【丹後:宮津&京丹後の城】天橋立を臨む一色義定ゆかりの弓木城など、京都北部の城々を巡る

宮津八幡山城から見る天橋立 畿内近国
宮津八幡山城から見る天橋立
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※道の駅@丹後王国「食のみやこ」

道の駅 丹後王国食のみやこ駐車場 – Google マップ

本日目的のお城はあと3基だが、その前にお昼ご飯。丹後半島の北側にある道の駅、丹後王国「食のみやこ」。

本場パリ仕込みのパン屋さん「カンパニオ」でテイクアウト。

3.吉原山城

形 態山城址難易度★----
比 高120m整備度☆----
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  40m
所要時間-  /  15分
指 定
遺 構曲輪、堀切、切岸、櫓台
歴 史 一色氏の一門衆・吉原義清の城。甥・一色義定の死後一色家を引き継ぎ“一色義清”と名乗り、細川忠興と戦った。そして敗北したことで、一色氏の最期の当主となった。
駐車場善明砦跡 – Google マップ
住 所京都府 京丹後市 峰山町吉原82
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2023年3月19日(日)快晴

3-①登城口+京極家陣屋跡

丹後王国「食のみやこ」から約20分(弓木城から直行だと約30分)で吉原山城の登城口に到着。この舗装道900mの道のりを車のまま上って行く。

この登城口の右手の歩道を上った先は、京極家陣屋跡になっている。京極きょうごく家を再興させた京極3兄弟(高次たかつぐ竜子たつこ高知たかとも)の末弟・京極きょうごく高知たかともの居館跡である。

京極高知の陣屋跡。

3-②善明砦跡

登城口から車で上ること10分強で、善明砦下の駐車スペースに到着。林道とはいえたった900mの舗装道で10分以上もかかったのは、路面に土砂と落葉が堆積し、積雪のようになっていたからである。FF車ではタイヤが取られてスリップするため、慎重を要した。過去一怖い道だった。

ほぼ垂直にそそり立つ切岸。宮津八幡山城の主郭第一曲輪下の切岸や、弓木城の北側の切岸もそうだったが、ほぼ垂直にそそり立つ切岸は、一色氏のお家芸のようだ。

善明砦の広大な曲輪。長辺で約70mあるため、面積では恐らく千畳はある。これだけ広ければ、使用用途は砦ではないだろう。

3-③二の丸~三の丸

駐車場スペースから北にある本丸へ直接登るルートもあるようだが、舗装道から主郭部の北側を経由するルートを歩くことにした。こちらのほうが、より安全で確実なルートだ。

うねうねと続く舗装道を歩く。この階段の先に主郭部がある。

北腰曲輪。正面の切岸の上が本丸だが、向かって左にある三の丸東腰曲輪を経由しないと入れない。

a) 二の丸

向かって右には二の丸がある。

本丸と二の丸の間の大堀切

二の丸へ上がる。

二の丸から見る大堀切

二の丸は、吉原山城で最大の曲輪だ。千畳を軽く越える広さを持っている。

ここは一色氏の後に入城した細川興元(細川藤孝の次男)により造られた。二の丸から焼き米が出土したということなので、住居空間として使用していたのだろうか。

b) 三の丸

先ほどの北腰曲輪から帯曲輪を通って三の丸へ向かう。

三の丸。三の丸の中央は櫓台になっている。

櫓台に上ってみる。

3-④東腰曲輪~本丸

a) 東腰曲輪

三の丸を過ぎると東腰曲輪がある。ここには吉原山城最大の見所があるので、腰曲輪の先端に向かう。

高さ20mの切岸!!

といっても上から見下ろした写真だと全く分からないので、下へ降りてみる。

高さ20mの圧倒的切岸!!

堀切の先は、尾根に沿って曲輪が続いている。

b) 本丸

東腰曲輪へ戻り、本丸へ。

本丸には、金峰神社奥宮が建っている。

吉原山城は、一色氏の一門衆・吉原よしはら義清よしきよの城である。義清は一色義道よしみちの弟で、一色義定よしさだの叔父にあたる。一色宗家から養子に入り、吉原氏の名跡を継いだ。

丹後侵攻からの細川藤孝との和睦後、一色家当主・一色義定は織田信長の家臣となり、丹後東部(宮津から東)は細川氏が、丹後西部(丹後半島)は一色氏が支配を認められていた。そして織田家臣団の中で、細川氏とともに明智光秀軍団に所属していた。

そのため、天正10年(1582年)6月の本能寺の変に続く山崎の戦い(明智光秀vs羽柴秀吉)では、自然な流れで明智光秀に味方した。光秀の旧知の仲だった細川藤孝(48歳)は山崎の近くにある居城・勝龍寺城を捨て丹後田辺城へ籠って光秀の援軍要請を無視し続け、嫡男・細川忠興(19歳)は光秀の娘・玉姫(ガラシャ-19歳)を妻としていたがそれを勘当して丹後の山奥へ幽閉し、光秀にくみしない姿勢を見せたこととは対照的であり、これが運命を分けた。光秀が敗死し秀吉が勝利したことで、一色義定の立場は危うくなった。

