目次
1.鶴城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★--- |
比 高 | 110m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 100m | ||
所要時間 | - / 20分 |
指 定 | 豊岡市指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀 |
歴 史 | 山名四天王の一人で、但馬の国衆・田結庄氏の城。元亀元年(1570年)田結庄是義は、敵対していた垣屋続成を討った。しかしその5年後、続成の子・垣屋光成に討たれた。 |
駐車場 | 船町公民館の駐車場 – Google マップ(3台分) |
住 所 | 兵庫県 豊岡市 船町1-1 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2022年4月10日(日)快晴 |
1-①駐車場&登城口~
船町公民館の駐車場に車を停めさせていただく。小屋と祠の右側に登城口がある。
登城口。鶴城は田結庄氏の城で、山名氏の重臣で山名四天王の一角とされていたが、山名氏が衰退した戦国中期~後期には、国衆として独立した存在であったと言われている。
道中に石仏が。
ここにも石仏。
石積。
出丸か。
1-②主郭部
a) 四の丸
四の丸の石垣。この石垣は戦国時代のものではなさそうな気がする。
四の丸に立てられた案内板。城の形が鶴が翼を広げた姿に似ていることから鶴城と呼ばれている。案内板奥の建屋は愛宕神社。ここから北へ、三の丸→二の丸→本丸と続く。
四の丸西側(写真奥)の腰曲輪。
b) 三の丸
三の丸。三の丸は四の丸より一段低くなっている。
三の丸西側の帯曲輪。帯曲輪は侵入してきた敵を一旦そこに留めるエリアとなるが、先ほどの四の丸の腰曲輪は恐らく、この帯曲輪にいる敵を狙うシューティングポジションなのだろうと思う。
三の丸、二の丸の東側へ。
こっち側の斜面には畝状竪堀群があるので見に来ると、野生のタヌキを発見(写真中央)。お互いの距離はかなり離れているのだが、タヌキはこっちを警戒しているように思えた。
畝状竪堀群はうっすらと凹凸は確認出来たものの、よく分からなかった。
c) 二の丸
二の丸の虎口。
d) 本丸
本丸。東側(右)に土塁がある。
本丸の北側には切岸と堀切があり、北曲輪群へと続いている。
1-③北曲輪群
登城口から上って最初の出丸が鶴の左翼なら、こっちは右翼になる。
東は土塁、西は切岸、堀切と土橋のコラボで分断された曲輪が南北にいくつも連なっている。
切岸。
振り返って南方面を見る。土塁も切岸も400年以上の歳月でなだらかに変形したと鑑みれば、当時は相当な規模の城だったのかも知れない。田結庄氏の力の大きさが窺える。
2.此隅山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★--- |
比 高 | 130m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 100m | ||
所要時間 | - / 20分 |
指 定 | 国指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切 |
歴 史 | 山名宗家で但馬守護の山名祐豊の城。永禄12年(1569年)に起きた合戦を機に、山名祐豊は此隅山城を捨て、新たに有子山城を築いたというが詳細は不明。 |
駐車場 | 豊岡市立いずし古代学習館 – Google マップ |
住 所 | 兵庫県 豊岡市 出石町袴狭380-1 |
トイレ | いずし古代学習館内 |
訪問日 | 2022年4月10日(日)快晴 |
2-①駐車場&登城口
鶴城から約25分で、此隅山城登城口に隣接する「いずし古代学習館」に到着。早朝出かけるとき気温は6℃だったが、今9時半を回って15℃になっていた。
いずし古代学習館の奥にある登城口。
案内板の左半分は縄張り図。
