3.百済寺
宗 派 | 天台宗 |
寺 格 | - |
寺 内 | 国の史跡:境内、国の重要文化財:十一面観音、本堂等 |
歴 史 | 606年に推古天皇が創建し、聖徳太子により開基されたと伝わるが、文亀3年(1503年)の六角高頼と伊庭貞隆の争いで、仏像・寺宝・記録類のほとんどが焼失した。 |
駐車場 | 百済寺 駐車場 – Google マップ |
住 所 | 滋賀県 東近江市 百済寺町323 |
訪問日 | 2023年12月10日(日)快晴 |
3-①本坊庭園・喜見院
道の駅@東近江市あいとうマーガレットステーションに寄ってから来たので50分ほどかかったが、勝楽寺城からだと20分強のところにある百済寺。
通用門。
南庭にある受付で入山料を払い、城郭寺院・百済寺の御城印を購入した。
南庭にある不動堂。
不動堂を左へ行くと本坊庭園がある。
本坊庭園と本坊喜見院。2017年公開の映画「関ヶ原」の撮影で、石田三成(演:岡田准一)の屋敷として使用された。
弥勒半跏石像。平成12年(2000年)にミレニアム記念として建立された。
3-②仁王門
表参道の石段。本坊庭園の上から入ったので仁王門まであと50~60mほどだが、表参道はここから500mほど下にある赤門から続いている。
仁王門と紅葉(少し時期は過ぎたけど)。
仁王門の中には仁王がいる。
門の外側に掛けられている約2.5mの大草鞋。
仁王門を入った先にある観音杉。
3-③本堂
本堂。NHK連続テレビ小説「ブギウギ」の収録に使用された。濡れ縁の上での撮影中、支柱が折れて縁の板が外れるというアクシデントが起きた。本堂の中も見学出来たが、中は撮影禁止だった。
樹齢1,000年の菩提樹。説明板に「天正元年4月7日に織田信長の焼き討ちにあい、」と書かれている。天正元年(1573年)4月といえば、5年前の観音寺城の戦いで信長に敗れて拠点を甲賀郡へ移しゲリラ戦を展開していた六角親子(義賢-義治)が、六角氏の再興を願う鯰江貞景の鯰江城へ入り、織田軍と戦っている。百済寺のある愛知郡は鯰江氏の領地なので、百済寺は六角氏や鯰江氏を支援し、そのため織田軍の制裁にあったのだろう。
織田軍による兵火でこの菩提樹は幹まで焼け落ちたが、根は無事だった。焼けた幹の周囲から再び芽吹き、今の姿になっている。樹齢千年の菩提樹は、さながら千手観音のようだ。
鐘楼。昭和30年(1955年)に鋳造された3代目の梵鐘で、美しい音色と余韻の長さから「昭和の名鐘」と呼ばれている。誰でも突いて良いとのことなので、ナオも突いてみる。
4.佐久良城
形 態 | 平山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 40m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | 蛇、蜂、猪 | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 40m | ||
所要時間 | - / 5~8分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、土塁、水の手 |
歴 史 | 近江の国衆・小倉氏の城。戦国初期の小倉実澄の頃に隆盛を迎えた。その後内乱で衰退し、蒲生定秀の三男・実隆が養子に入り、小倉氏は蒲生氏に取り込まれた。 |
駐車場 | 八幡神社 – Google マップ 八幡神社へ入る道の手前に駐車場あり |
住 所 | 滋賀県 蒲生郡 日野町 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2023年12月10日(日)快晴 |
4-①駐車場・登城口
百済寺から佐久良城までは20分強。佐久良城は、近江国蒲生郡の国衆・小倉氏の居城といわれている。蒲生郡といえば織豊系大名・蒲生氏郷を輩出した蒲生氏が有名だが、もうひとつの有力国衆として小倉氏がいた。
案内板にある佐久良城のイメージ図を見ても分かるように、佐久良城は城郭屋敷になっている。古文書にも「小倉氏の住居」と書かれているそうだ。小倉氏は普段はここに住み、有事の際はここから東へ1km弱のところにある比高90mの山城・長寸城に入った。
案内板の前のスペースが駐車場になっている。
駐車場の右の舗装道を登るとすぐ登城口がある。舗装道を道なりに左へ行けばトイレも完備されている。
今まで山城を歩いてきた傾向として、竹林のある山は他の草木が生えにくいのか、歩きやすい。
