2022年2月5日(土)晴れのち曇り 時々雪[1/3]
目次
1.信貴山城址
形 態 | 山城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | 340m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 100m | ||
所要時間 | 2分 / 15分 |
指 定 | 平群町指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、門跡、石積 |
歴 史 | 河内・南山城の守護代・木沢長政が、大和に侵攻した際に築いた城。のちに三好長慶の重臣・松永久秀が入城した。100を超える曲輪を持つ「大和三大山城」のひとつ。 |
駐車場 | 松永屋敷跡 – Google マップ 松永屋敷跡登城口の先にある大谷池の奥に駐車スペースあり(3~4台) |
住 所 | 奈良県 生駒郡 平群町 信貴畑 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
1-①駐車場&登城口(北ルート)
県道250号線を南へ上り、信貴フラワーロードを横断してさらに上っていった林道の先に、信貴山城の登城口がある。車はその先にある大谷池奥の駐車スペースに停める。
車はここに停める。
登城口まで歩いて戻り、登城開始。
1-②松永屋敷跡
食い違い虎口(?)。この辺りはすでに城の一部だから、何らかの防衛設備はあったと思われる。
登城口から5分ほどで、松永屋敷跡に到着。ここ(屋敷の下)も信貴山城の曲輪のひとつ。敵の軍隊ならここまでくるのも容易では無かっただろう。
信貴山城は、河内と南山城の守護代・木沢長政が築城し、北摂出身で三好長慶の家臣となった松永久秀が改修した城として知られている。
屋敷跡出入り口の階段を登ると、左に武者が。刀に手をかけ、こっちを牽制している。
先に北側(右)の曲輪を見学。
屋敷といいながら造りは城と変わらない。この高さが防御力になっている。
天正5年(1577年)松永久秀は織田信長に2度目の謀反を起こし、織田信忠率いる4万の兵をこの城で迎え打った。
一段下の曲輪
一段下の曲輪の東側に虎口がある。
階段の出入り口は見学用に造られたもので、当時の出入り口はここだったようだ。
ここが虎口の下の通路。
下に降りて虎口を見上げる。ちょうど朝日が差し込んできて、木々が朝焼けに染まる。
先ほどの曲輪の北側(旗の奥)にもう一つ曲輪があり、一段高くなっている。最初の曲輪も一段高くなっていたから、虎口から入って来た敵を左右から挟み撃ちにする構想か?
最初の曲輪に戻る。
先へ(南へ)進む。こっちに信貴山城の本丸・雄嶽がある。
1-③立入屋敷跡
切り立った土の壁・切岸が行く手を阻む。この上に松永久秀の家臣・立入勘介の立入屋敷跡がある。
右手(西)に通路があるのでそっちへ進む。
先ほどの切岸から西の曲輪を経由して切岸の上の曲輪「立入屋敷跡」へ来た。雄嶽(本丸)と松永屋敷を連絡する重要な曲輪との事だ。
二の丸(?)に差し込む朝日が気持ちいい。朝日に照らされ、大和川も映える。
1-④本丸・雄嶽
雄嶽(本丸)には、朝護孫子寺の空鉢堂が建っている。
雄嶽(本丸)に建つ信貴山城の石碑。
悲惨な最期を迎えた松永久秀だが、その人生を終わりから遡っていくと、全てが必然の連続で避けようのない運命だったように思える。鬼才・三好長慶に臣従し大和方面軍を任された事の反動だとすれば、武士ならば本望だったのかも知れない。
1-⑤出丸・雌嶽
雄嶽(本丸)から南へ少し降ったところに、雌嶽(出丸)がある。
雌嶽(出丸)は、南北に細長い曲輪になっている。
雌嶽(出丸)から雄嶽(本丸)の空鉢堂が見えた。
2.椿井城址
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 150m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 40m / 110m | ||
所要時間 | 10分 / 15分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、堀切、土橋、石垣、竪堀、横堀 |
歴 史 | 詳細は不明だが、大和の国衆・島氏の城で、のちに三好長慶の重臣・松永久秀が入城したと考えられている。 |
駐車場 | 道の駅 大和路へぐり 第2駐車場 – Google マップ |
住 所 | 奈良県 生駒郡 平群町 平等寺 |
トイレ | 道の駅内 |
2-①駐車場~
信貴山城から15~20分、道の駅@大和路へぐり第2駐車場に車を停め、椿井城を目指す。
左右に瘤ふたつ見えるのが椿井城である。左が北曲輪群、右が南曲輪群。
交差点の全てに矢印看板があり、万が一にも迷うことはないだろう。
2-②登城口~
「椿井」の由来となった井戸と登城口。
南曲輪群の登城口から登る。このキャラクターは、家紋が三柏なので島左近のようだ。島左近は大和の国衆で筒井順慶に従ったが、その後石田三成に破格の待遇で仕え、関ヶ原の戦いで活躍したことで有名な人物だ。
登山用杖の奥にある看板に「北郭群は見学不可」と書かれてある。
ここはちょっと危ない。足場まではいかなくても、せめて柵やロープが欲しい。
2-③南曲輪群
土橋と堀切
a) 副郭
南曲輪群の副郭。
堀切を超え、隣の主郭へ。
b) 主郭
主郭。
広さは主郭も副郭も同じくらいかな?
主郭の南側にある土塁の上から副郭を見る。ここ(南側)にだけ土塁があるというのは、敵は南から攻めてくると想定しているのだろう。地理的にも、東側に連なる松尾山が天然の土塁となっているため、大和の南部北部を問わず、この平群の地に攻め込むには松尾山を迂回して南から来る事になる。
北曲輪群が見学不可なのは分かっているが、一応行ってみる。
南郭群と北郭群を中継する鞍部。
鞍部にも登城口がある。どこか、芥川山城に似ている。とすれば三好長慶の影響を受けた松永久秀による縄張りか?
北郭群は進入禁止。こっちが本丸なので、見れないのは残念だが仕方ない。
南曲輪群に戻り、帰ることにした。
※昼食「ル・パン・サクレ」
椿井城から大和郡山城へ向かうルート上に、ル・パン・サクレというパン屋さんがある。以前来た際、ナオはここのパンをいたく気に入り、もう二度と来ないかも知れないのにスタンプカードを大事に持っていた。ナオの「ルパンサクレがまた食べたい」の一言で、今回「北和」の城旅になった。
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