【紀東の城ー熊野路part1ー】築城名人藤堂高虎の初期の名城・赤木城を始め、紀伊東部の城々を巡る

赤木城本丸の上段虎口 東海
赤木城本丸の上段虎口
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1.熊野本宮大社

社 格伊予国一宮、式内社、別表神社
境 内国の重要文化財:本宮
歴 史日本を統一した神武天皇を大和国・橿原まで先導したという八咫烏やたがらすを信仰している。「熊野三山」の一部として国指定史跡になっている。
駐車場瑞鳳殿 駐車場 – Google マップ
住 所和歌山県 田辺市 本宮町本宮1100
訪問日2022年7月2日(土) 晴れ

熊野本宮大社。熊野三山を代表する神社。和歌山県南部に、熊野三山と呼ばれる大社たいしゃ(大きな神社)がある。熊野本宮ほんぐう大社、熊野速玉はやたま大社、熊野那智なち大社の3つ。全国に大社は24社あるが、そのうち3つがここに集まっていることになる。

源平合戦の頃、平氏と源氏を手玉に取った大天狗と呼ばれる後白河上皇は熊野大社信者で、生涯で34回もこの地を参拝したという。

戦国時代は熊野海賊のテリトリーだった。熊野には平地が少なく、山と穏やかな河川で出来ているので、豊富な山の資源は水路を使って運搬していた。そのため舟の扱いに長けた海賊衆が生まれた。この時代の“海賊”は海の盗賊という意味ではなく、海や川で仕事をする庶民のことを指す。ちなみに山賊は、この時代も山の盗賊の意味。

羽柴秀吉による紀州侵攻後、秀吉は熊野川の支流・北山川の山の上に赤木城を築かせ、木材の確保を図った。

八咫烏やたがらす。この角度だと分かりにくいが、足が3本ある。

八咫烏やたがらすは神の使者とされている。3本足は熊野三党と呼ばれた宇井氏、鈴木氏、榎本氏を指すようだ。平氏と源氏にしろ北条と比企ひきにしろ、2つの強大な勢力はお互いに潰し合ってしまうが、3つの勢力だと3者が牽制し合ってバランスが取れるものなのだろう。

熊野本宮大社を含む熊野古道は、世界遺産になっている。

この奥に本殿がある。パワースポットだからといって何か特別なものを感じることはほとんどないのだが、戦国時代が好きな私は、当時の人たちもこうやって参拝していたのだろうなと思いを馳せながら、参道を歩いた。

2.新宮城

形 態平山城址難易度-----
比 高40m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  40m
所要時間-  /  5分
指 定国指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、石垣、枡形虎口、天守台
歴 史 関ヶ原の戦い後、浅野氏が紀伊へ入った際に築いた城。もともと紀伊の国衆・堀内氏善の新宮城があったが、これを廃して熊野川の付近に新たに新宮城を築いた。その後浅野氏は安芸へ移封し、新たに入った水野重仲(徳川家康の従兄弟)が引き継ぎ、新宮城を完成させた。
駐車場新宮城跡 – Google マップ(入り口の坂を上った先に駐車場あり)
住 所和歌山県 新宮市 新宮7690
トイレ本丸下にあり
訪問日2022年7月2日(土) 晴れ

熊野本宮大社から約40分。新宮城のある丹鶴城公園の入り口はかなり急だが、左の坂の上に専用駐車場がある。

登城口は、ここの他に松ノ丸口がある。恐らくこの南側登城口は当時は無く、陸路は松ノ丸口のみで、水路として水ノ手口があったのだろう。後者2ヶ所は虎口があるが、ここには虎口が無い。後でパンフレットを見ると、松ノ丸の西に大手門があった。

