目次
1.石山寺
宗 派 | 東寺真言宗 |
寺 格 | 大本山 |
寺 内 | 国宝:本堂 多宝塔、国の重要文化財:東大門 鐘楼、国の天然記念物:珪灰石 |
歴 史 | 紫式部は、祈願のため石山寺に籠もっている間に源氏物語の着想を得たという伝承がある。 |
駐車場 | 石山寺観光駐車場 – Google マップ |
住 所 | 滋賀県 大津市 石山寺3-2-562 |
訪問日 | 2022年9月25日(日)晴れ |
a) 東大門
滋賀県大津市にある石山寺の東大門。源頼朝の寄進により建てられたという。
b) 珪灰石
珪灰石という巨大な岩山。これが「石山寺」の名前の由来だそうだ。
珪灰石の上に国宝の多宝塔が見える。
鐘楼。
c) 多宝塔
多宝塔。天正元年(1573年)織田信長と袂を分かった足利義昭は、信長と戦うためにこの石山寺に陣を敷いた。その際ここも戦場となったが、鐘楼も多宝塔も運良く戦火を免れた。
d) 芭蕉庵と月見亭
松尾芭蕉が住んでいたという芭蕉庵。
芭蕉庵の隣にある月見亭。
瀬田川。琵琶湖から始まり、大阪湾へ続く一級河川。滋賀県内では瀬田川だが、京都府に入ると宇治川と呼ばれ、八幡市の石清水八幡宮の辺りで3川(桂川、宇治川、木津川)が合流し淀川となり、大阪湾へ至る。
e) 本堂
国宝の本堂。
本堂の一角にある「紫式部源氏の間」。紫式部はここに籠もって源氏物語を書いたという。
2.宇佐山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★--- |
比 高 | 250m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 90m / 120m | ||
所要時間 | 15分 / 20分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、石垣、虎口 |
歴 史 | 織田信長の家臣・森可成の城。信長の命で、近江から京都の東山へ入る峠道・中山越えに、宇佐山城を建てた。 |
駐車場 | 近江神宮の駐車場 – Google マップ |
住 所 | 滋賀県 大津市 神宮町1 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2022年9月25日(日)晴れ |
2-①駐車場~
石山寺から約30分、近江神宮の駐車場に停めさせていただき、宇佐山城を目指す。保育園の門の左側のスペースが、宇佐山城に通じる道だ。
右を上る。
この門はくぐらず左へ。
宇佐山城の矢印看板は右を指している。
2-②登城口~
この辺りが登城口。
矢印看板にクイズあり。「家族の中で山頂にいるのはだれ?」
本丸東側腰曲輪の石垣。
主郭部(本丸&二の丸)と三の丸を分断する堀切。
三の丸へ続く土橋。
2-③三の丸
三の丸。
三の丸から琵琶湖が見える。
元亀元年(1570年)から始まった義昭・信長包囲網により、この地も戦場となった。志賀の陣である。
6年前に三好長慶は死んでいるとはいえ、この頃の畿内の最大勢力はいまだ三好氏だった。まだ実力不足の三好本宗家当主・三好義継(21歳)を差し置き、一門衆の三好長逸がリーダーとなり、三好宗渭や石成友通と共に三好勢の大半を統率していた。長逸は阿波以来の長慶の旧臣を、宗渭は細川晴元の旧臣で長慶と対立していた経緯のある家臣を、石成は長慶の畿内進出以降に臣従したその他の家臣を、それぞれ統率していた。この3人を、当時の人々は『三好三人衆』と呼んだ。
三好三人衆が摂津の野田・福島で挙兵すると、織田信長と足利義昭はそれを鎮圧するため、京都から摂津の天王寺へ進軍した。するとそれに呼応するかのように越前の朝倉義景と北近江の浅井長政は、信長と義昭のいなくなった京都を目標に進軍して来た。近江と京都を結ぶ中山越えに築かれているこの宇佐山城は、信長の家臣・森可成(47歳)が1,000騎の兵で守っていた。朝倉・浅井軍が進軍してくるのがここから良く見えたことだろう。
京都から救援に駆け付けた織田信治(27歳-信長の弟)の2,000騎を併せて3,000騎。二人は麓の坂本へ出て陣を張って迎え討ったものの、来たる朝倉・浅井軍は10倍の30,000騎。衆寡敵せず、信治も可成も討ち死にした。残った兵は森可成の家老・各務元正(28歳)の指揮により宇佐山城で防戦し、義昭・信長軍30,000騎が戻って来るまでの4日間、朝倉・浅井軍の攻撃をなんとか持ち堪えた。
宇佐山城による籠城で持ち堪えられるのなら、坂本に陣を張る必要はなかったのではないかと思いたくなるが、近江から京都へ入るルートが中山越えの他に小関越えから山科に入るルートがあることを考えると、双方を同時に守るには坂本に陣を張るより無いことが分かる。
皮肉にも宇佐山城は、大将を失ったことで当城を拠点としたい朝倉・浅井の目標となり、義昭・信長軍が戻るまでの時間稼ぎに成功した。
森可成の後にこの地を任された明智光秀は、激戦地となった坂本に新たな城・坂本城を建てた。坂本に陣を張る必要があるのなら、そこに城を建てれば良い。宇佐山城はその後も使用されていた可能性があると言われているので、城を移したというより増築による防御力の強化だろう。ただ明智光秀の人柄を考えると、傷ついた坂本の町を建て直し、町を復興させるための築城だった側面もあるのではなかろうか? 城は領主である武士の軍事拠点であると同時に、有事には領民が逃げ込む安全地帯でもある。
三の丸を後にし、主郭部へ向かう。(看板の右下にクイズの答えあり。)
3-④本丸
本丸北側の切岸。コンクリートの階段が設置されているので上れる。
