【備後:福山の城】外様国衆から異例の立身出世を遂げた杉原盛重ゆかりの神辺城など、福山の城々を巡る

素戔嗚神社へ移築された相方城門 西国
素戔嗚神社へ移築された相方城門
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1.相方城

形 態山城址難易度★----
比 高170m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ50m  /  10m
所要時間10分  /  3分
指 定広島県指定史跡
遺 構曲輪、石垣、土塁、土橋、堀切、切岸
歴 史 備後の国衆で備後吉備津神社の社家も務めていた宮氏の城。天文21年(1552年)に毛利氏に滅ぼされた後、毛利方に降っていた宮氏の庶流・有地あるじ元盛が入城した。相方城の城門2基は麓の素戔嗚すさのお神社へ移築されており、現存する戦国期のものとしては最古級と言われている。
駐車場相方城:猫地蔵 – Google マップ
移築門:素盞鳴神社 – Google マップ
住 所相方城:広島県 福山市 新市町1089-52
移築門:広島県 福山市 新市町戸手2-15
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2023年8月13日(日)快晴

1-①駐車スペース~

相方さがた城は主郭部まで車で登れるが、道幅が狭いためミニバンでは厳しく、猫地蔵前のスペースに停めさせていただく。

今は早朝6時なのだが、地元の住人と思われる登城者がすでに2人目↑。8時を回ると30℃を越えるので、早朝ウォーキングだろう。

アスファルトの舗装道は、上まで続いている。

猫地蔵から10分ほど歩くと、石垣が見えてきた。

1-②西曲輪群

a) 第十曲輪

道の突き当たりに、案内板と「佐賀田さがた城趾」の石碑がある。

縄張り図によると、ここは西曲輪群(左側)にある第十曲輪となる。

第十曲輪には部分的な石垣があり、

土塁(土橋?)を介して上の第九曲輪に連絡している。

石垣に、門の支柱があったと思われる角穴が空いていた。とすればこの石垣は、門を据えるために組まれたものなのだろう。

b) 第九曲輪

西曲輪群の主郭・第九曲輪。

その奥の一角に、一段高くなった曲輪(第八曲輪)がある。櫓が建っていたのだろう。

曲輪の側面は、急峻な切岸になっている。この山自体は割となだらかな斜面なので、大規模な土木工事により造られた切岸だと思う。

横から見ると、切岸の角度がよく分かる。

第十曲輪へ戻り、続いて東曲輪群へ。

1-③東曲輪群

a) 堀切と土橋

西曲輪群と東曲輪群の間にある堀切土橋

奈落の底へ通じているかのようなエグい堀切。この辺は、戦国末期に毛利氏(吉川きっかわ元春)によって改修されたものだろう。

b) 第三曲輪

土橋の正面に第三曲輪の石垣がある。東曲輪群へ侵入しようとする敵兵を、石垣上の櫓から弓矢・鉄砲で食い止める。

帯曲輪が主郭部の周りに設けられている。

手前に第三曲輪への石段があるので上がった。

第三曲輪。すぐ横の石段を上がると二の丸だ。

c) 二の丸

二の丸

二の丸から見る府中の町。

二の丸にある土壙どこう。貯蔵庫として使用していたようだ。

石碑。この城は「相方さがた城」と「佐賀田さがた城」の2通りの漢字が当てられている。相方城と書くことが一般的なようだが、どちらが本来の漢字なのかは分からない。

d) 本丸

本丸は二の丸より一段高い。本丸の東端にはテレビ塔が建っている。

本丸北側の切岸。ここも奈落の底だ。

本丸の東側はカスケード状に続く腰曲輪群で、第五曲輪(コンクリート建造物のある曲輪)と第七曲輪(その下の曲輪)が見える。

本丸から見る町並み。この辺りは新市しんいち町。

e) 第五曲輪と第七曲輪

本丸の南側に、当時からのものか後世のものかは分からないが通路がある。

第五曲輪

第五曲輪から下へ降りる通路は石垣と石垣に挟まれているので、これは当時からの虎口だろう。

第五曲輪の虎口の下は帯曲輪になっており、西へ向かうと最初の土橋・堀切とつながっている。

帯曲輪を東へ向かうとすぐ第七曲輪に出る。

本丸から手を振るナオ。

1-④移築門(素戔嗚神社)

相方城から車で10分強のところに、備後一宮・素戔嗚すさのお神社がある。ここから2~3km東にある吉備津神社も備後一宮なので、備後の国には一宮が2社あることになる。詳しい経緯は知らないが、多分こうだっただろう。