「←登城口」の看板。さっきのは登城口じゃなかったのか。
4-②三の丸~二の丸
順路は左を真っ直ぐだが、「曲輪→」の看板があるので右へ入ってみる。
「曲輪跡」の看板が立っているが、足を踏み入れれる雰囲気ではない。順路に戻る。
順路の右側に人工的な凹凸があるが、城郭遺構かどうかは分からない。
順路が横堀になった。左の鉄格子の外に土塁がある。右の大きく盛り上がっている丘陵は曲輪だろう。
順路から見る三の丸。
順路から見る二重堀切-1つ目。
同じく二重堀切-2つ目。
順路は、この坂を登って二の丸に入るようになっているが、当時ここは切岸だったと考えられる。そうでないと二重堀切が意味を成さない。江戸期には村の祭事を催す広場としてこの城の本丸を使用していたということなので、その時に通行しやすいように工事したのだろう。
二の丸。
二の丸と本丸を連絡する土橋。
土橋の両脇は堀切になっている。
4-③本丸~水の手
本丸大手虎口。本丸の周囲は土塁で囲われており、順路はその土塁の上を時計回りに進むようになっている。
土塁の内側にある本丸。草木が生い茂り奥まで見渡せないが、縄張り図から計算した曲輪の広さは1,600~1,800㎡あるので、ちょうど1,000畳くらいだろう。「千畳敷」というと、広い曲輪の代名詞としてよく使われる。千畳の本丸は、小倉氏の権力の大きさを物語っている。
土塁の上を歩く。
搦手門跡。土塁が途切れて凹になっているところが虎口になっており、その上に搦手門(裏門)があった。
土塁から降りて、西側の水の手を見に行く。
水の手「お馬洗いの池」。馬を洗えるほど豊富な水が出ていることから命名されたという。
5.鳥居平城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | 20m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | 10m / 10m | ||
所要時間 | 2分 / 1分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、切岸 |
歴 史 | 近江国の国衆・小倉氏の家臣団の城郭屋敷跡。戦国初期に一族の権力争いが起き、宗家は佐久良城に、庶家は鳥居平城に入り戦った。その後、蒲生定秀の三男・実隆が養子に入り、小倉氏は蒲生氏に取り込まれた。 |
駐車場 | 鳥居平公民館 – Google マップ |
住 所 | 滋賀県 蒲生郡日野町 鳥居平170 |
トイレ | 佐久良城のトイレ |
訪問日 | 2023年12月10日(日)快晴 |
5-①駐車場~鳥居平城
佐久良城から7・8分。鳥居平公民館の駐車場に車を停めさせていただき、鳥居平城へ。
登城口。
当時から使われた道か、後世に切岸を削って造られた新道かは分からない。
登城口からあっという間に曲輪に到着。
鳥居平城の案内板。ここは小倉氏の家臣団の城郭屋敷だったようだ。
小倉氏は佐々木氏と同じく鎌倉初期に近江にやってきたという。湖東3郡(愛知郡・神崎郡・蒲生郡)に勢力を持ち、戦国初期の小倉実澄の代に最盛期を迎えたが、その後起きた内乱により弱体化した。小倉宗家は佐久良城に、庶家は鳥居平城に入って戦ったという。
その後、小倉氏は同じ蒲生郡を拠点とする蒲生定秀の三男・実隆を養子に迎え、蒲生氏に取り込まれた。
虎口から向かって左(西側)。
虎口から向かって右(東側)。ここも千畳はありそうだ。
曲輪の東側の土塁。
土塁の外は切岸になっている。落差は10mはあるだろう。単郭の独立した曲輪だ。
5-②その他の曲輪
鳥居平城は独立した曲輪の集合体なので、隣の曲輪へ行くには一度下まで降りないといけない。
竹を頼りに切岸を登る。
虎口。
曲輪。周囲を土塁が囲み、切岸で侵入を防いでいる。
もう少し先まで行ってみたが、この様な独立した曲輪が続いていた。切岸 → 虎口・土塁 → 曲輪 の繰り返し。戦闘用設備である「お城」は、守りながらも侵入しようとする敵兵を迎撃するための仕掛けがあるものなのだが、鳥居平城は居住空間を防御するのみの城郭屋敷跡なので、少し物足りない感じがある。
民家の蔵などに眠る文書から新たな発見が出てくることはこれからもあると思うので、佐久良城や鳥居平城の小倉氏に関する新発見に期待したい。
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