だが先に本丸東側の帯曲輪を通って石垣を見に行く。
本丸東側の石垣。
本丸。TVアンテナ施設が建っている。
本丸の虎口。奥に少し見えるのが二の丸で、虎口が二の丸に対し90度横を向いているのが分かる。
虎口を下から見る。
二の丸。ここは有刺鉄線で入れないようになっている。
二の丸は先ほどの本丸下の帯曲輪と繋がっている。攻めて来た敵は、帯曲輪⇒二の丸⇒本丸虎口⇒本丸、と進軍する必要があるのだが、背後から来る三の丸の城兵に挟み討ちにされるので、かなり攻めにくいと思う。
3.勝軍山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 250m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆--- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 50m / 70m | ||
所要時間 | 8分 / 10分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀 |
歴 史 | 管領・細川高国の城。享禄4年(1531年)高国が細川晴元に敗れて死去した後は廃城となっていたが、天文15年(1546年)晴元と敵対していた足利義晴は、勝軍山城を改修して入城した。しかし晴元の家臣・三好長慶に攻められ、義晴は近江の坂本へ敗走した。 |
駐車場 | 狸谷山不動院駐車場 – Google マップ |
住 所 | 京都府 京都市 左京区 一乗寺松原町 |
トイレ | 狸谷山不動院にあり |
訪問日 | 2022年9月25日(日)晴れ |
3-①狸谷山不動院
宇佐山城から中山越えを経由して約30分。狸谷山不動院の駐車場に停めさせていただき、勝軍山城のある瓜生山へ。
名前が狸谷だからか、信楽のような有様になっている。
なぜか七福神。
狸谷山不動院。
宮本武蔵、修行の滝。
3-②登城口~
登城口。
3-③主郭部
登城口から10分ほどで、本丸に到着。
西曲輪と繋がる虎口。
西曲輪。この先は段曲輪が延々と続くので、本丸へ戻る。
本丸の東端にある祠。
祠の奥にある石室。
石室の裏側は土で覆われているので、土塁のように見える。
石室の先は一段低く、二の丸になっている。西側と違って東側は曲輪が広い。この先も段曲輪の様に下がりながら曲輪が続いているようだ。勝軍山城は、例えるならクロワッサンに似ている。
4.中尾城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★--- |
比 高 | 190m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆--- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 70m / 80m | ||
所要時間 | 15分 / 25分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切 |
歴 史 | 天文19年(1550年)細川晴元は、家臣・三好長慶の下剋上に遭い京都を追われた。京都を奪還するべく、足利義晴の嫡子で第13代征夷大将軍・足利義輝と細川晴元は、東山に新たな城・中尾城を築いた。しかし三好長慶に攻められ、近江の坂本へ敗走した。 |
駐車場 | 銀閣寺前パーキング – Google マップ 他コインパーキング多数あり |
住 所 | 京都府 京都市 左京区 浄土寺石橋町62 他 |
トイレ | 銀閣寺の手前に観光者用トイレあり |
訪問日 | 2022年9月25日(日)晴れ |
昼食「イカヅチうどん」
銀閣寺通りにある「イカヅチうどん」のかしわ天おろしぶっかけうどん。後で知ったがこの店は、ビブグルマンとしてミシュランに掲載されている店だそうだ。うっかり初ミシュラン。
4-①銀閣寺
勝軍山城からは10分強。銀閣寺の周辺にはコインパーキングは多数あるが、京都の中でも人気の観光地だからか、車は飽和状態だった。
銀閣寺。正式名称は「東山慈照寺」という。
a) 総門
総門。
b) 観音殿銀閣
国宝「観音殿銀閣」。銀閣寺は、室町幕府第8代征夷大将軍・足利義政が建てた。当時は東山山荘と呼ばれ、義政隠居後の居館だった。義政については韮山城のセクション(相模×伊豆🔎 )でも書いている。
c) 銀沙灘と向月台
手前の平らな砂地は銀沙灘。その奥の円錐の砂は向月台。
d) 当時の色の再現模型
当時の銀閣寺の色を再現した原寸大模型。月夜に見ると銀色に見えることから”銀閣寺“の名がある。
e) 東求堂
国宝「東求堂」。
f) 義政公の井戸
足利義政の井戸。石組みなどは当時のままで、今でもお茶会の水に使用されているという。
4-②中尾城址
中尾城へ行くには、銀閣寺前の道を北へ進む。
道なりに右へ90度曲がる。
三叉路に「大文字入口」の看板がある。大文字には行かないが、その手前に登城口があるので右へ進む。
4-③登城口
林道の割に人通りが多い。皆、大文字に行く人と行った人だろう。左手に、中尾城の登城口がある。
登城口。
見た目に反して、割と歩きやすい。
平削された山の尾根を進む。
4-④堀切
堀切。
4-⑤本丸
本丸。
「中尾城」の看板あり。
縄張り図を見る限り、曲輪以外に遺構らしい遺構はない。3ヶ月の突貫工事で作った城なので、仕方のないところだろう。
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