【西遠江:浜松の城】徳川と武田の激戦の地、浜松城や二俣城など静岡西部の城々を巡る

井伊氏の詰城「三岳城址」 東海
井伊氏の詰城「三岳城址」
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1.浜松城

指 定浜松市指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、石垣、[復元]模擬天守、模擬門
歴 史 遠江今川氏家臣・飯尾連龍の曳馬城を前身とする。飯尾連龍が今川氏真に謀反を疑われ謀殺されると、永禄11年(1568年)徳川家康は引馬城を攻略した。その際、連龍の妻・お田鶴の方が徹底抗戦し、侍女とともに討死にした逸話が知られている。以降、家康は東方の支配拠点として浜松城へと改修増築した。
駐車場浜松城公園駐車場 – Google マップ 
住 所静岡県 浜松市中区 元城町100-2
トイレあり
訪問日2022年2月27日(日)晴れと曇りが交互 with強風

1-①駐車場(二の丸)~

浜松城の北側駐車場は「ホテルコンコルド浜松」の向かいにある。普通車240台、観光バス16台が収容可能な大型駐車場だ。無料で朝8時から利用可能、天守も8時半から入場可能というのはとてもうれしい。(ただしこの日の2日後の2022年3月1日から、駐車場は有料となっている。)

駐車場から天守を目指して歩くと分かれ道が。どっちも天守方面で、ルートの違いが書かれていないから迷う。

駐車場のある場所は二の丸だったようだ。

城域の最南端であるここは、当時は大手門から入った城内のすぐ左に位置する。元亀3年(1573年)三方ヶ原の戦いで大敗した徳川家康が、ここで脱いだ具足を松の木に掛けて休んだことから「鎧掛松」と言われている。

三方ヶ原の戦いといえば、武田信玄の策にはまった徳川家康が、浜松城に逃げ帰る途中で家臣たちが身代わりとなり武田軍に次々と討たれていく様を傍で見て、恐怖のあまり脱糞したというエピソードで知られている。

石垣の上に建つ天守。

浜松城の石垣は、野面積みの一種で「布積み」と呼ばれる積み方になっている。石の裏側(石と土の間)には、“裏込め”というこぶし大の石が隙間無く詰められている、と書かれている。これは一般的には”ぐり石”と呼ばれるもので、これが有るのと無いので石垣の強度が全然違うようだ。なので城郭専門家は、ぐり石のあるものを「石垣」、ぐり石の無いものを「石積」と呼び方を変えている。

1-②本丸

本丸

本丸の上に天守曲輪と呼ばれる詰の丸がある。

1-③天守曲輪

本丸から天守曲輪へ向かうスロープから見た天守と天守門。

再建された天守門

天守門の内側。門の上は櫓になっている。

天守門櫓の中に売店やおみくじがある。ナオは大吉。浜松出身で徳川四天王の1人「井伊直政」

天守台に建つ浜松城天守

浜松城天守は、見た感じ復興天守のように思えるのだが、WEB検索すると模擬天守と書かれていたり復興天守と書かれていたりよく分からない。ただし天守は豊臣秀吉の重臣・堀尾吉晴の時代(天正18年以降)のもので、徳川家康の時代は土の城だった。天守以外は徳川家康の手によるもので、本丸より高い位置に詰の丸(浜松城での名称は天守曲輪)を備える構造は、安土城と同じ。恐らくその際に石垣も造られたと考えられるのだが、浜松城の石垣が安土城の石垣と同じ布積みであることからも、安土城の影響によるものと言えそうだ。改修は天正10年(1582年)に完了した。

天守台と天守がアンバランスに見えるのは、堀尾天守は五重の天守だったが、昭和33年(1958年)に再建する際、予算の都合で三重の鉄筋コンクリート天守になったためとの事。

天守曲輪にある井戸。浜松城には井戸が10本もあるという。

天守内部へ。

若き日の徳川家康像。シワの一本一本まで精巧に造り込まれている。

天守の最上階(三階)

11時の方向が、三方ヶ原古戦場

天守から見る浜松城址。

2.佐久城址

形 態水城址難易度-----
比 高5m整備度☆☆☆--
蟲獣類マムシ見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  2~3m
所要時間-  /  1分
指 定浜松市指定史跡
遺 構曲輪、土塁、堀、馬出、土橋、井戸
歴 史 遠江の国衆・浜名頼広の城。遠江守護・今川氏に臣従し、永禄11年(1568年)遠江に侵攻してきた徳川家康と戦った。約2-3ヶ月の攻防の末、降伏し没落した。
駐車場佐久城跡 – Google マップ 登城口に駐車スペースあり(2台)
住 所静岡県 浜松市北区 三ヶ日町 大崎
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2022年2月27日(日)晴れと曇りが交互 with強風

2-①駐車場~

浜松城から約40分、浜名湖沿いにある佐久さく城に到着。

30年前に設置された佐久城のイメージ図。本丸の中に矢竹の群生地が描かれているところにリアリティーを感じる。

まむし注意の看板。「この時期のヘビはいじめると襲ってきます。」と書かれてあるけど「この時期」っていつ???

2-②丸馬出

土塁が良好に残る丸馬出まるうまだし。徳川家康が増築したのかな?

本丸と馬出を連絡する土橋

本丸と馬出の間は堀切になっている。

本丸側から馬出を見る。

2-③本丸

本丸の南側(左側)が主郭部。

本丸の北側(右側)。

本丸を囲う土塁

井戸跡。浜名湖のそばだから、どこを掘っても水が出そう。

本丸は強風が吹き荒れていた。浜名湖の周辺は普段からこうなのか、今日たまたま強風なのかは分からない。

本丸の背後に広がる浜名湖。この湖が「遠江とおとうみ」の名前の由来である。京に近い湖(琵琶湖)のある国が「近江おうみ」、京から遠い湖(浜名湖)のある国が「遠江とおとうみ」。

湖岸からの侵入に対しての防御がどうなっているのかは、ここからでは分からない。当時は土塁や切岸があったのかも知れない。とはいえこの城の規模で、井伊氏を家臣に加えた徳川家康の攻撃を2-3ヶ月も持ちこたえられるわけもなく、家康は一度佐久城を攻めたあとすぐ今川の曳馬城(のちの浜松城)を攻め落とし、一度三河へ帰り、出直して来た際に再度佐久城を攻めて落城させている。

※昼食「咲夢茶屋」

佐久城から10分弱、三ヶ日町佐久米さくめにある咲夢さくめ茶屋で昼食を取ることに。写真はナオの「茶屋御膳」。私は天ぷら定食にした。食事は普通に美味しかったが、静岡茶が上品で特に美味しかった。

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