【神戸の城】松永久秀の生涯唯一の連歌が遺る滝山城を始め、摂津神戸の城々を巡る

兵庫城址に建つイオンモール神戸南 畿内近国
兵庫城址に建つイオンモール神戸南
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1.淡河

形 態平山城址難易度-----
比 高20m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆---
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  20m
所要時間3分  /  3分
指 定
遺 構曲輪、天守台、土塁、空堀、切岸[再建]模擬櫓
歴 史 播磨の国衆・淡河定範の城。三木城の別所長治に従属していた。別所氏が織田信長に反旗を翻し毛利に属すと、淡河氏も命運を共にした。羽柴秀吉軍の羽柴秀長に攻められ、落城した。
駐車場道の駅淡河 駐車場 – Google マップ
住 所兵庫県 神戸市北区 淡河町380
トイレ道の駅@淡河
訪問日2022年3月6日(日)晴れのち曇り 時々小雨

道の駅@淡河おうごに車を停めると、裏山に城址があるのが見えた。木はきれいに伐採され、動線は階段と手すりで整備されている。地元に愛されているお城であることが一目で分かる。

道の駅の西側の小道を歩き、淡河おうご城へ向かう。

お城のあった当時はここは切岸で、人の出入りは出来なかったと思われる。城域は「淡河おうご城趾」の看板と模擬櫓のある曲輪を北端とし、南へ二の丸三の丸を構える縄張りになっている。

本丸。奥の方は農地のようだ。苗木が植えられ、猪避けの通電柵が設置されている。ひょっとすると、淡河おうご城のある場所全域が私有地なのかも知れない。

本丸から模擬櫓を見る。

一段高くなった曲輪がある。ここが主郭部のようだ。WEB上にある淡河城復元絵図では、上も下も一緒に「本丸」となっている。

土俵?? 縄で出来ているので間違いなく土俵だ。奥には滑り台と鉄棒。主郭部は子供の遊び場になっている。

淡河氏の子孫の方が建立した立派な石碑。

2.端谷

形 態平山城址難易度★----
比 高30m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  30m
所要時間2分  /  10分
指 定
遺 構曲輪、土塁、堀切、物見台跡
歴 史 播磨の国衆・衣笠範景の城。三木城の別所長治に従属していた。別所氏が織田信長に反旗を翻し毛利に属すと、衣笠氏も命運を共にした。織田信忠軍の津田信澄に攻められ、落城した。
駐車場寺谷公会堂 – Google マップ
住 所 兵庫県 神戸市西区 櫨谷はぜたに町 寺谷1696-1
トイレ 最寄りのコンビニ
訪問日2022年3月6日(日)晴れのち曇り 時々小雨

2-①駐車場~

淡河城から30分強、端谷城のある寺谷公民館付近に到着。

車はこちらに停めさせていただいた。右奥の建屋が寺谷公民館。

駐車場の右のほうに立つ案内版。

橋を渡った先が寺谷公民館。その右脇の道を進む。

お城のあった当時はここは大手道で、この辺りは屋敷が建ち並んでいた。

2-②登城口

ここから城域に入る。「満福寺」の石碑の横に「端谷城跡」の石碑も見える。

階段を上ったところにある満福寺(三の丸)の境内に入るとすぐ右に「本丸跡」の矢印看板あり。

2-③主郭部

a) 堀切

突如、案内板が出現。堀切??

案内板の先には、見事な堀切が。写真だと遠近感やスケールの大きさが分かり辛いのが残念。

横から見ると凹凸が分かるか。

b) 二の丸

二の丸の切岸

二の丸

遺構のひとつひとつに、丁寧な案内板が立っている。城址でこのような見せ方をしている所は他に知らない。

c) 本丸

二の丸北側の一段高くなった曲輪が本丸

本丸

本丸に立つ案内板。遺構の一つ一つに解説があり、航空写真でお城の位置を表示してあり、とても分かり易い。端谷城は播磨の東の端にあり、摂津との国境の城として重要な拠点だったとの事。

本丸西側の物見台跡

本丸下の帯曲輪は、西の壇と言われる出丸へ連絡している。案内板の正面には竪土塁もある。

本丸から二の丸を見る。

3.兵庫

指 定
遺 構[復元]模擬石垣
歴 史 織田家重臣・池田恒興の城。摂津の国衆・池田氏は本家で、恒興の家系は庶流にあたる。天正6年(1578年)織田信長の家臣・荒木村重が謀反を起こしたが討伐され、代わりに摂津の国主となった池田恒興が、兵庫津に兵庫城を建てた。
駐車場イオンモール神戸南駐車場 兵庫城跡 – Google マップ
住 所兵庫県 神戸市兵庫区 中之島2-1-1
トイレイオンモール神戸南 内
訪問日2022年3月6日(日)晴れのち曇り 時々小雨

基本情報

イオンモール内のトイレの前にある「兵庫津の道ガイドマップ」

イオンモールの横にある模擬石垣。兵庫城の発掘調査で出土した石垣の一部を使用している。

兵庫城の案内板。イオンモールを建てる際、発掘調査を行った旨が書かれている。兵庫城の跡地の上にイオンモールを建てているので今は遺構を見ることは出来ないが、タイムカプセル的な完全保存がなされていると考えることも出来る。

兵庫城の石碑。石碑は、新川運河キャナルプロムナードの遊歩道にある。

イオンモール全景。かつてはここに天守を備えた兵庫城が建っていた。城主である池田恒興つねおきは尾張の武将だが、摂津の国衆・池田氏の分家に当たる。衰退した本家に代わって摂津の支配者に返り咲いたともいえる。恒興の息子の池田輝政てるまさは、摂津の隣の播磨姫路藩の初代藩主となり、姫路城を現在の姿に改修した人物として知られている。