案内板の右半分は山名氏と此隅山城について書かれている。中盤あたりで、山名祐豊が此隅山を廃して有子山城を築城した経緯について言及しているが、“織田信長が秀吉らを使って但馬侵攻を行ったことに起因する”と受け取れるような書き方をしている。嘘とは言わないが、事実かも知れないが真実ではないだろう。
尼子再興を目指す山中鹿介を支援する山名祐豊に対し、尼子再興軍と戦っていた毛利元就は、山名の本拠地・但馬へ攻め込むことにした。その際、前年(永禄11年)に征夷大将軍になっていた足利義昭に援軍要請を行った。義昭は毛利を支援すべく和田惟政を大将とする軍勢を但馬へ派遣することに決め、織田信長にも兵を出すよう命じた結果、織田家臣の木下秀吉の軍(数百騎くらい?)が与力として和田軍に加わった。というのが真相のようだ。
斜面を登る。
ほどなく尾根に出る。
足場が悪いので、ロープが張られている。
尾根上にある曲輪。
堀切。
ここにもロープが。歩を進めるたびに砂と一緒に足が滑るため、ロープがないと確かに危ない。山名祐豊が此隅山城を捨てたのは、この土質のせいではないだろうか? 合戦での痛み方が思いのほかひどく修復困難だったか、あるいは修復してもまた大ダメージを受ける事を鑑みてこの城を諦めたか。
2-③主郭部
この上が二の丸。
二の丸。
二の丸の上に本丸がある。
本丸。
将軍・足利義教が殺害された嘉吉の乱(1441年)により反逆者の赤松氏は没落し、その旧領を吸収した但馬の山名持豊(宗全)は、因幡・伯耆・備後・美作・播磨・但馬・丹波・丹後・山城・和泉・紀伊の11ヶ国の太守となり、全国は66ヶ国あることから”六分の一殿”と呼ばれた。
“六分の一殿”山名宗全の強大さを危惧した管領・細川勝元は、山名氏の対抗馬として赤松氏を復活させる。応仁元年(1467年)には細川勝元と山名宗全が京都で直接対決し、周囲の守護や国衆を巻き込んでの大乱となった。この応仁の乱をきっかけに、戦が日本各地のどこかで絶え間なく続いている状態「戦国時代」となった。
あの雪山を越えた先は鳥取県。但馬山名氏の分家・因幡山名氏の国がある。
3.出石城
形 態 | 平城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | - | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
指 定 | 豊岡市指定史跡、続日本100名城 |
遺 構 | 櫓、石垣、堀 |
歴 史 | 豊臣秀吉の重臣・小出秀政の城。秀吉の母・大政所の妹婿なので、秀吉の叔父にあたる。江戸期は出石藩の藩庁として機能していた。 |
駐車場 | 大手前駐車場 – Google マップ |
住 所 | 兵庫県 豊岡市 出石町 内町104-7 |
トイレ | いずし観光センター内 |
訪問日 | 2022年4月10日(日)快晴 |
3-①駐車場
此隅山城から10分強で、出石城下町の大手前駐車場に到着。気温はどんどん上昇中で、11時を回り20℃を超えていた。
この山の上が有子山城。空との境界線に、本丸の石垣と休憩所の屋根が見える。
3-②出石皿そば巡り
朝が早かったので、すでにお腹が空いている。まずは観光センターへ。
観光センターで、出石皿そば巡り巾着セットを、1袋@2,200円で購入する。このセットは、出石城下町にある36軒の皿そば屋さんの中で、この3枚のコインをそれぞれ1軒で1枚支払い、3軒の皿そばを食べ歩くというシステムになっている。
a) 1軒目「玄」
1軒目は「玄」。巾着袋を見せると、一人3皿の皿そばが提供される。そばの特徴は3つの項目で紹介されている。「玄」の場合、そばの色…やや黒、そばの太さ…やや細、ダシの甘辛…普通、となっている。「玄」の特徴は、1皿目を竹野浜産の天然塩でいただくというもの。最初にそばの味をしっかり味わうことが出来、1店目に選んで良かったと思った。
2皿目はねぎわさびで、3皿目はねぎわさび+卵と山芋でいただいた。
b) 2軒目「如月」
2軒目は「如月」。そばの色…やや黒、そばの太さ…やや太、ダシの甘辛…まろやか。
生わさびが付いている!
