【北摂+山城の城】戦国期の三好政権時、日本の中心だった芥川山城へ登る

横矢掛かりの虎口(勝龍寺城址) 畿内近国
横矢掛かりの虎口(勝龍寺城址)
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2022年1月9日(日)晴れ[2/2]

2.山崎城

形 態山城址難易度★★---
比 高240m整備度☆☆☆--
蟲獣類スズメ蜂
猪、猿、熊
見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ60m  /  180m
所要時間10分  /  35分
指 定
遺 構曲輪、天守台、櫓台、土塁、井戸、竪堀
歴 史 細川高国の重臣で摂津の守護代・薬師寺国長が城主を務めていた。その後、細川晴元 →三好長慶 → 織田信長と支配者が替わり、本能寺の変後の「山崎の戦い」で明智光秀に勝利した羽柴秀吉が入城し、大阪城が完成するまでの1年間、秀吉はここを拠点とした。
駐車場タイムズJR山崎駅前 – Google マップ(53台)
住 所京都府 乙訓郡 大山崎町 字大山崎 小字竜光14
トイレ宝積寺の駐車場に観光トイレ有り

2-①駐車場~

タイムズJR山崎駅前駐車場に車を停め、踏切を渡る。

踏切を渡るとすぐ「天王山登り口」の石柱があるが、しばらく舗装道が続く。

登り坂を道なりに歩くこと10分、宝積寺に到着。階段上って左手にある寺務所で「登頂証明書」なるものが売っている。@100円なので記念に1枚購入した。

2-②登城口~

階段上って右手に登城口がある。

酒解さかとけ神社の鳥居

旗立松展望台の写真には淀城と伏見城の場所が記されている。今は高い建物の陰で見えないが、お城があった当時はここからよく見えたことだろう。

展望台の名前となっている「旗立松」の由来は、山崎の戦いの際、羽柴秀吉が天王山に登り、ここにあった松の木に自分の馬印を括り付け、高く掲げて麓からも見える様にすることで味方の士気を上げたというエピソードから付けられている。

中央に見える水面が桂川。その向こうのビルの陰に、淀城がある。

山崎の戦い(天王山の戦い)が描かれている。

2-③本丸

本丸虎口

山崎城の本丸

天守台。かつては天守があったという。秀吉が大阪城へ移る際、破却した。

3.勝龍寺城

形 態平城址難易度-----
比 高整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆--
指 定
遺 構土塁、空堀、石垣、土橋
歴 史 三好三人衆・石成友通の城。永禄11年(1568年)上洛した織田軍と戦い破れた。以降、織田信長の領土となり、元亀2年(1571年)足利義昭が信長により追放されると、織田家臣となった細川藤孝が入城した。
駐車場勝竜寺城公園 駐車場 – Google マップ
住 所京都府 長岡京市 勝龍寺13-1
トイレ勝竜寺城公園内

勝龍寺しょうりゅうじ城本丸の西側にある沼田丸に駐車場がある。

3-①本丸

本丸に建つ模擬櫓。公園の管理棟となっており、史料展示室もある。

勝龍寺城は、小畑川と犬川が合流する三角地に作られた平城で、室町幕府を開いた足利尊氏の時代に細川氏によって作られたと言われるが詳細は不明。当時は規模の小さい砦だったようだ。戦国期には三好氏の領土となり、三好三人衆・石成いわなり友通ともみちにより改修された。その後織田信長の支配下に入り、細川藤孝が城主の時に、二重堀のより堅固な城へと改修された。

模擬櫓を東から見る。青い旗は明智家の「桔梗紋」、白い旗は足利家の「引両紋」、紫の旗は細川家の「九曜紋」。

塀の中は公園となっている。

忠興と玉(ガラシャ)夫妻の銅像。戦国時代で有名な夫婦の一組。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際、石田三成の人質になる前に自ら命を絶つというガラシャの決断は、おそらく徳川方を大きく勝利へ後押ししたであろう。謀反人・明智光秀の娘というビハインドをはねのけ、関ヶ原の戦いの英雄の一人と言っても過言ではない栄誉を持って、後生に名を残した。

土塁隅櫓跡

野面積みの石垣。当時の石垣の上に石垣を追加し、再建されている。

ここに天守があった可能性があるとの事。

西辺土塁から本丸を見る。

西辺土塁から北門・枡形虎口跡を見る

羽柴秀吉方は、堀尾吉晴、堀秀政、北摂衆(中川清秀&高山右近)、池田親子(池田恒興&元助)、皆有名人なのに対し、明智光秀方は、伊勢、諏訪、御牧などの旧幕府衆で、ほとんど名前が知られていない。勝つとは負けるとは、そういうことなのだなと思う。実質的には羽柴秀吉vs明智光秀で間違いないのだが、建前上は織田信孝vs明智光秀である。総大将・織田信孝が、羽柴秀吉と丹羽長秀に指示を出し、山崎の戦いは行われた。

山崎の戦いの際、細川藤孝は中立を保ち、上司で親友だった明智光秀の要請を断って丹後田辺城へ隠遁していた。戦いに敗れた光秀は、勝龍寺城に一旦入り、夜のうちに近江の坂本城へ向かって出発したのだが、道中の山科で農民の落ち武者狩りに遭い、命を落とした。農民といっても甲冑をまとい槍刀を持った完全武装兵100人からの手勢であることが一般的だったようなので、光秀の一行がこの時何人いたのかは分からないが、勝ち目は無かったのだろう。

沼田丸の堀は発掘調査後埋め戻されているが、場所が分かるようにうっすらと溝を残している。

3-②大手口

勝龍寺城本丸から北東へ150mほどの所に神足こうたり公園があり、その手前に大手口の土塁と空堀がある。

勝龍寺城の大手口、土橋・空堀・土塁は、横矢掛かりの虎口と言われる防御設備になっている。土塁の上も歩いて見学出来るよう、柵付きで整備されている。

4.淀城

形 態平城址難易度-----
比 高整備度☆----
蟲獣類見応度☆----
指 定
遺 構曲輪、天守台、堀、石垣
歴 史 江戸時代初期の元和9年(1623年)に、伏見城を廃城とし、代わりに建てられた。二条城の天守と伏見城の資材をリユースしたと言われる。豊臣秀吉が茶々のために建てた淀城は、ここから北へ500mほどの所にあり、淀古城と言われている。
駐車場コンセプト 淀城南パーキング – Google マップ
住 所京都府 京都市伏見区 淀本町
トイレ最寄りのコンビニ

南の帯曲輪跡からよど城の天守台を見る。右の高架は京阪電車。少し先に淀駅がある。

天守台の西側に本丸の石垣が続いている。

東の方へ回り込むと、入り口がある。

淀城があった当時は、ここは桂川・宇治川・木津川の3つの川が合流し、淀川が生まれる場所であったが、今は宇治川と木津川のルートを変えて埋め立てられている。

天守台

本丸から天守台を見る。

本丸の北西にある丹波櫓跡。その向こうに二の丸がある。

二の丸から丹波櫓跡を見る。

池の前に並べられた単体の石垣に、石を真っ直ぐ割るために付ける矢穴の加工跡がある。二の丸や西の丸を解体した際の石垣の一部だろうか?

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