【阿波:徳島の城】戦国最初の天下人・三好長慶のルーツ勝瑞城を始め、三好氏ゆかりの城々を巡る

徳島城の「鷲の門」 四国
徳島城の「鷲の門」
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1.引田城

形 態山城址難易度★----
比 高80m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  80m
所要時間-  /  10~15分
指 定国指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、石垣、空堀
歴 史 讃岐の国衆・寒川さんがわ氏の城であったが、元亀元年(1570年)三好勢が攻め落とした。豊臣政権時は生駒親正の領地となり、天正18年(1587年)に廃城となった。
駐車場引田城跡 駐車場 – Google マップ
住 所香川県 東かがわ市 引田2933-1
トイレ駐車場にあり
訪問日2022年6月26日(日)晴れ

1-①駐車場&登城口

続日本100名城に指定されたからか、引田ひけた城は広い駐車場が整備されている。

城側(写真左側)のエリアにも駐車スペースがあり、簡易トイレが設置されている。高速道路の降り口からここまでコンビニは無いので、高速のパーキングエリアの次のトイレはここになる。

簡易トイレの前の衝立にお城の情報が貼られている。

登城口

登城ルートは2つある。北のキャンプ場から北曲輪へ上るルートと、南の引田ひけた港から本丸へ上るルート。しかし戦国期の大手道はこのどちらでもなく、馬屋池の東側から北曲輪の南側を通って北二の丸付近の大手門に通じるルートだった。この道は地図には無く、今は通行できないようだ。山城址の登城ルートが当時使用されていたものではないパターンをよく見かけるが、恐らく破城はじょう(城を廃却する事)した際に大手道も崩落させ、城の再使用を防止したためではないかと思う。

1-②登城道

海に面した城で水が豊富なためか、苔・シダ類の植物が多い。

ここ引田ひけた城は、讃岐の国(香川県)と阿波の国(徳島県)の境目の讃岐側にある。戦国期は讃岐の国衆・寒川さんがわ氏の城で、同じ讃岐の十河そごう氏などの三好勢と争った。寒川氏の家紋は、松のイラスト7つの上に漢数字の「三」が書かれたものである。「三」は「寒川」を「さんがわ」と読むことに掛けたのだろう。松は引田城に松があるからだろうか?

a) 狼煙台跡

狼煙台跡

狼煙台跡から見た引田港

1-③本丸

a) 石垣

本丸の石垣。引田城で最も古い石垣とのこと。

寒川氏の時代は天然の石と土造りの城であったと考えられるので、引田城の石垣はその後城主となった三好氏か、豊臣政権時に入城した仙石秀久せんごくひでひさ生駒親正いこまちかまさが築いたものだろう。

この上が本丸。所要時間は、登城口から10分程度。

本丸は、石を円形に並べてコンクリートで固められていた。昭和の時代には、ここに展望台が建っていたそうだ。引田の町並みがここから良く見える。引田の町からもここにあった展望台は良く見えたことだろう。

b) 天守台跡

よく分からないが、ここから南東にある天守台跡と言われている曲輪も本丸になっている。

本丸(天守台跡)へ続く道。

途中で「南のくるわ」と書かれた看板を発見。ただし引田城は、大正末期から昭和初期にかけて公園として整備されているので、曲輪の形は当時とは違う可能性もある。

何かまつられている。

本丸天守台跡。石垣本丸からここまで3分程度。引田港がよく見える。

1-④化粧池

本丸のある南曲輪群と東の丸と呼ばれる東曲輪群のあいだの谷間に化粧池がある。

化粧池。見た感じ水はけの悪い地面の様にも見えるが池である。井戸のない引田城で飲み水を確保するために作られた人工の池だ。ここで女性たちが化粧をしていたことから化粧池と命名された。

1-⑤東の丸

化粧池から東曲輪群へ上った先にある引田灯台

灯台の中には入れないので、灯台の建っている曲輪から海を見る。

引田灯台から北へ上ると東の丸がある。引田城の中で最も高い標高(86m)の場所だ。

北曲輪群に向かって続く東の丸の曲輪は3段構造になっており、北へ行くほど低くなっている。(写真を撮り忘れた (T_T) )