c) 辰鼓楼
観光センターの横に建つ出石のシンボル辰鼓楼は、140年ほど前から動きつづけている時計台だ。動き始めたのが札幌の時計台の27日後だったため、「日本最古の時計台」の称号は取り損ねている。
d) 家老屋敷跡
家老屋敷跡。
e) 3軒目「山下」
3軒目は「山下」。あとで知ったが、「山下」は出石皿そばを代表する店だった。
「山下」は、そばの色…やや白、そばの太さ…普通、ダシの甘辛…やや辛
肝心のそばを撮り忘れた💦
しめのデザートは、そば団子(別料金)。口触りも歯ごたえも上品で、黒蜜と餡きな粉の甘みがさっぱりしていた。
アイスは別腹。ナオも私も、そば+バニラ+黒豆の3段ソフトを食べた。
3-③出石城址
いざ、出石城へ。
本丸西隅櫓(模擬)
a) 二の丸
二の丸。
b) 本丸
本丸。手前は本丸東隅櫓(模擬)、奥は本丸西隅櫓(模擬)
本丸の上に、有子山城の登城口がある。
c) 稲荷曲輪
本丸の上の稲荷曲輪から、本丸と城下町を俯瞰する。
4.有子山城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★★★- |
比 高 | 320m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 40m / 260m | ||
所要時間 | 10分 / 45分 |
指 定 | 国指定史跡、続日本100名城 |
遺 構 | 曲輪、石垣、堀切、竪堀、土橋 |
歴 史 | 但馬の守護・山名祐豊の城。天正2年(1574年)に本城として築城し、此隅山城から移ったと言われる。 |
駐車場 | 大手前駐車場 – Google マップ |
住 所 | 兵庫県 豊岡市 出石町 内町104-7 |
トイレ | いずし観光センター内 |
訪問日 | 2022年4月10日(日)快晴 |
4-①登城口~
続いて、本日のメインキャッスル・有子山城へ。
午後1時を回り、夏の様相を呈してきた。ピークが何時か知らないが、この日の最高気温は27℃だ。
有子山城の北の尾根を上って行く。
但馬は石仏を並べる風習があるのかな?
むき出しの木の根が多い。それだけ崩れ易い土質なのだろう。
階段とロープが延々と設置されている。徹底された安全対策には、登城者としては感謝しかない。
ここは曲輪かな?
ここも曲輪っぽい。
a) 土橋&堀切
土橋と堀切のコンボ。
ここにも土橋と堀切のコンボ。尾根を利用した出丸・段曲輪群は、土橋と堀切で関所を設けるのが定番だ。
横から見ると、傾斜の急峻さが分かる。
b) 北曲輪群
大きめの曲輪。北曲輪群の拠点となる場所だろう。
ここから西へ横移動する。
c) 水の手
見ても良く分からないが、この辺りに水の手があったらしい。
d) 西曲輪群
こっちは西曲輪群。北西の尾根に沿って、段曲輪が続いている。
4-②主郭部
西曲輪群や石切場など見所はあるが、寄り道せず本丸を目指す。
a) 第六曲輪
b) 第五曲輪
c) 第四曲輪
南北に連なる有子山城の連郭式曲輪は、本丸へ近づくほど高くなっている。
第四曲輪。
d) 第三曲輪
第三曲輪の石垣。
第三曲輪。
e) 第二曲輪
f) 本丸
本丸の石垣。下から見えるのはこれの左側面。
本丸の石仏。
本丸に着いたぁ!!
所要時間は、登城口から本丸まで47分。写真を撮っている時間を考慮すれば正味45分くらいか。登城時間が長いだけなら弥高寺や上平寺城のほうが長かったが、それらの城は歩きやすかったのでそれほど疲れなかった。有子山城は急峻な足場の悪い階段状の道をひたすら上って行くので、恐らく今まで上った山城の中で一番しんどかったと思う。
町の中に辰鼓楼が見える。
有子山城の本丸は比高320m。見渡したところ、この辺りで一番高い山のようだ。
戦国後期に築城した城としてはいささか高すぎる山城だが、山名祐豊は、攻められ難さや守り易さよりも”魅せる城”を目指したのではないだろうか? 名門・山名氏の宗家としての矜持が、この国で最も高く、地上からはっきりと見えるこの場所を選ばせたのかも知れない。此隅山城を捨てて有子山城を建てた理由が、ここに来て分かった気がした。
g) 千畳敷
本丸の南東にある「千畳敷」と呼ばれる大きな曲輪。居館が建てられていたそうだ。本丸とは堀切で分断されているため連絡路は無い。三の丸の石垣沿いに東へ向かうと行ける。
h) 石切場
石切場へ向かう。
矢穴の跡が・・・。岩村城のことがあるから少し疑心暗鬼になりそうだ。
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