2021年11月28日(日)快晴
1.土佐神社
指 定 | 国の重要文化財 |
遺 構 | 社殿(本殿、幣殿、拝殿)、鼓楼、楼門 等 |
歴 史 | 現社殿は、戦国期に長宗我部元親が再建した。鼓楼と楼門は、江戸初期に2代目土佐藩主・山内忠義が建立した。 |
駐車場 | 土佐神社 – Google マップ(普通車:60台、大型:5台) |
住 所 | 高知県 高知市 一宮しなね2-16-1 |
トイレ | 有り |
1-①土佐一宮
鳥居の手前にある駐車場に車を停め、土佐神社を参拝。やはり神社には、朝一番に来るのが望ましい。鳥居の上に「土佐一宮」と書かれてある。一宮とは、その国(都道府県)でもっとも社格の高い神社が名乗る称号の様なもの。通常 “いちのみや” と読むが、土佐神社では “いっく” と読む。
土佐神社の社殿は、土佐の覇者・長宗我部元親が建立しており、戦国武将らしくトンボをコンセプトにした建屋の配置にしている。ホームページの上空写真では、拝殿-幣殿が十字の形に配置され、本殿に連結しているのが良く分かる。
鳥居を潜ってすぐ右手にある鼓楼は、江戸初期に土佐藩の2代目藩主・山内忠義が建立した。参道入り口の楼門とともに、国の重要文化財に指定されている。
鳥居を潜って正面に社殿がある。ここから見える建屋は全て拝殿(トンボの羽と胴)で、その奥に幣殿(トンボの頭)があり、その奥の本殿に向かっている。本殿に入るトンボの様子から「入りトンボ様式」という。
1-②しなねの森
社殿の奥にある遊歩道「しなねの森」。漢字では “志那禰”と書く。
直径1.5mくらいの御神木の大杉。
禊岩。人々の心身を清める御神徳のある石。
礫の石。神様が神社の場所を決めるのに石を投げて落ちた場所にしたという言い伝えの石。直接手を触れるとバチが当たるらしいので、柵の外から見る。
輪抜け祓所。説明板の様に、中に入って外を左回りに回り、また元の位置から中に入って外を右回りに回り、また中に入って外を左回りに回る。そうする事で、心身が祓い清められるという。ミツバチの8の字ダンスみたいだ。
放生池の回りの木々が、赤く色づいていた。
2.高知城
指 定 | 国指定史跡、国の重要文化財、日本100名城 |
遺 構 | 天守、本丸御殿、櫓、門、石垣、堀、鐘撞堂 |
歴 史 | 1300年代に砦があったらしいが詳細は不明。天正16年(1588年)に長宗我部元親が改修。関ヶ原後、土佐に転封となった山内一豊は、浦戸城へ移っていた長宗我部氏の城をここへ移築し、今の高知城へと改修した。 |
駐車場 | 高知城 – Google マップ 高知公園駐車場:65台、他周辺に多数あり。 |
住 所 | 高知県 高知市 丸ノ内1-2-1 |
トイレ | 有り |
土佐神社から車で20分強。現存天守重文七城のひとつ、高知城。
山内一豊像。山内氏はもともと、尾張の守護代・岩倉織田氏(伊勢守家)の重臣だったが、主君は美濃の斉藤氏と手を組み、同じ尾張の織田信長(弾正忠家)と戦って滅びた。その後信長の配下に入り、木下秀吉の与力となったことで、秀吉の立身出世とともに山内氏も繁栄した。常に勝ち組に付くことで、最後は土佐20万石の大名となり、明治まで16代続いた。
浮き沈みがあるのが人生だが、山内氏は、織田信長に付いた後300年間勝ち続けている。
追手門
高知城特有の排水設備、石樋。城内に、全部で16ヶ所あるという。
天守と月。
詰門
天守と本丸御殿。天守と御殿が現存しているのは高知城だけ。
天守から本丸を見る。
本丸の外から見た黒鉄門。
「国宝高知城」と書いてあるが、昭和25年に”国宝”は全て”重要文化財”に名称変更し、その後で特に価値の高いものを改めて「国宝」に指定したが、高知城は選ばれていない。なのでこの石碑は、昭和25年以前に建てられたものということになる。
3.岡豊城址
形 態 | 山城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | 80m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
蟲獣類 | 蛇 | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
指 定 | 国指定史跡、続日本100名城 |
遺 構 | 曲輪、石積、土塁、井戸、虎口、竪堀、横堀 |
歴 史 | 鎌倉初期に、信濃からやってきた宗我部氏が土佐の長岡郡と香美郡に定住し、それぞれ長宗我部、香宗我部と名乗ったのが始まり。岡豊城を拠点とした長宗我部氏はその後飛躍し、長宗我部元親の時に四国の覇者となった。 |
駐車場 | 岡豊城址 – Google マップ(普通車:50台、バス:4台) |
住 所 | 高知県 南国市 岡豊町 八幡1099-1 |
トイレ | 有り |
3-①資料館
高知城から30分弱で岡豊城に到着。
石垣の間の階段を登っていくと、資料館の前に立つ長宗我部元親像が出現!
