2022年1月9日(日)晴れ[1/2]
1.芥川山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 130m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | スズメ蜂、猪 | 見応度 | ☆☆☆☆- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 30m / 110m | ||
所要時間 | 10分 / 25分 |
指 定 | 国指定史跡(2022年11月指定)、続日本100名城 |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、石垣、土橋、虎口 |
歴 史 | 細川高国の家臣・能勢国頼の城。その後細川晴元の城となり、天文16年(1546年)には三好長慶が入城した。 永禄11年(1568年)には三好三人衆の筆頭・三好長逸が城主だったが、上洛した織田信長に攻め落とされた。 |
駐車場 | タイムズのB 塚脇弓道場前駐車場 – Google マップ |
住 所 | 大阪府 高槻市 塚脇1-24-9の東隣 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
1-①駐車場~
WEB予約した駐車場「タイムズのB」に車を停め、芥川山城を目指す。道は西へ向かって真っ直ぐに伸びている。登り坂だ。すでに登城は始まっている。
道を真っ直ぐ上って行くと、突き当たりに介護老人福祉施設「高槻黄金の里」があり、三叉路になっている。
三叉路を左へ進む。
1-②登城口~
駐車場から10分ほどで、登城口に来た。ここから東曲輪群→出丸群→主郭部と見ていく。
城址は私有地にあることも多い。見学が許可されているエリアと立ち入り禁止のエリアがフェンスでしっかり区分されているので、注意が必要だ。
1-③東曲輪群
ほどなく東曲輪群に差し掛かった。
東曲輪群の北側の曲輪
同じく土塁
先へ進む。
東曲輪群の端(出丸群の手前)に竪土塁がある。山の傾斜面に縦方向に土塁を築く事で、敵の横移動を制限する設備。同じコンセプトで「登り石垣」というものがあるが、こちらは日本に現存するものは4基のみで、そのひとつは三好長慶ゆかりの洲本城にある。
竪土塁のすぐ先に土橋がある。ここから出丸群になる。
1-④出丸群
ルート左手の小高い丘が出丸群の主郭部となる。出丸群というだけあり、ここを最高地点として南側の傾斜面に曲輪がひな段状に連なる縄張りとなっている。
出丸群にはフェンスが設置されているので入ることは出来ない。ルートを通り出丸群の裏を抜ける。
1-⑤大手道
出丸群の裏を抜けると、鞍部といわれる出丸群と西曲輪群の間のつなぎ目のエリアに出る。実はここが芥川山城の表玄関である。
鞍部から南へ降るルートがある。ここが大手道で、山の麓に通じている。公共交通機関で登城する場合は、塚脇バス停で降りてここから登ってくることになる。
大手道を下る。
ほどなく右手に大手門石垣が出現。
かつては石垣の真横であるここに、大手門があった。
下まで降って大手門石垣を見上げる。
鞍部に戻り、西曲輪群へ向かう。
1-⑥主郭部
三の丸の腰曲輪。高槻市の街並みが一望出来る。
三の丸。発掘調査で遺構が見つかっても、大抵は保護のため埋め戻されるので、生で見ることは出来ない。
主郭部北側にある本丸。永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際、京都の東寺から勝龍寺城を経由し、ここ芥川山城を一目散に目指した。そして三好三人衆のリーダー・三好長逸を追い出し、入城した。織田信長と足利義昭は、この場所に建っていた御殿に2週間滞在し、天皇の勅使や畿内の守護たちが面会に来るのを応対していたという。
三好三人衆については、宇佐山城のセクション(湖南+洛東🔎 )で少し解説している。
本丸から南を見る。本丸の南端にほこらがある。その先の看板がある場所から一段低くなっており、二の丸となる。
ほこらは三好長慶と松永久秀がまつられているようだ。
看板の裏は三好長慶のイラスト。一見して182.6cmの大男なのかと思ってしまうが、182.6mで、芥川山城の標高を表している。比高は120mなので、戦国期の山城としても少し低い。
看板の表は、芥川山城の説明書き。
その横にある香川元太郎氏の芥川山城復元図。北から流れてくる芥川は、山の西側を迂回し、南へ流れ出ている。大事な水源であり、天然の水堀も兼ねている。
二の丸から高槻市街を望む。三好長慶は京へ入ることよりも、摂津一円を見渡せるこの場所を選んだ。京都に平安京が出来てから800年弱の間、日本の首都は京都であり続けたが、三好長慶は京都ではなく摂津を向いていた。その後この地を治めた織田信長も、最後の城は摂津に建てようと考え、信長の遺志を継いだ豊臣秀吉は、天正11年(1583年)ついに摂津に大阪城を建てた。
京都ではなく大阪こそ畿内の中心地と考えた三好長慶。その後の大阪の発展が、その考えが正しかった事を証明している。
ここから15kmくらい先に大阪城があるのだが、白いもやで何も見えない。
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