【近江:湖東の城】足利幕府の創成期を支えた佐々木道誉の勝楽寺城を始め、滋賀東部の城々を巡る

百済寺の表参道と仁王門 畿内近国
この記事は約8分で読めます。

1.多賀大社

社 格式内社、別表神社
境 内国の名勝:奥書院庭園
歴 史1300年以上前の「古事記」に載っている歴史ある神社。長寿祈願の神として知られ、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が、母・大政所の延命を祈願し、成就したと言われる。その際大名の石高に匹敵する1万石を奉納され、庭園などが築造された。
駐車場多賀大社 参拝者駐車場 – Google マップ
住 所[大 社]滋賀県 犬上郡多賀町 多賀3891
[駐車場]滋賀県 犬上郡多賀町 多賀604
訪問日2023年12月10日(日)快晴

1-①駐車場

多賀大社の駐車場

多賀大社の無料駐車場。多賀大社まで歩いて5分ほどのところにある。すぐそばにも駐車場はあるが有料なので、往復10分を短縮するだけのタイパは感じられないからここに停めるのが良いと思う。

とび太くん

駐車場の案内所にあるとび太くんの武将バージョン(兜+陣羽織)。映画「翔んで埼玉~琵琶湖より愛をこめて~」に出演し、全国区の有名人になったとび太くんは、滋賀県でのみ見る事が出来る。

1-②多賀大社

多賀大社の大鳥居。朝霧が立ち込めているので、今日は快晴で間違いなし。

多賀大社の案内板

境内の案内板。社殿は本殿-幣殿-神楽殿-拝殿の4基から成り、その周囲に15社もの神社が点在している。

社殿の左側にある奥書院庭園は、豊臣秀吉からの奉納金で築造されたという。多賀大社は長寿祈願の神として知られており、天正16年(1588年)に豊臣秀吉は、母・大政所の延命を祈願し成就されたため、大名の石高に匹敵する1万石を奉納した。

太閤橋

そり橋(太鼓橋)。つい最近まで登っても良かったようだが、残念ながら今は立入禁止になっている。手前の2本目の棒が真新しいので、誰かが登ろうとした時に折れたのか?

寛永15年(1638年)に徳川幕府の助成金で大造営された際にそり橋も造られたという。多賀大社での名称は江戸期の地図に記載されている「そり橋」は、一般的には「太鼓橋たいこばし」と呼ばれる。太閤秀吉の1万石のインパクトが大きかったから参拝者の間で愛称となったのか「太閤橋たいこうばし」という呼び方もあるが、秀吉とは直接関係ないので正しくはないとのこと。

御神門

御神門。提灯に天皇の家紋・菊家紋章きくかもんしょうが入っている。明治以降は天皇と皇太子しか使用出来ないが、それ以前から使用しているものはそのままでいいのだろう。

神馬舎

神馬舎しんめしゃ。神が乗るとされる神馬しんめは大きな神社ではよく見かける。生きている馬を奉納している神社もあり、全国に12社あるそうだ。

拝殿

厳かな雰囲気の拝殿

社務所

蔵のエリア

参道の左側にある蔵のエリアを見に行く。

文庫

文庫。幕末に、長州や土佐の藩士と密議を行った場所だという。

神輿庫と梵鐘

神輿庫と梵鐘

神輿庫は、神輿を保管している場所。時間なのか日なのか分からないが、扉が開いて中が見える状態になっている時もあるようだ。

梵鐘は戦国期の天文24年(1555年)に鋳造されたもので、この時代の大鐘としては全国で5本の指に入る大きさだという。鐘には当時の122名の奉賛者の名が刻まれており、その中には佐々木賢誉けんよ六角ろっかく義賢よしかた-34歳)や浅井あざい猿夜叉(のちの長政-10歳)の名もあるという。外からはほとんど見えないのが残念。