まずは資料館を見学。
資料館2階の長宗我部展示室では、この「本陣コーナー」のみ写真撮影OK。
3-②岡豊城
資料館を一通り回った後、岡豊城を散策。
詰(本丸)。礎石が残っている。
「詰」を中心とした円郭式曲輪であることがうかがえる。
詰(本丸)から見る景色。
三ノ段(三の丸?)
曲輪を囲う土塁の内側に石垣が設けられている。説明看板では石積と書かれているが、土塁が無く石のみを積み上げたものを石積と言い、土塁の側面を石で覆ったものは石垣なので、これは石垣である。
※道の駅「南国 風良里」
岡豊城の後は昼ご飯。車で10分ほどの所にある、道の駅@南国 風良里。
カフェレスト風良里。丸く、ドーナツ状の店内。
私とユウは、鰹のタタキ御膳を頼んだ。メインは「海老と野菜の天ぷら」と「鰹のタタキ」。
ナオが注文したのは、土佐味わい御膳。メインは「ウツボの唐揚げ」「鰹のタタキ」「釜揚げちりめん」。
その土地の旬の食材を味わうのが、旅行ならではの醍醐味。都会のどんな味付けも、旬の素材が持つポテンシャルには敵わないだろう。
4.丸亀城
指 定 | 国指定史跡、国の重要文化財、日本100名城 |
遺 構 | 天守、門、長屋、番所、石垣、堀 |
歴 史 | 豊臣政権期に生駒親正が高松城を本城とし、丸亀城を支城として築く。 |
駐車場 | 丸亀城 – Google マップ 丸亀城北側の市民ひろばに駐車場有り。(20台) |
住 所 | 香川県 丸亀市 大手町 2-2 |
トイレ | 有り |
昼食後、70分ほど高速道路を走り、丸亀城に到着。城の北側にある市民ひろばに駐車した。
大手二の門越しに天守を見る。とにかく高い。
丸亀城といえば石垣。扇の勾配といわれるフォトスポット。
二の丸からの天守。
本丸に上がると海が見えた。遠く、瀬戸大橋が見える。
丸亀の街と瀬戸内の島々
5.高松城址
指 定 | 国指定史跡、国の重要文化財、日本100名城 |
遺 構 | 天守台、櫓、渡櫓、門、石垣、堀 |
歴 史 | 豊臣政権期に生駒親正が築く。 |
駐車場 | 玉藻公園專用駐車場 – Google マップ(57台) |
住 所 | 香川県 高松市 玉藻町 2-1 |
トイレ | 有り |
丸亀城から60分弱、玉藻公園駐車場に到着する前に艮櫓が見えた。城の南東なのに艮(うしとら)というのも変だが、もともと北東に建てられた櫓のようだ。昭和42年に太鼓櫓の跡地に移築されたとの事。袴型の石落としが、ジオン軍のモビルスーツみたいでカッコイイ。
枡形虎口を通り、桜の馬場へ。
桜の馬場から桜御門を通過すると、西側に広い内堀と天守台があった。「逆さ富士」ならぬ「逆さ天守台」
二の丸の手前に水門がある。海水を引き入れた水堀なので、潮の満ち引きに応じて門を調節して水位を保つ為にあるのだろう。
二の丸と本丸を連絡する鞘橋。当初は屋根は無かったが、江戸中期に屋根が付けられたのだそうだ。
本丸の天守台。水城らしく、河口部や海の浅瀬にありそうな丸い石を多く使用している。
天守台の内側。
天守台から水門を見る。
天守台から鞘橋を見る。
海路の大手門、水手御門と月見櫓。城郭協会の三重櫓カードは海からの写真になっているが、高松城見学者は北の丸から見る事になる。月見櫓は「着見櫓」とも書くという。藩主が江戸から船で帰り着くのを見守っていたからと言われる。
披雲閣。藩主の住居であり、藩の政庁としても使用していた。厚みの不均一なガラスが、時代を感じさせる。
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