【南和の城-大和路part2-】独特な縄張を持つ近世城郭・高取城を始め、奈良南部の史蹟を巡る

高取城本丸天守台 畿内近国
高取城本丸天守台
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1.大和 高取城

形 態山城址難易度★★---
比 高390m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類スズメ蜂、蛇見応度☆☆☆☆☆
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  90m
所要時間-  /  20~30分
指 定国指定史跡、日本100名城
遺 構曲輪、石垣、堀、井戸、門址、天守台
歴 史 南北朝期の築城から戦国中期の約200年間は、大和の国衆・越智氏の城だった。その後、筒井順慶、羽柴秀長、本多利久と城主が変わった。
駐車場高取城壺坂口登り口 – Google マップ
住 所奈良県 高市郡 高取町 高取
トイレ壺坂口登城口、二の丸
訪問日2023年11月5日(日)晴れ

1-①登城口~

登城口

朝7時、大和高取城の壺坂口登城口に車で到着。

駐車スペース

登城口付近に駐車場はないが、道路はここで行き止まりなので車の往来はない。他の車の邪魔にならないように脇に停める。今は朝7時だが、すでに先客が2組いた。もっと遅い時間に来る場合、散策者も車も多いことが予想されるので、手前にある壺坂寺有料駐車場に停めるのが良い。しかしその場合は駐車場からここまで歩いて40~50分くらいかかる。なので遺構のない舗装道を40~50分歩くくらいなら、高取藩城下町にある観光駐車場に車を停め、高取城グッズを置いている「夢創館」や復元された「松ノ門」に立ち寄り、大手道を黒門から順番に登って来るほうが、もっと時間を要するものの随分と有意義だろう。“朝一の壺坂口停め”はショートカットしたい人用といえる。

高取城案内板

高取城の案内板。この場所で標高約500m。本丸は標高約590mある。

高取城は、南北朝時代に越智邦澄くにずみにより造られた城が前身となる。戦国末期に越智氏は滅び、筒井順慶じゅんけい、羽柴秀長、本多利久と城主は変わった。現在の姿は江戸期に造られたもの。戦国期の高取城がどれくらいの規模でどの辺りを主郭としていたかは分からないが、越智氏は「北の筒井、南の越智」と称されたほど大和で勢力を持っていた国衆なので、大きな城だったと想像する。戦国初期の越智家栄いえひで(1432-1500)の時代が越智氏の最盛期という。

侍屋敷跡

曲輪跡

登城道
登城道

1-②壺坂口門~城代屋敷

壺坂口門

壺坂口門跡

侍屋敷跡。

侍屋敷跡

壺坂口曲輪
城代屋敷の石垣

ひときわ高い石垣。この上には城代屋敷がある。

壺坂口中門跡

壺坂口中門跡

壺坂口中門の礎石

壺坂口中門の礎石

帯曲輪

右手の石垣は二の丸下段曲輪。大手門を虎口とするので大手曲輪と言ってもいいかも知れない。

城代屋敷跡

左手の石垣は城代屋敷跡

案内板

突き当たりに大手道登城案内板がある。ここは大手道ルートと壺坂口ルートの合流地点となる。

案内板の奥は低い地形になっており、井戸曲輪がある。

1-③大手道

松ノ門跡

大手道を松ノ門跡まで降りた。案内板からの距離は壺坂口門と同じくらい。これより下には侍屋敷群があるが、その下の二ノ門や黒門まで降りると3~4倍の道のりになる。そこまで行くのであれば、最初から観光駐車場から登るべきだろう。

大手道と登り石垣

松ノ門跡から来た道を再び登る。大手道と右の曲輪(侍屋敷跡)の間に登り石垣がある。

登り石垣

登り石垣

宇陀門跡

宇陀門跡。喰違虎口になっている。

大手道
千早門跡

千早門跡。ここも喰違虎口。3つの門を通過すると、先ほどの案内板のある帯曲輪へ戻ってくる。

1-④大手門~二の丸

大手門跡

帯曲輪の先にある大手門跡。ここから主郭部になる。

二の丸下段曲輪
二の丸下段曲輪

二の丸下段曲輪

二の丸下段曲輪

二の丸へ。

十三間多門跡

二の丸の虎口・十三間多門跡。「多門たもん」と書かれているが「多聞櫓門たもんやぐらもん」のことだろう。一応「多門」をネット検索したところ、「長屋型の櫓・多聞櫓を備えた櫓門」というところは間違いなさそうだが、語源は2つ説があり、①松永久秀の多聞たもん城で初めて使われたから、②長屋型なので門が多いから、となっている。②の門が多いというのは、敵の侵入を阻みたいから城を造るのに門が沢山あったら侵入しやすくなってしまう。そんな櫓門は、城旅でもネット検索でも私は見たことがないので、語源は①の1択だろう。