1-⑥北二の丸

北二の丸は、残念ながら崩落の危険がある石垣がシートで覆われていた。

上段の石垣はシートで見えなかったが、下段の石垣は見学出来るようだ。

下段の石垣は、見事な曲線を描いた石垣だった。高さは5~6m。

反対側のアングルで。

北二の丸と南二の丸の間にある大手門跡。周囲に点在する巨石が、ここが城の要の虎口であった歴史を物語っている。二つの曲輪の間に大手門を設置する縄張りは、摂津の山城・芥川山城と似ている。山の形から自然とそうなったわけではなく、意図してそういう縄張りにしたように思えるので、三好長慶の築城理念を継承した三好一門衆の誰かの手によるものだろうか? 元亀元年(1570年)に三好長治の家臣・矢野国村が引田城の城主になっていることから考えて、それは阿波三好氏の三好長治であった可能性が高いと思う。

2.勝瑞城

形 態平城址+館跡難易度-----
比 高整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆--
指 定国指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、土塁、水堀
歴 史 勝瑞は、讃岐・阿波・淡路3ヶ国における政治経済の中心地として「天下の勝瑞」と称され、約240年栄えた。阿波守護・細川氏が9代、その後台頭した三好氏が3代、勝瑞城を居城とした。
駐車場勝瑞城 – Google マップ
勝瑞城:県道14号線沿いに駐車スペースあり
勝瑞館:敷地内に広い駐車場あり
住 所徳島県 板野郡 藍住町 勝瑞 東勝地29-2
トイレ勝瑞館に併設されている展示室内にあり
訪問日2022年6月26日(日)晴れ

2-①勝瑞城

a) 駐車場

引田城を下山後服を着替え、引田駅のカフェで引田城の御城印を購入し、藍住町のGS武田石油は臨時休業だったが隣のシューズショップタケダで勝瑞しょうずい城の御城印を売って貰い(店の人がわざわざ出て来て御城印ですかと聞いてくれた)、ここまでトータル1時間かかった。真っ直ぐ来れば引田城から勝瑞城まで40分くらいだろう。

勝瑞しょうずい城の入り口に石碑が建っている。右に2本、左に1本。右から「史蹟 勝瑞城趾」「西国守護 三好長治公一族菩提所(?)」「臨済宗妙心寺派 龍音山 見性寺」と読める。

明確な駐車場の表示が無かったので勝瑞事務所に電話して聞いたところ、芝生の上以外ならどこに停めても良いですと快く返事を貰った。そこで車は、石碑の間を通ってすぐ左のスペースに停めさせていただいた。

b) 水掘(南側)

勝瑞城南側の水堀

c) 曲輪

勝瑞城の曲輪。戦国中期の城としては珍しい平城だ。この芝生の上は駐車禁止。

三好家の菩提寺・見性寺けんしょうじ

d) 土塁

北側の土塁の上に笹が生えている。矢竹という笹で、矢を作るのに適しているとの事。

西側も土塁が残っている。

e) 水堀(北側)

北側の水堀。

2-②勝瑞館

勝瑞城の見学を終え、続いて交差点のはす向かいにある勝瑞館しょうずいかんに車で移動した。

この広大な敷地に館が建ち並んでいた。在りし日の勝瑞を想像復元CGなどで見れないものだろうか。

復元された建物。

枯山水庭園

2-③勝瑞城館跡展示室

勝瑞館跡の南側にある史跡勝瑞城館跡展示室へ向かう。

展示室内で三好長慶ながよしをNHK大河ドラマに推す署名活動を行っていた。そこで、私とナオと子供の分も署名しておいた。

三好長慶を主人公とした場合の懸念点は、登場人物が皆有名とは言いがたい人物になる事と、長慶が死ぬ前後で三好家は分裂し衰退していくのでクライマックスがどこになるのかといった所か。しかし興味深く面白いエピソードが多いのも事実で、是非大河ドラマ化を実現して欲しい。例えば三好氏の興亡を主軸として主人公を一人と決めず、朝ドラ・カムカム方式で、三好長慶→三好義継よしつぐ十河そごう存保まさやすと物語を繋いでいけば、最後は羽柴秀吉と一緒に勝利で終われるか。

享禄4年(1531年)室町幕府・足利将軍の右腕的な存在である“管領”で細川宗家の細川高国(47歳)は、阿波守護の細川晴元(17歳)に倒される。しかし翌年の享禄5年(1532年)晴元は、重臣たち(木沢長政ら)の讒言により、そのいくさの功労者であった重臣・三好元長(31歳)を謀殺してしまう。元長の4人の男子はそれぞれ10歳、5歳、4歳、0歳であったが、三好家宿老・篠原長政の教育を受け、4兄弟は若武者へと成長していく。