太閤蔵。この蔵は秀吉から奉納された1万石で築造されたものなので、「太閤蔵」との名称で良いようだ。

2.勝楽寺城

形 態山城址難易度★★★--
比 高160m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類猪、鹿見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ -  /  150m
所要時間-  /  35分
指 定
遺 構曲輪、石垣、堀切、土塁
歴 史 バサラ大名・佐々木道誉どうよ(京極高氏たかうじ)の城。正慶2年(1333年)鎌倉幕府の倒幕を決意した足利尊氏に同調し、播磨の赤松円心や関東の新田義貞らとともに戦い、鎌倉北条氏を滅ぼした。
駐車場勝楽寺 – Google マップ
住 所滋賀県 犬上郡甲良町 正楽寺4
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2023年12月10日(日)快晴

2-①駐車場

勝楽寺入口

多賀大社から10分強で勝楽寺に到着。

案内板

勝楽寺城の案内板。登ってみて分かったが、比高は150mだが横移動が長いので思いのほか時間は掛かる。往復所要時間「1時間30分~2時間」と書かれているのは少々大げさだが、1時間~1時間30分は必要だろう。

解説板

南北朝時代に造られた勝楽寺城は、バサラ大名・佐々木道誉どうよ(京極高氏たかうじ)の城として知られている。室町幕府の初代将軍・足利尊氏たかうじを支えた創立者のひとりで、派手で傍若無人な様を当時は「婆娑羅ばさら」と呼んだことから「バサラ大名」の異名が付いている。さしずめ江戸時代なら「傾奇者かぶきもの」、現代なら「ヤンキー」だろう。

道誉から100年以上昔、鎌倉幕府の創立に尽力した佐々木信綱とその4人の息子達は、源頼朝から近江の地を与えられた。そして長男は「大原」、次男は「高島」、三男は「六角」、四男は「京極」とそれぞれ俗姓を名乗った。佐々木宗家は三男の六角氏が継いだので、道誉の京極氏は分家となる。

山門

勝楽寺の山門。山城・勝楽寺城の上臈じょうろう屋敷の門を移築したものとのこと。

駐車場

山門の右側の道を入った先にある駐車場に車を停めさせていただき、勝楽寺城へ。

大日池

その前に大日池を見学。説明板によると、元亀元年(1570年)7月、織田信長による兵火によりほとんどの堂宇(お寺の建物)が焼かれた際、村人がここに大日如来像を埋めたため焼失を免れ、再び掘り起こした時に水が湧き出て池になった、とのこと。

ここ近江国犬上郡は浅井氏の支配地のひとつで、織田氏とは従属同盟を結んでいた。元亀元年(1570年)4月、浅井久政-長政は反旗を翻し、金ケ崎にいた織田信長に兵を差し向けた。同盟は決裂し、織田氏vs浅井氏の戦が始まった。同年6月、姉川の戦いと横山城陥落を経て、浅井の重臣・磯野いその員昌かずまさの籠もる佐和山城は織田軍に包囲された。佐和山城の支城・勝楽寺城のある犬上郡の町は、そんな時代背景の中、焼き討ちにあったと考えられる。

2-②登城口~鞍部

登城口

登城口には、有害鳥獣防止の柵があるので、チェーン付きの扉を開け閉めして入る。

橋

橋を渡る。

その先に石仏群があり、右にも行けそうな感じだったので私は進路に迷ったのだが、ナオはすぐに左上の木にリボンがあるのを見つけ、左から右上に登っていった。

経塚

経塚。道誉の三男・京極高秀により、父の菩提を弔うために建てられた。

登城道

先へ進む。

狐塚付近から見る景色

名神高速が見える。ここは多賀ICと湖東三山ICのちょうど中間あたりになる。

平四つ目結のパネル

佐々木一族の家紋「平四つ目結」のパネル。下からライトで照らすようになっているので、夜に反射させて高速から見えるようにするのだろう。パネルの上にある鳥居は狐塚の鳥居。