二の丸虎口

二の丸の虎口。大きすぎて気づきにくいが、縄張り図を見ると二の丸の虎口も喰違虎口になっている。

二の丸

二の丸

二の丸東側

石垣の上には太鼓櫓があった。

喰違虎口

喰違くいちがい虎口

1-⑤本丸

十五間多門跡

十五間多門跡

太鼓櫓と新櫓

十五間多門を入って右手に、太鼓櫓跡(手前)と新櫓跡(奥)がある。

天守台

左手には天守台が見える。縄張り図を見ても、今居るこの曲輪がどういう構造になっていたのか良く分からないが、前方の階段辺りに下ノ門があり、そこからのみ本丸下帯曲輪へ入れたようだ。

天守台

天守台

天守台

角の算木積さんきづみも、苔生こけむした外観がかっこいい。

本丸下帯曲輪

本丸下帯曲輪を通って本丸虎口へ向かう。

本丸虎口

右へ進む。

本丸虎口

また右へ。

本丸虎口

今度は左へ。

本丸虎口

さらに左へ。迷路のようにも感じるが、縄張り図を見ると本丸虎口は巨大な喰違虎口になっている。近世城郭は枡形虎口が定番だが、高取城は喰違虎口推しだ。

本丸

本丸

天守台

天守台。通常天守台は四角形だが、高取城天守台にはなぜか凹の部分がある。凹がどのような機能を持っていたのかは分からない。豊臣家臣・本多利久により改修された高取城は、独自の築城理念によるレアな縄張りをしている。

2.橿原神宮

社 格勅祭社、別表神社
境 内国の重要文化財:本殿
歴 史初代天皇・神武天皇と皇后を祀るため、明治23年(1890年)に明治天皇により創建された。
駐車場橿原神宮 参拝者駐車場 – Google マップ
住 所奈良県 橿原市 畝傍町
訪問日2023年11月5日(日)晴れ
橿原神宮の石碑

高取城から橿原神宮かしはらじんぐう参拝者用駐車場まで30分くらい。夢創館で御城印と城カードと越智氏の家紋マグネットを購入してから来たので、20分くらいで到着した。

第一鳥居

表参道にある第一鳥居

第二鳥居

第一鳥居の奥にある第二鳥居

深田池

第二鳥居近くの深田池

手水舎

手水舎ちょうず

南神門

南神門

広場

広場。橿原神宮は左右対称になっている。入ってきたのは南神門だが、反対側に北神門があり、その外に北手水舎ちょうずがある。

外拝殿

外拝殿。橿原神宮は、明治23年(1890年)に明治天皇により創建された比較的新しい神社だ。橿原は初代天皇・神武天皇が即位した地とされている。

参道と内拝殿

一般客は外拝殿までしか入れないようだ。正面に参道が続き、その先の建物は内拝殿になる。ここからは見えないが、内拝殿の奥に本殿がある。

3.大和 布施城

形 態山城址難易度★★★--
比 高320m整備度☆☆---
蟲獣類見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ60m  /  250m
所要時間7分  /  ?分
指 定
遺 構曲輪、土塁、櫓台、堀切、畝状竪堀
歴 史 大和の国衆・布施氏の城。同じ興福寺一乗院方の宗徒・筒井氏と親交があったが、戦国期の動乱の中で台頭してきた越智氏に取り込まれ、筒井氏と敵対した。永禄2年(1559年)三好氏(松永久秀)による大和侵攻が始まると、布施行盛ゆきもりは松永久秀に従った。しかし永禄8年(1565年)筒井氏の本城・筒井城が落とされると、筒井順慶じゅんけいを布施城へ向かえ入れ、ともに松永久秀と戦うことを選んだ。
駐車場寺口駐車場 – Google マップ
住 所奈良県 葛城市 寺口
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2023年11月5日(日)晴れ

