【駿河:静岡の城】“東海一の弓取り”今川義元の館跡に建てられた駿府城を始め、静岡の城々を巡る

発掘された駿府城の石垣 東海
発掘された駿府城の石垣
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1.久能山東照宮

形 態山城址難易度★★---
比 高150m整備度(東照宮)
蟲獣類見応度(東照宮)
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  150m
所要時間1分  /  20分
指 定国宝、国の重要文化財
遺 構曲輪、土塁
歴 史 城郭寺院・久能寺を前身とする。永禄11年(1568年)、今川氏真の治める駿河の国へ侵攻した武田信玄は、久能寺をよそへ移し、ここを駿河統治のための支城・久能山城として改修した。江戸幕府を開いた徳川家康は隠居後に駿府城を居城とし、死後はこの久能山城を自分の墓とするよう遺言を残した。
駐車場[表参道]東照宮有料駐車場(久能屋) – Google マップ
[日本平]日本平ロープウェイ駐車場 – Google マップ
住 所[表参道]静岡県 静岡市 駿河区根古屋33
[日本平]静岡県 静岡市 清水区草薙597-8
トイレあり
訪問日2023年9月17日(日)晴れ

1-①駐車場~一ノ鳥居

表参道にある有料駐車場に車を停め、久能山東照宮を目指す。

一ノ鳥居。ここから登って行く。

久能山東照宮は、全国に6社ある東照宮の親玉的存在だ。“東照宮”とは、東照大権現(徳川家康を神格化した名称)をまつる神社のこと。最も有名な東照宮は、栃木県にある日光東照宮だろう。

久能山は約1400年の歴史を誇る。奈良時代に久能氏により建てられた寺院・久能寺を前身とし、戦国期には僧兵を擁する城郭寺院となり、武田信玄の駿河侵攻後には完全に城郭として整備された。その後、徳川家康を神格化してたてまつる神社・東照宮へと変貌を遂げた。

1-②表参道

今は東照宮(神社)なので表参道だが、城郭だった戦国期では、ここは大手道だ。

長坂と呼ばれるつづら折りの石段が続く。

石段から駿河湾を一望。

1-③一ノ門~

一ノ門。残念ながら工事中。(T_T)

これが見たかった。久能寺・久能山城のころは、ここが大手門。

一ノ門を内側から見る。

一ノ門をくぐるとすぐに動線は右へ曲げられ、かつ高さもある。技巧的な虎口だ。

石段は全部で1,159段あるという。

石段途中の右手にある「勘介かんすけ井戸いど」。武田信玄の足軽大将で軍師を務めたことで知られる山本勘助により、ここに深さ33メートルの井戸が掘られたという。

武田信玄の駿河侵攻は永禄11年(1568年)から元亀2年(1571年)のことで、城郭寺院・久能寺が武田軍の手に落ちて久能山城となったのは永禄12年(1569年)とされている。しかし山本勘助は永禄4年(1561年)の第4次川中島合戦で討ち死にしているので、駿河侵攻には参加出来ていない。この井戸の「勘介」は別人か、あるいは山本勘助を偲んで信玄が命名したのかも知れない。

丁寧な説明板。久能山の歴史が良く分かる。

博物館。桶狭間の戦いで徳川家康が着用していたという黄金の甲冑「金陀美具足きんだみぐそく」や、関ヶ原の戦いで島左近が着用していた「兜」などの、“本物”が展示されてあった。

博物館や社務所のあるこのあたりは、“久能山城”時代は二の丸だった。

1-④社殿~神廟

社務所で拝観料を払い、社殿へ向かう。

石段の上にある楼門。久能山城時代はここからが本丸

徳川家康の手形。天下取りの手相と呼ばれるマスカケ線がくっきり見える。

鼓楼

この上が社殿だが、順路は右へ迂回する。

ショーケースに展示されたプラモデルたち。静岡にはバンダイを始め著名な模型メーカが何社もある。私も子供の頃にはガンプラをよく造ったものだ。シャア専用ズゴックが一番好きだった。

社殿

社殿の奥にある神廟しんびょう。徳川家康の墓。

久能山東照宮から直線距離で北東(鬼門)へ45kmほどのところに富士山がある。そしてその延長線と、江戸城から真北へ引いた線の交点に、日光東照宮はあるという。今のような測量技術のない時代にどうやって調べたのだろうか?

2.静岡浅間神社

社 格式内社、駿河国総社、別表神社
境 内国の重要文化財:本殿、拝殿等(23棟)
歴 史静岡浅間神社は、古代より神聖な山とされる賤機山の麓にあり、静岡の人々の精神的支柱となってきた。今川氏の人質となっていた徳川家康は、同じく賤機山の麓にある臨済寺で幼少期を過ごし、この浅間神社で元服した。
駐車場参拝者専用駐車場 – Google マップ
住 所静岡県 静岡市葵区 宮ヶ崎町102-1
訪問日2023年9月17日(日)晴れ

2-①浅間神社

久能山東照宮から約40分で、静岡浅間せんげん神社近くのコインパーキングに到着。鳥居が道路の上に立っている。

静岡浅間せんげん神社は、富士山信仰の神社として知られる浅間神社のひとつで、賤機山しずはたやまの麓にある。石柱に書かれているように、同じ敷地内に神部かんべ神社と浅間あさま神社があり、その左のほうには大歳御祖おおとしみおや神社もある。神部かんべ神社と浅間あさま神社は同じ社殿を共有しているが、神事は独立して行われているという。3つの神社は総じて静岡浅間せんげん神社と呼ばれている。

神部かんべ神社と浅間あさま神社の拝殿(左)と舞殿(右)。その奥に見える山は賤機山しずはたやま。賤機山は別名「賤ヶ岡しずがおか」と呼ばれ、「静岡県」の語源となった。この山には今川氏の詰城・賤機山しずはたやま城があり、この機に登りたかったのだが、表ルート(浅間神社側)は片道60分かかるし、裏ルート(大岩側)は片道20分だが細い山道に生えた草木がまだまだ元気で掻き分けないと登れない有様だったため、登城は諦めた。

今川氏の人質として幼少期から青年期を駿河で過ごした徳川家康は、今川義元の傅役もりやく太原たいげん崇孚すうふ雪斎せっさい)から教育を受け、この浅間神社で元服した。

2-②大河ドラマ館

静岡浅間神社の敷地内にある「どうする家康 静岡大河ドラマ館」。

今川義元と氏真。今回の大河は、ファンタジー大河とかメルヘン大河とか揶揄する声も見られるが、今川親子がきちんと描かれていた一点をもって“名作”と呼びたい。

劇中で今川義元が着ていた衣装。この距離感が大河ドラマ館の醍醐味だろう。

大河ドラマ館の目と鼻の先に、次の目的地・駿府城がある。

<to be continued👣>

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