天正10年(1582年)9月、細川忠興に呼び出された一色義定は、羽柴秀吉の命を受けた忠興により宮津城内で討たれた。そして、甥・一色義定の死を知った吉原義清は激怒し、“一色義清”と名乗り兵を挙げた。一色義清は宮津城へ攻め込んだものの、細川忠興の返り討ちに遭い、一色氏は滅亡した。

敗者の記録は残らないのが常であるが、一色義定の人柄についてわずかに窺い知れるエピソードがある。一色氏を滅ぼした細川忠興は弓木城の稲富祐直を降伏させ、義定の妻として人質に出していた妹の伊也いや姫(14歳)を取り戻した。しかし伊也姫は夫・義定の命が奪われたことを許せず、兄・忠興を殺そうとしたという。

4.奥吉原城

形 態山城址難易度★★---
比 高80m整備度☆☆---
蟲獣類見応度☆☆---
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ5m  /  75m
所要時間2分  /  15分
指 定
遺 構曲輪、土塁、堀切、竪堀
歴 史 一色氏の被官・小西石見守いわみのかみの城。天正10年(1582年)一色義定が細川忠興に謀殺され、吉原義清が兵を挙げた際、それに呼応して細川軍と戦った。落城後、奥吉原城は廃城となった。
駐車場禅定寺 – Google マップ
住 所京都府 京丹後市 峰山町小西472
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2023年3月19日(日)快晴

4-①駐車場~登城口

吉原山城から12~13分、禅定寺の駐車場に停めさせていただく。

駐車場にある奥吉原城の案内板直登ちょくとうコースとゆっくりコースがある。もちろん直登コースを行く。

案内板があるのでここを左へ曲がる。

駐車場から2分足らずで分岐点に到着。ゆっくりコースならこのまま道なりに行けばいいが、直登コースを選択する場合は左の山へ入っていくので、ここが登城口になる。

4-②登城口~主郭部

屋敷跡?。奥吉原城は、代々一色氏の被官が城主を務めた。最期の城主は小西石見守いわみのかみだと言われる。天正10年(1582年)の吉原義清の挙兵に呼応して細川忠興と戦い、落城した。

奥吉原城を目指し、斜面を登っていく。

曲輪の虎口か?

二重堀切の一つ目。

二重堀切の二つ目。

山の斜面に畝状竪堀が。

城の防衛設備の一つ一つは見れば分かるのだが、縄張り図を入手することが出来なかったため、全体の姿をイメージすることが出来ない。

土塁を越えた先も、堀切や土塁が技巧的に配置され、動線が旋回する。

主郭部へ登る。

二の丸?

この上が本丸。

本丸。案内板は禅定寺と登城口のものだけで、他に案内板等は無く、縄張り図も持っていないため結局良く分からなかった。どこの指定史跡にもなっておらず、本丸も荒れ放題に荒れているのは残念な限りだ。整備されていればこの奥吉原城は丹後を代表する名城に数えられていたかも知れない。

5.五箇城

形 態山城址難易度★----
比 高90m整備度☆☆☆--
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ25m  /  55m
所要時間5分  /  12分
指 定
遺 構曲輪、土塁、堀、切岸
歴 史一色氏の被官・山岡民部の城。天正10年(1582年)一色義定が細川忠興に謀殺され、吉原義清が兵を挙げた際、それに呼応して細川軍と戦った。落城後、五箇城は廃城となった。
駐車場ウッディいさなごの裏手の駐車スペース-Google マップ
住 所京都府 京丹後市 峰山町五箇44-1「峰山林業総合センターウッディいさなご」の裏手
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2023年3月19日(日)快晴

5-①駐車スペース~登城口

「ウッディいさなご」の裏手に回ると、舗装道が広いデッドスペースになっているエリアがあるのでそこに車を停めさせていただく。そしてこの道を上っていくと、慶徳院という仏教寺院に出る。

慶徳院を迂回して通り過ぎると反対側に、山へ登る階段がある。ここを登城口と考えて良いだろう。

5-②北曲輪群

現在地付きの縄張図を表示してみた。[標高90m]

この上は、北曲輪群の曲輪になる。縄張図によると、第八曲輪とされている。[標高110m]

第八曲輪から第五曲輪へ向かう。

第五曲輪には祠が建っている。[標高120m]

五箇城は尾根に沿って削平された曲輪を配置し、側面は切岸にするという典型的な山城なので、必然的に細長い曲輪ばかりで構成されている。この第五曲輪も短辺は10mほどだが長辺は70mある。

この切岸の上に第二曲輪がある。

5-③主郭部

第二曲輪。第五曲輪からの正規ルートが分からなかったので、右へ回り込んで切岸を無理矢理登った。[標高130m]

この上が本丸

西側の切岸は、20~30mはある。ここからは誰も侵入出来ないだろう。

いざ本丸へ。

本丸。[標高140m]

五箇城も奥吉原城と同様に、代々一色氏の被官が城主を務めた。最期の城主は山岡民部と言われている。天正10年(1582年)の吉原義清の挙兵に呼応して細川忠興と戦い、落城した。

眺望は良くない。連続竪堀や枡形虎口などの技巧的な防御設備もない。しかし五箇城は、本丸周囲の切岸は素晴らしく、写真では伝わりにくい中世城郭の優美さがある。中世のお城は“百聞は一見にしかず”だと思う。

<END>

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