2-①駐車場&登城口

丹鶴城公園(新宮城跡)専用駐車場。

登城口

2-②本丸

南側登城口の階段を上ると、本丸下の帯曲輪に出る。

a) 天守台

石垣が崩れかかっている。この上に天守があった。

矢穴の跡がある石垣。

帯曲輪を東へ回り込んで天守台の石垣を見学。夏の山城は「ラピュタの城」の様な退廃的な美しさを宿す。

横矢掛かりの石垣。石垣の下にいる敵を狙い撃つためのスペースだ。

b) 本丸虎口

本丸の西側に虎口がある。

本丸の枡形虎口

c) 本丸

本丸

本丸から見る熊野川。川沿いに見えるのが、水の手と呼ばれる港跡。運ばれてきた木材はここで備長炭にし、藩の財源としていた。新宮城をここに移したのはそのためか。

d) 本丸出丸

本丸から熊野川へ突き出す様に造られた出丸。出丸には櫓が建っており、熊野川を往来する者を監視出来た。パンフレットにも点線が書かれている様に、恐らく出丸と本丸の間には渡通路があったと思う。

本丸の多聞櫓跡

2-③鐘ノ丸

鐘ノ丸。(一般的には二の丸に相当。)

鐘の丸の虎口。

2-④松ノ丸

松ノ丸(一般的な三の丸)から見た熊野川。

松ノ丸の虎口。新宮城の正面玄関なので大きい。

2-⑤大手道

大手道。道幅が広いのは、やはり平和な時代の城だからか。

大手道から虎口を見上げる。

昼食「Megane」

“メガネ”という名前のパン屋さんで買い食いした。”木の実の棒”が美味しかった。

3.京城

形 態平山城址難易度★----
比 高70m整備度☆☆---
蟲獣類見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  70m
所要時間-  /  10分
指 定
遺 構曲輪、石垣、堀切
歴 史 熊野三党のひとり・榎本氏により築城されたと言われる。戦国後期は熊野の国衆・堀内氏善の城で、熊野海賊を統率し、新宮城を本城としていた。
駐車場Google マップ 県道35号線の「京城」案内板付近の急坂を上った先にある
住 所三重県 南牟婁郡 紀宝町大里1479の付近
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2022年7月2日(土) 晴れ

新宮城から約20分。Googleマップのストリートビューであらかじめ確認していたので、紀宝町立相野谷中学校を車のナビに入れ、その近所にある県道35号線沿いのこのポイントへ来た。坂の上に駐車スペースがあるという情報だが、坂が急でしかも鋭角なカーブがあるため上れる自信が無く、案内板の前の路肩に停めさせていただいた。人も車もほとんど通っていないとはいえ、住宅地付近の路肩なのでそのまま車を置いておくと近所の人の迷惑になるかも知れない。何かあったときは車を移動出来るようナオに車で待機してもらい、私一人で登城することに。

3-①駐車場

坂の上にある駐車スペース。

このスロープから京城みやこのじょうへ向かう。

3-②登城口

登城口

3-③三の丸

今回の城旅は岡崎へ行く予定だったのだが、前夜に岡崎城のホームページを見ると6月中旬から年末まで休館との事。翌年のNHK大河ドラマ「どうする家康」に備えてのリニューアル中だった。急遽行けそうな城旅プランを検討したのだが、京城みやこのじょうの縄張り図の準備は間に合わなかった。

後で見た縄張り図から、ここは三の丸だと分かった。

二の丸(左)と本丸(右)の東側の切岸

3-④帯曲輪

本丸下の帯曲輪

石積

帯曲輪の端にある竪石塁

岩を裂いて造った堀切(本丸の北側)。縄張りの随所に、築城主のこだわりを感じる。縄張り図を見ながら見学出来なかったのがとても残念だ。

3-⑤本丸

本丸の南側の虎口。背後に二の丸がある。

本丸

縄張り図が無かったのと気温35℃の熱気で頭が十分働かなかったのが原因だと思うが、本丸から戻る途中、帰り道が分からなくなってしまった。道無き道を上がって来て、目印となる看板やリボンも無かったので、頼るあてが何もない。おじさんでもこの状態を”迷子”と呼ぶのかなと思いつつ、私はこの難局を乗り切る手段はただ一つしかない事を分かっていた。