もともと備後・備中・備前は「吉備きび」という1つの国で、一宮は備中東部(現在の岡山市)にある吉備津神社だった。それが3つの国に分かれた際、備中はそのまま吉備津神社が備中一宮となり、備前は吉備津神社近くの吉備津彦神社が備前一宮を名乗った。しかし備後には吉備津神社が無かったので、素戔嗚神社が一宮として名乗りを挙げた。しかしその後、吉備津神社が備後に分社を建てた際、吉備一宮としての矜持で備後一宮を名乗った。素戔嗚神社も一宮の看板を下ろさなかったので、備後は一宮が2社になった。と、いったところだろう。

素戔嗚神社には、相方城から移築された城門が2棟現存しているので、それを見に来た。もう1つ櫓もあったが、残念ながらそれは1970年代に焼失したという。

a) 相方城門(西)

相方城門(西)。門は一枚板だが、上部に櫓が組まれた櫓門になっている。

内側から櫓部分を見る。

b) 相方城門(東)

相方城門(東)。左右に狛犬を配した立派な門になっている。

東の門を内側から見る。力強い冠木かぶきが横一文字に据えられた薬医門だ。

文章の前半では「16世紀末~17世紀初の建築」と推定されているが、廃城時期が関ヶ原敗戦直後と明確なので、16世紀末の建築で間違いないだろう。1600年以前に建築された城門で現存するものは、ここの2棟以外は島根県益田市のものだけとのこと。あとで調べたところ、同市の医光寺に移築されている石見いわみ七尾城の大手門のことらしい。

2.吉備津神社(備後)

社 格備後国一宮、別表神社
境 内国の重要文化財:本殿
福山市指定文化財:拝殿、大鳥居、下随神門
広島県指定文化財:神楽殿
歴 史創建は806年と伝えられるが、実際は1148年以降と言われている。戦国期には毛利輝元が寄進し、慶安元年(1648年)には水野勝成により本殿が造営された。
駐車場吉備津神社駐車場 – Google マップ
住 所広島県 福山市 新市町 宮内 一ノ宮
訪問日2023年8月13日(日)快晴

せっかくなので、もうひとつの備後一宮・吉備津神社にも来てみた。

下随神門したずいしんもん

樹齢600年の御神木・大公孫樹おおいちょう。時期が来れば黄色く色付き、さぞ見応えのあることだろう。

上随神門うえずいしんもん

本殿。慶安元年(1648年)、福山藩初代藩主・水野勝成(84歳)により造営された。修理を重ねながら、今もその姿を伝えている。

備後の吉備津神社は“神社のデパート”のようなところで、21もの神社の分社が軒を連ねている。中でも「十麻里二柱とまりふたはしら神社」は交通安全の神様なので、私のように自家用車をメインの移動手段とする人には重要な神社だ。

3.山手銀山城

形 態山城址難易度★----
比 高230m整備度☆☆---
蟲獣類見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  50m
所要時間-  /  8分
指 定
遺 構曲輪、土塁、畝状竪堀、竪土塁
歴 史 備後の国衆・杉原豊後守、杉原盛重の城。毛利氏に臣従し、神辺合戦後、神辺も領土とした。永禄6年(1563年)杉原盛重は、伯耆・尾高城も任され、対尼子氏の西伯耆戦線の指揮官として活躍した。
駐車場山手銀山城東側の路肩-Google マップ
住 所広島県 福山市 山手町
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2023年8月13日(日)快晴

3-①駐車スペース+登城口

県道463号線を北へ走り、山陽自動車道の高架下を通って「弘法の池」を目指して進むと、この四叉路に出る。

四叉路の右の道に入ってすぐ、駐車可能なスペースがある。車はここに停めるのが無難なのだが、ここからだと山手銀山城の登城口まで歩いて20分かかる。

なので登城口まで車で来た。吉備津神社からここまで約50分。

この先の三叉路でUターンし、登城口の路肩スペース(車2台分あり)に反対向きに停める。舗装道はほぼ車1台分の道幅なので、ここ以外で対向車に出くわすと、最悪どちらかが数百mほどバック走行しないといけなくなるので覚悟が必要だ。

山手銀山城の縄張り図。城郭放浪記様の許可を得て転載させていただいた。

ここが登城口になる。

城址を示す看板は何も無く、この注意書きが唯一の目印となる。「城跡(文化財)」と書かれているが、この山手銀山城はどこの指定史跡にもなっていない。

3-②畝状竪堀群

看板もリボンもないが、縄張り図を頼りに登って行く。

明瞭に残っている竪堀

こっちも竪堀

土橋堀切

3-③主郭部

a) 本丸

登城口から8分程度で主郭部に到着。

本丸

山手銀山城の城主は杉原盛重もりしげという。天文2年(1533年)の生まれなので、毛利元就の三男・小早川隆景と同い年。備後の国衆で毛利氏の重臣として活躍した人物なのだが、家系図などの文書は全く残っておらず、杉原家についてはほとんど何も分かっていない。確かな史実は3つのみとされる。