登城道

先へ進む。急な斜面を登っていく。

鞍部

斜面を登り切り尾根に出た。ここは鞍部あんぶで、左右に山の頂上ピークがある。

2-③主郭部

a) 勝楽寺城址

尾根道

先に左側の勝楽寺城址見張り台を見に行く。

尾根道

尾根道を進む。

曲輪

曲輪。最高地点・標高310mの表示があるが、本丸ではないようだ。

尾根道

尾根道を降る。

尾根道

また登る。

曲輪

ここも本丸ではないが広い曲輪になっている。竪堀や堀切はあるものの、段曲輪や帯曲輪や堀切や土橋などを組み合わせた技巧的な縄張りなどはなく、地形に合わせて曲輪と切岸を造ってつなげただけの縄張りだ。佐々木道誉のいた南北朝期に使われた城なので、ひょっとするとその後の戦国期には廃城になっていたのかも知れない。登城道の途中の曲輪に道誉の墓のひとつ・経塚があったのも気になる。もっぱら使用中の城なら、墓は城の麓の邪魔にならない場所に建てるだろう。

尾根道

また降る。

尾根道

土橋のように細い尾根道の左側に、急峻な切岸が設けられている。

勝楽寺城

曲輪。ここが勝楽寺城の本丸

案内板

「勝楽寺城跡」の案内板と、標高308mの表示。説明文に「全国的に珍しい畝状竪堀山城」と書かれているが、畝状竪堀は全国的には珍しくないので「近江では珍しい」と書きたかったのではないかと思う。それと、畝状竪堀は戦国末期に発明された防衛設備なので佐々木道誉が築城した際にはまだ無く、後世の誰かが増設したものだろう。

b) 見張り台

尾根道

先へ進む。

見張り台

見張り台。曲輪群の最北端にある出丸。

見張り台の説明板

「見張り台」の説明板

見張り台からの景色

残念ながら、木に遮られて今は何も見えない。

c) 上臈落し

尾根道

鞍部まで戻り、反対側(右側)の尾根を進む。

シダの茂る場所

曲輪の手前にシダの茂る区画がある。曲輪の北側斜面ということもあるが、恐らくこの辺りに水の手があるのだろう。

上臈落し

南端の曲輪「上臈落じょうろうおと」。

上臈落じょうろうおとし」の説明板。この文章からすると、敵軍は勝楽寺城を殲滅する方針なのが明白で、城は落城寸前か兵糧が尽きて餓死を待つのみの状態。城主は妻子をこの曲輪から突き落として死なせた後、城兵全員で玉砕した、ということになるだろう。勝楽寺にあった山門が「焼け残った上臈屋敷の門を移築した」とのことと、大日池の説明板に「元亀げんき元年(1570年)7月、織田信長による兵火」と書いてあったことを合わせて考えると、この「上臈落し」もその時の出来事と考えるのが自然のように思われる。

しかし、犬上郡が兵火に見舞われた一月前の元亀元年(1570年)6月。織田信長は浅井氏の重臣・堀秀村(鎌刃城城主)を調略し、横山城を陥落させて城代の三田村国定を降伏させている。その後、佐和山城を8ヶ月かけて攻め落し、城主の磯野いその員昌かずまさを降伏させて織田氏の配下にしている。信長は浅井氏の家臣団を攻めるにあたり、降参すれば家臣に取り込むか、それが無理な者は逃がす方針で進めていた。その後も殲滅したのは小谷城の浅井氏の一族だけだった。なので、小谷城から遠く離れた勝楽寺城のような奥地に浅井一族はいなかっただろうから、ただの家臣を殲滅したとは考えにくい。

「上臈落し」のエピソードは、一体いつの時代のものなのだろうか?

上臈落しからの眺望

上臈落しから犬上郡(甲良町)の町並みを眺める。

<to be continued👣>

Follow me!

コメント

PAGE TOP