2021年10月3日(日)快晴[1/2]
1.宇利城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 90m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 10m / 80m | ||
所要時間 | 5分 / 11分 |
指 定 | 愛知県指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、土塁、切岸、石垣 |
歴 史 | 三河の国衆・熊谷実長の城。徳川家康の祖父・松平清康と戦い敗北した。後に今川義元の城となり、家臣の近藤満用が入城した。 |
駐車場 | 宇利城跡駐車場 – Google マップ(約10台) |
住 所 | 愛知県 新城市 中宇利坂 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
1-①駐車場
東名高速 豊川ICから車で約20分、県道81号線の中宇利交差点左奥に専用駐車場がある。「宇利城跡駐車場」の大きな看板が見やすい位置に立っている。
緊急事態宣言が明けたので、私・ケンは、ライフワークである城旅(お城巡りの旅)を再開することにした。お城にはほとんど興味はないが、出かけることと歩くことと、何より食べることの大好きな妻・ナオを連れ、月1~2回のペースで出かけられたら良いなぁと考えている。
そして、これを機にブログを始めることにした。備忘録にもなるし、写真を並べたり城の歴史を調べたりすることで新たな発見もある。
宇利城までの案内看板。県道沿いの専用駐車場といい、ウエルカム度の高い山城だ。
1-②登城口
矢印看板の通りに進んでいくと、5~6分で登城口に到達する。
登城口に立つ説明看板。
登城口からの歩きやすい道のり。
宇利の戦いで戦死した、松平清康の叔父・右京亮の墓。
姫御殿跡(二の丸)
左の方に「石垣あり」の標識があったので見に行った。見たところ、積み上げた石垣ではなく天然の岩石を削った様な感じ。
1-③主郭部
登城口から10分強で、本丸に到着。
本丸の説明看板。
2.柿本城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 70m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 10m / 60m | ||
所要時間 | 3分 / 8分 |
指 定 | 新城市指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、堀切、土塁 |
歴 史 | 遠江の井伊氏の一門衆・鈴木重時の城。遠州都田城の菅沼、宇利城の近藤と並び称し、井伊谷3人衆と言われている。 |
駐車場 | 道の駅 鳳来三河三石 – Google マップ (43台) |
住 所 | 愛知県 新城市 下吉田田中106-1 |
トイレ | 道の駅@鳳来三河三石 |
2-①駐車場(道の駅)
宇利城跡駐車場から県道81を東へ走ること約20分。道の駅@鳳来三河三石に到着。
2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」にも出演していた井伊谷三人衆。とはいえメジャーなエピソードもあまり無さそうだし、顔出しパネルを設置するにはキャラが弱い気がする。
登城の前に、道の駅でくるみ入り味噌だれの三石五平もちを食す。甘すぎず濃すぎず、味噌が苦手なナオも舌鼓。
道の駅のすぐ右手に、のぼりと矢印看板がある。
満光寺の庭園に登城口があるので、まずは満光寺へ。
2-②登城口
いくつかの矢印看板を進むと、登城口が見えてきた。鳥居をくぐると登城道である。
10分弱登ったところで、主郭部を守る柵と盾が見えてきた。戦国時代の雰囲気を醸し出している。
2-③主郭部
冠木門
柿本城址の本丸。
3.長篠城
形 態 | 平城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | - | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆--- |
指 定 | 国指定史跡、日本100名城 |
遺 構 | 曲輪、空堀、土塁、石垣 |
歴 史 | 三河の国衆・長篠菅沼氏の城。武田と徳川の奪い合いの末、元亀4年(1573年)に徳川家康勢が攻め落とした。その際、当主・正貞が武田方に逃げた為、奥平信昌が入城した。 |
駐車場 | 長篠城址史跡保存館 – Google マップ (30台) |
住 所 | 愛知県 新城市 長篠 市場22-1 |
トイレ | 長篠城址史跡保存館 |
3-①駐車場(資料館)
道の駅@三河三石から約15分。鳥居 強右衛門の看板が目印。
長篠城址の手前に史跡保存館がある。
長篠・設楽原の戦い時の3氏の領地略図。面積だけなら武田軍と織田徳川連合軍は互角かと見間違うが、石高は武田133万石に対し、織田405万石+徳川48万石。山ばかりの信濃と違って豊かな尾張と近江を有する織田が、圧倒的に強大で有利だ。
3-②主郭部
帯曲輪(二の丸)と本丸を分断する内堀と、本丸の土塁。
長篠城は、川に囲まれた天然の要害。
長篠城城主・菅沼正貞は、表向きは武田方であったが、徳川家康に内通していた。しかし元亀4年(1573年)の戦いで長篠城が徳川方に攻め落とされた(させた)際、正貞は徳川方に合流することなく武田方へ逃げたのである。徳川方に合流したいのは山々だが、裏切りがばれれば武田に人質に取られている妻子は間違いなく殺されてしまう。妻子の命を救うにはそれしか手が無かった。
その結果、武田方に内通を疑われて投獄され、9年間の獄中生活を送った後、武田家滅亡のどさくさに殺されてしまった。悲惨な最期を遂げた正貞だが、武田家滅亡後、武田の人質となっていた妻子は徳川家康へ出仕し、その子は長篠菅沼家の当主として長篠城城主に返り咲くことが出来た。徳川と武田の狭間で出した正貞の決断は、長篠菅沼家を最後は勝利に導いたのだった。
土塁の上から見る本丸。
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