車で待機しているナオに電話し、迎えに来て貰った。

4.赤木城

形 態平山城址難易度-----
比 高30m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  30m
所要時間-  /  5分
指 定国指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、石垣、枡形虎口
歴 史 豊臣秀吉の紀州侵攻後、秀吉の弟・秀長は、熊野地方の木材確保のため藤堂高虎を山奉行に任じ、赤木城を築かせた。
駐車場赤木城跡 – Google マップ 登城口にあり(約30台)
住 所三重県 熊野市 紀和町赤木122
トイレ駐車場にあり
訪問日2022年7月2日(土) 晴れ

4-①駐車場~

京城みやこのじょうから赤木城まで30分ほどの距離だが、大掛かりな通行規制がされていて迂回したため、50分ほどかかった。

標高230mの山の上に赤木城はある。駐車場のある麓からの比高は30m。天正17年(1589年)この地を治めた豊臣秀長(秀吉の弟)は、のちの築城名人として知られる藤堂高虎に城を築かせ、厳しい統治からの一揆の発生を武力で抑え、熊野木材の確保を図った。この頃の高虎は、粉河1万石の新参大名だった。赤木城、伏見城と築城の実績を積み、その後秀長と秀保(秀長の養嗣子)の死により武士を辞めたが、秀吉の説得に応え宇和島7万石で武士に復職。今治20万石、伊勢伊賀22万石と転封のたび加増していった。

a) 鍛冶屋敷跡

左側の曲輪は鍛冶屋敷跡

b) 東曲輪

東曲輪の石垣

東曲輪の門跡

東曲輪

4-②本丸虎口

a) 下段虎口

本丸の下段虎口。当時は階段状の設備は無く、ハシゴを立て掛けて動線としていたという。有事にはハシゴを引き上げれば通行出来なくなる。

俯瞰で見た下段虎口。

b) 上段虎口

下段虎口の上にもうひとつ虎口がある。東曲輪の虎口もそうだが、虎口は全て動線に対して直角に設けられている。

本丸の上段虎口

4-③本丸

本丸

4-④西曲輪

西曲輪群

西郭群上段の石垣。

丸山千枚田

赤木城の近くにある丸山千枚田。戦国期にはすでに存在していた棚田群。昔は2200~2400枚あったが、今は5分の1ほどに減少している。

5.紀伊 鬼ヶ城

指 定※海岸景勝地は、国の名勝および世界遺産
遺 構曲輪、堀切
歴 史 紀伊の国衆・有馬忠親の城。永禄元年(1558年)新宮城の堀内氏虎(氏善の父)に滅ぼされた。
駐車場鬼ヶ城センター – Google マップ (約70台)
住 所三重県 熊野市 木本町1835-7
トイレあり
訪問日2022年7月2日(土) 晴れ

道の駅@花のいわや古代いざなみ米のみたらし団子を食べ、最終目的地の鬼ヶ城へ。赤木城からだと40分程度。

海岸景勝地「鬼ヶ城」は、熊野灘の荒波によって岩肌を削られた”海食洞”である。坂上さかのうえ田村麻呂たむらまろの鬼退治伝説が伝えられている。

釣り人発見。

このブログは「ナオケンの城旅ブログ」なので城址を見学するのが本来の趣旨だが、曲輪と堀切2~3本が残っている小さな城址「鬼ヶ城城跡」よりさきに、国の名勝および世界遺産の景勝地「鬼ヶ城」を見学したい。

夏季は山も海も活気があり、史跡や景勝地を巡るのはとても景色が良いのだが、いかんせん昨今の猛暑酷暑は暑すぎるので汗で全身ぼとぼとになり、無駄に体力を奪われる。1時間20分ほどかけて海岸景勝地を巡って鬼ヶ城センターに戻った後、せっかく来たから城址も見ようとナオが言ってくれたのだが、私にはその体力は残っておらず、すぐに帰路につくことにした。

<END>

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