細川宗家を継いだ細川晴元は、阿波守護と勝瑞城を弟の氏之うじゆきに譲り、足利将軍を補佐すべく摂津の芥川山城を居城とする。12歳で家督を継いだ三好長慶は、父のかたきである細川晴元に臣従していた。この頃、細川氏に逆らっては畿内近国では生きてゆけなかった。とは言え、長慶13歳の時に摂津の守護代に任命され、越水城主(現兵庫県西宮市)となる。長慶は、次弟・之虎ゆきとら実休じっきゅう)を阿波勝瑞城の細川氏之に仕えさせた。三弟・冬康は淡路海賊の頭領・安宅あたぎ氏へ、四弟・一存かずまさは讃岐高松の十河そごう氏へ、それぞれ養嗣子として送り込んだ。家臣達の力添えはあったにせよ、傀儡かいらい当主であれば信用されないので、安宅氏や十河氏に対して長慶自身が力を示したのだろう。

展示室の窓から見た勝瑞館跡。見えてる平地は全て勝瑞館の敷地だった。

勝瑞館に、小少将こしょうしょうという呼称で呼ばれている女性がいた。この時代によくある呼び名らしく、小少将という人物は日本各地に4人ほどいる。本名は不明。阿波の国衆・岡本牧西ぼくさいの娘なので、小牧殿こまきどのとしておく。

小牧殿は阿波守護・細川氏之うじゆきの側室として勝瑞館に入る。天文7年(1538年)に正室に先んじて嫡男(後の真之さねゆき)を出産する。阿波細川家の次期当主の母の座が確約されたのだが、天文19年(1550年)頃から家臣の三好之虎ゆきとらと関係を持つようになる。三好之虎にはすでに妻がいたので略奪愛だ。天文19年に何があったかというと、畿内で三好長慶が細川晴元に反旗を翻し、晴元を畿内から追放し、細川政権は崩壊して三好政権が樹立した。三好長慶28歳、父の無念を晴らす。

小牧殿の分かり易い変心から3年後の天文22年(1553年)、細川氏之は三好之虎に討たれる。畿内が三好政権になった後も、畿内は畿内、阿波は阿波と割り切っていたのか、氏之と之虎の関係は良好だったという。しかし突然その関係が破綻し、氏之が之虎を殺そうとして、逆に殺されたという。

氏之が死ぬと、小牧殿は三好之虎改め実休じっきゅうの正室の座に付いた。そして2人の男子(後の長治ながはる存保まさやす)が生まれる。真之を生んだのが15歳だとしたら、実休との子は30歳31歳で産んだことになる。しかし永禄5年(1562年)にその実休が岸和田で戦死すると、小牧殿は「細川から三好に乗り換えた成功体験をもう一度」と考えたのだろうか、今度は三好家筆頭家臣の篠原長房ながふさ(長政の嫡男)の正室になろうとする。忠義の塊のような長房にはきっぱり断られたものの、長房の弟・篠原実長さねながの正室となることに成功した。

小牧殿が巻き起こす(?)事件はまだまだ続く。篠原実長の正室になって11年後の元亀4年(1573年)、阿波三好家当主・三好長治(20歳)が、家臣筆頭の篠原長房を攻め、自刃に追い込んだ。長治方には、細川真之と篠原実長もいた。いづれも小牧殿の身内(子と夫)だ。この事件を機に長治への求心力は衰え、家臣や国衆たちの反発が強くなる。篠原長房といえば、三好実休亡き後嫡男の長治(当時9歳)を支え、卓越した政治力・軍統率ぐんとうそつ力で阿波三好家中をまとめた人物だ。昔、父・篠原長政が10歳の三好長慶を支えたように長房もまた幼い当主を支えたのに、その長治から刃を向けられることになるとは想定外だったことだろう。

阿波の国だけの話なので、全国区の北条政子や日野富子のように有名ではないが、歴史を動かしたという点では小牧殿も彼女らと比肩し得る人物だと思う。小牧殿の伝説には続きがある。天正7年(1579年)に土佐の長宗我部ちょうそかべ元親もとちかが阿波に侵攻し制圧すると、今度は長宗我部元親の側室に納まり、天正11年(1583年)に男子(後の右近大夫)を産んだという。だとするとこの時推定60歳。これはさすがに無理があるので、こちらの小少将は別の人物なのだろう。

<to be continued👣>

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