3-①駐車場~

散策者用無料駐車場・寺口駐車場に車を停める。

登城口までの道のり

布施城の登城口を目指す。

矢印看板

布施城以外にも、古墳寺院など見どころがある。

林道の分岐

ここは真っ直ぐ進む。

獣避けの柵

獣避けの柵がある。この先すぐ遺構が始まっているので、ここを登城口と考えたい。

3-②登城口~

林道

掛けられた紐をほどいて柵を開き、中へ入る。柵は元通りに。

東砦跡

向かって左手に切岸らしき土の壁がある。この上には布施城を守る出丸・東砦があった。

屋敷跡の石垣

右手に石垣がある。

屋敷跡の段曲輪

段曲輪。この辺りは布施氏の屋敷があった。

屋敷跡の石垣

屋敷跡の石垣

分岐

ほどなく分岐が出現。

分岐

矢印看板に従って、右の道を登っていく。「布施城まであと900m」と書かれている。平地なら15分程度だが、山道なので休憩除きで2倍はかかるだろう。

登城道

行き止まり? 道の正面に看板がある。

「な」の看板の左側に道があるようにも見えるが、行けそうにない。

看板の右側は道ではない。と思ったら右後方から舌を鳴らす音がした。

正しい道

音が聞こえた方向を振り向くと、横から右後方へ続く登り道があった。先に行っているナオが合図をくれた。

登城道
あと600mの看板

「布施城まであと600m」の看板が倒れている。

虎口?

道の両脇に石がある。

3-③虎口~櫓台

布施城の看板

布施城の看板を発見。登城口からここまで約25分。

布施城の縄張り図と解説の看板

布施城の案内板

布施城は大和の国衆・布施氏の城だが、布施氏は武士ではなく農民だったと考えられている。大和に守護はおらず統治しているのは興福寺で、布施氏はその宗徒としてこの地域に勢力を持っていた。三好氏の重臣・松永久秀による大和侵攻が永禄2年(1559年)に始まると、大和の最大勢力である筒井順慶じゅんけいと全面戦争になった。当初は松永久秀に恭順していた布施行盛ゆきもりだが、侵攻開始から6年後に筒井氏の本城・筒井城が攻め落とされると、滅亡に瀕した筒井順慶をこの布施城へ招き入れ、松永久秀に反旗を翻した。

a) 南側の道

布施城まであと500mの看板
南側の道

城域の南側に道が続く。

藪

しかし途中から藪がひどく、先へ行くことは出来なかった。

b) 段曲輪

虎口

なので案内板まで戻り、虎口から段曲輪を進む。

段曲輪
大きな土塁

大きな土塁

高低差のある曲輪

土塁を越えた先の曲輪は、左右に高低差が設けられている。恐らくその境界に柵や逆茂木を配置しており、敵兵は低い曲輪を通らされ、城兵は高い曲輪からそれを狙い撃つのだろう。

段曲輪

広い曲輪。

櫓台

櫓台

櫓台に登った。

大堀切

櫓台の先にある大堀切。松永久秀軍がこの櫓を攻め落としたとしたら、この大堀切を見て落胆したに違いない。虎口からここまでの距離は全体の3割くらいの位置で、本丸まであと7割の段曲輪が待ち構えている。布施行盛と筒井順慶は、戦いながら戦況を見て曲輪や櫓を明け渡し、奥へ奥へと引きながら戦い続ける。松永久秀は、最後までこの懐の深い布施城を攻め落とすことは出来なかった。

私とナオも心が折れ、ここで引き返すことにした。

4.佐味城

形 態山城址難易度不明
比 高110m整備度☆----
蟲獣類見応度不明
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  110m
所要時間-  /  ?分
指 定
遺 構曲輪、土塁、障子堀
歴 史 詳細不明。畠山氏と根来衆が攻めたという筒井方の幸田城か、河内と山城南部に勢力を持っていた木沢長政の琵琶尾城ではないかとの説あり。
駐車場高鴨神社 参拝者第一駐車場 – Google マップ
住 所奈良県 御所市 鴨神1126
トイレ高鴨神社にあり
訪問日2023年11月5日(日)晴れ

布施城から20分くらいで高鴨神社の駐車場に到着。

道

高鴨神社から西にある県道30号線を目指す。

道
道

この上が県道30号線。

県道30号線

県道30号線を南へ少し歩くと、ちょっとした空き地がある。その先の道(白い車の手前)を右へ入る。

道なり

道なりに進む。

登城口

行き止まりに見えるが、

登城口

右手に空間があり、ここが登城口となる。

倒木

しかし倒木が道を塞いいた。ここを突破出来なくはないが、この様子だとその先も倒木に悩まされることが考えられる。先へすすめば進むほど頑張った代償を求めたくなり引き返しにくくなるので、怪我をしないうちに引き返すことにした。

<END>

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