこそ、その集団が100人、1,000人になっても、大将の指示が末端まで行き渡り、一つの意思を持った生物のように集団は動くことが出来る。これは決して片務的なものではなく「御恩と奉公」というギブ&テイクにより担保されるものだ。「城を建てる」「道を整備する」「隣国を攻める」といった軍事行動があってこそ、そこに「御恩と奉公」が生まれ、武士は武士たらしめることが出来た。ところが朝儀ではその「御恩と奉公」は生まれない。武士が武士であることが出来なくなる。それが大寧寺の変の真相だと思う。

石組溝(排水溝)

陶隆房は始め、大内義隆を隠居させて嫡男・義尊よしたか(6歳)を当主とし、自分が後見人となるという提案をした。しかし協議にて採用されず、「義隆よしたかも義尊よしたかも殺害」と決定した。隆房案却下の理由は恐らく、義尊の母・おさいの方にあるだろう。彼女は公家の出身だった。公家が問題で主君を排除しようとするのに、新たな当主に公家の子を推戴するのか?という疑問に、隆房は明確に反論できなかったのだろう。義尊を生かしたまま廃嫡すると反乱の火種になることは見えているため、「親子とも殺害」に落ち着いた。義隆親子を排除したあとの当主には、義隆の甥で条件付き養嗣子ようししとして大内氏に居た実績のある大友晴英はるひでを迎え入れることになった。

陶隆房を大将とする大内氏重臣たちの軍勢が山口へ侵攻した。義隆は義尊を連れて大内氏館を出て逃走した。義隆親子に付き従う家臣も多かったが、絶対的な数で隆房方が上回っていた。最初に向かったのは父・義興の墓がある凌雲寺だった。大内氏を滅亡させてしまうことを謝ったのだろうか。最終的に長門国大津郡(山口県長門市)にある大寧寺に入り、逃げ切れないと観念し自刃した。大内義隆、享年44歳。

4.築山跡

大内氏館跡と築山跡のあいだにある土塁。4年前に来たときはちょうど土塁の工事中だった。なので(良い意味で)遺構っぽい雰囲気を醸してはいるが、遺構ではなく再建土塁だ。

築山跡

築山館は、大内氏館が手狭となったため大内教弘のりひろの代で増築されたものだ。その後は大内氏館を政庁、築山館を大内氏当主の居館として使用した。

八坂神社

築山跡には八坂神社と築山神社が建っている。

築山神社

慶長10年(1605)、毛利輝元(隆元の子)は大内義隆を弔うため、築山跡に築山神社を建立した。

築山神社の西側に残る土塁

最後に厳島合戦について少しだけ述べる。

毛利隆元は大寧寺の変に際し、協力する条件として安芸国佐東郡の割譲を要求した。ここはもともと武田氏の領地だったが、武田氏滅亡後に大内領となっていた。陶隆房の軍事行動に従事するという“奉公”に対し、領地割譲という”御恩”を求めた。これにより毛利氏は安芸・備後2ヶ国をほぼ手中に収めることに成功する。毛利氏は、2年前に次男・元春が吉川氏に、昨年に三男・隆景が小早川氏に入嗣にゅうししており、一族が直接支配する領域を急速に広げていた。もはや単なる国衆のリーダーではなくなっていた。

一方大内氏は義隆親子を失い、新たな当主となった大内義長(19歳-大友晴英から改名)は、大内義興の娘の子ではあるが外孫で嫡流ではないため、一族や家臣たちからの求心力は小さかった。何よりも陶晴賢(30歳-隆房から改名)が大内氏を支配したため、他の家臣たちとの関係性に支障をきたし始めた。三家老の内藤興盛は大寧寺の変後に隠居し、嫡孫の隆世たかよが継いだ。しかし興盛の五男・隆春は親毛利派だったため、陶-毛利対立後、内藤氏は2つに割れる。三家老の杉重矩は陶晴賢との関係が悪化し、抗争のすえ敗死した。そのため重矩の子・重輔は、反陶派となる。

そんな状況の天文23年(1554)5月、陶晴賢は毛利隆元との全面戦争に突入した。内紛の内藤氏も敵対した杉氏も援軍を見込めず、大内氏・陶氏の支配地である周防一国の軍勢で毛利氏と戦わなければならなかった。下の表を見ていただければ力の差は歴然だろう。毛利氏の急激な勢力拡大と、義隆排除後の大内氏の内部分裂による双方勢力の逆転現象は、陶晴賢の最大の誤算だった。

勢力国名石高合計
大内氏・陶氏周防国16.7万石16.7万石
毛利氏安芸国19.4万石38.0万石
備後国18.6万石

毛利方は、御隠居の毛利元就、当主・毛利隆元、毛利水軍の将・小早川隆景がそれぞれ軍勢を率いて各地で戦った。1年5ヶ月に及ぶ抗争は、“厳島の戦い”で終止符が打たれる。通説では毛利軍6,000人 vs 陶軍10,000人とされているが、実際には毛利軍は8,000人で、陶軍はそれ以下だったようだ。陶晴賢は出陣前に、この戦で討死するかも知れないことをほのめかした弱気な手紙を残している。聡明な晴賢は未来を予見していた。しかしその運命を変えることは、もはや出来なかった。

山口名物「瓦そば」

山口名物「瓦そば」

湯田温泉の長州屋で、山口名物「瓦そば」を食べる。

まとめ

① 上洛により大内義興が不在となった山口の防御拠点として凌雲寺は築かれた

② 大内義隆が朝儀に傾倒したため、家臣たちの離反を招いた

③ 大内氏の勢力を毛利氏の勢力が上回ったため、陶晴賢は厳島合戦で敗北した

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