兵庫城が建ってわずか2年後の天正10年(1582年)に、明智光秀の謀反により織田信長が本能寺で討たれたことで、全国の戦国大名たちの運命が変わった。

神戸といえば、南京中華街!! 北京ダックと小籠包をテイクアウトした。

4.摂津 滝山

形 態山城址難易度★★★--
比 高250m整備度☆☆☆--
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ10m  /  240m
所要時間5分  /  45分
指 定
遺 構曲輪、土塁、堀切、竪堀、石垣
歴 史 赤松氏が築城したと言われる南北朝時代の古城を、三好長慶の重臣・松永久秀が改修して使用した。三好三人衆の時代は、篠原長房が城主だった。荒木村重討伐後に廃城となった。
駐車場タイムズJR新神戸駅前自動車整理場(第1) – Google マップ
住 所兵庫県 神戸市中央区 元町1-4
トイレ新神戸駅 内
訪問日2022年3月6日(日)晴れのち曇り 時々小雨

南京中華街から20分ほど、兵庫城から直行しても20分ほどのところに新神戸駅がある。車は新神戸駅のタイムズに停め、高架下を通って駅の北側へ行く。

この左にあるトイレが最終トイレ。目指すのは城山(滝山城跡)なので、登山道コースを行く。

4-①登城口~

登城口。この階段を上る。

滝山城は山の尾根伝いに曲輪を配置し、ほぼ一直線に並んだ連郭式曲輪となっている。三好長慶の重臣・松永久秀が手がけた城ではあるが、三好松永スタイル(?)の「芥川山城」「鹿背山城」とは異なり、南北朝時代のオーソドックスな縄張りをそのまま残している。

畿内に三好政権が樹立して6年後、松永久秀が滝山城主になって3年が経った頃、久秀は滝山城で行う連歌会れんがえに、主君である三好長慶を招待した。弘治2年(1556年)7月10日、久秀48歳、長慶34歳の事である。連歌とは、5・7・5の長句と7・7の短句を交互に複数の人で詠んで、1つの歌にしていくというもの。通常100句ほどで完成となる。このとき出座したのが何人かは知らないが、仮に10人とすると、1人10句づつ詠むことになる。始めに長慶は「難波津なにわづの、言の葉おほふおおう霞哉かすみなり」と詠んだ。続いて久秀は「いまを春辺の、浦のあさなき」と詠んだ。こうして始まった連歌だったが、次に久秀の番が来た際、詠んだのは代理の連歌師・宗養という人物だった。久秀が詠んだのは最初の1句だけで、以降、久秀の番には全て宗養が詠んだ。久秀は歌が苦手なのだ。しかし歌が大好きな長慶のため、我が城で連歌会れんがえを催したのだった。ただ、下剋上が当たり前の戦国時代、家臣であっても他人の城へ行くということは殺される可能性が常につきまとう。長慶が滝山城へ行ったというのは、それだけ久秀に絶大な信頼を寄せていたのだろう。そしてそれを他の家臣達に知らしめる媒体が、久秀が苦手であるにも関わらず敢行した連歌会れんがえだった。長慶が家臣の城へ行ったのは、この時が最初で最後だったという。

少し歩くと、道の脇に曲輪の切岸が出現。進軍してくる敵を牽制するための出丸だ。

出丸を通り過ぎて振り返るとこんな感じ。高いところから低いところにいる敵を攻撃するのは攻め易く、攻められ難い。山城の基本的な考え方である。

先へ進む。

上空を、ロープウェイが通過する。

大手道と、大手道に併設される出丸群(奥に一つ手前に一つ)。一つの出丸で全ての敵を防ぎ切るつもりは無く、ヒットアンドアウェイで、退却しながら戦う構想だ。

神戸港(一眼レフで撮影)

大手道を見下ろす位置に曲輪があり、大手道に平行して続いている。今までの出丸より多くの兵士を収容可能な曲輪のようだ。

三叉路に到着。向こうの山に見える建屋がロープウェイの終点。

4-②主郭部

ここから先が主郭部

地図を確認する。

a) 虎口

主郭部の虎口

主郭部虎口の内側から。

先へ進む。主郭部だけあって、石垣に使用していたであろう石が散見される。兵庫城築城の際、滝山城の石垣を転用したと言われているから、当時はこの辺りには大量の石垣があったのだろう。

b) 二の丸

この上が二の丸

永禄11年(1568年)足利義昭を奉じて上洛した織田信長が、三好三人衆の勢力下にあった勝龍寺城(城主:石成いわなり友通ともみち)と芥川山城(城主:三好長逸ながやす)をことごとく落城させたという衝撃が畿内を駆け巡った時、滝山城の城主だった篠原長房は、この城をあっさり捨てて本国の阿波(徳島県)に帰っている。篠原は、阿波の国主・三好長治(15歳)の筆頭重臣なので、摂津に残って織田信長と戦うのは得策ではないとの判断だろうか?

興味深いのは、それから10年後の天正6年(1578年)に、当時摂津の国主だった荒木村重が織田信長に謀反を起こした際、支配下にあった滝山城を捨て、有岡城(伊丹城)や花隈城で戦っていることだ。滝山城は比高250mと戦国時代の山城としては少々高めであるので、他の城との連携が取りにくかったからなのかも知れない。

三好長治と篠原長房については勝瑞城のセクション阿波:徳島🔎)で、荒木村重については有岡城のセクション摂津🔎)で少し触れている。

c) 本丸

本丸に建つ石碑。

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