1つ目は天文16年(1547年)の神辺かんなべ合戦で、山名理興ただおきが籠もる村尾城(神辺城)を攻め落とした毛利元就(50歳)は、山手銀山城の杉原豊後守ぶんごのかみを新たな城主として据え、銀山城と村尾城の2城を兼務させた。この時盛重もりしげは14歳。杉原豊後守は盛重の父か、それに相当する人物と考えられる。

2つ目は永禄6年(1563年)に伯耆ほうき尾高城の城主・行松ゆきまつ正盛まさもり入道が病死したのち、杉原家の当主となっていた杉原盛重(30歳)がその尾高城を任された。転封ではなく備後南部の所領はそのままで、加増で伯耆西部を与えられたのだった。さらにこれを期に、盛重は毛利家評定衆に加えられた。毛利家評定衆とは、いわば毛利株式会社の経営施策を決める取締役のようなもの。メンバーは毛利一門衆と、毛利家譜代の家臣のみで構成されている。例外として安芸国衆の天野あまの隆重たかしげがいるが、隆重は毛利家譜代の宿老・福原広俊ひろとしの外孫であり、天野家は古くから毛利家と親交のある国衆なのでほぼ譜代家臣といっていい。つまり杉原盛重は外様国衆でありながら、ただひとり前代未聞の昇進を果たした。

この昇進を納得させる通説として、尾高城にいた行松入道の妻が、盛重の妻となったという話がある。その女性は毛利興元(元就の兄)の娘だったため、盛重は興元娘と結婚することで毛利一門となり、評定衆に抜擢されたとするものだ。しかしこの時、興元娘は47歳~53歳と高齢であり、その後盛重が2人の男子を授かることを考えると、その説は受け入れ難い。

3つ目の史実。少し遡って天文23年(1554年)、宍戸隆家としん・・五龍局ごりゅうのつぼね)の娘・永寿えいじゅが伊予の大名・河野こうの通宣みちのぶへ嫁ぐ際、杉原直良なおよしの妻が侍女としてそれに同行している。直良は盛重の兄と考えられる人物で、この時すでに亡くなっており、杉原家は次男の盛重(21歳)が継いでいた。1人身の直良なおよしつまは、吉川元春の家老・熊谷くまがい信直のぶなおの姪でもあったため、元春経由で話を持ちかけられ、永寿の侍女になったのだろう。

その年、永寿はおそらくまだ8歳くらいだったと思われる。隆家としんは、毛利家のため断腸の思いで永寿を伊予へ送り出したことだろう。翌年の天文24年(1555年)、毛利元就は河野氏との同盟によりその配下の村上氏(村上水軍)を動員し、厳島合戦ですえ晴賢はるかたを討ち果たした。

厳島合戦での毛利軍の勝利は河野氏との同盟のお陰であり、引いては8歳という幼少の身で遠く四国への輿入れを受け入れた永寿のお陰である。そして永寿の侍女(母親代行)を務めた直良妻の功績も、化粧領(女性に与えられる1代限りの領地)を与えられたことから甚大な評価をされたことが分かる。

直良妻には子がいたという説もある。子がいたなら伊予へ連れて行くわけにはいかず、義弟の盛重に預けていたことだろう。直良妻の後ろ立てにより杉原盛重の異例の昇進が実現したと考えるなら、腑に落ちる顛末である。

この方向に福山城があるのだが、真夏の木々に遮られて何も見えない。

本丸東側の虎口

本丸東側の切岸

竪土塁

石が散乱している。建造物の礎石か?石積か?

b) 二の丸

二の丸は本丸より1段低くなっており、その境界線に石が散乱している。恐らく石垣を組んでその上に柵を設け、二の丸と本丸を区分していたのだろう。石の数が圧倒的に足りないのは、元和6年(1620年)に福山城を築城する際、ここの石を持っていったからだろうか?

ここは二の丸だが、左の一段高い曲輪は本丸の続き。

c) 三の丸

二の丸と三の丸の境界線にも石がある。

三の丸

三の丸東側の虎口。ここがこの城の入口、大手道だろう。山の地形的に西側は傾斜が急なためほとんどが切岸で、虎口・堀・土塁といった城の防衛設備は、東側に集中していることが分かる。

<to be continued👣>

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