【豊後:佐伯&臼杵の城】九州6ヶ国の太守・大友宗麟の臼杵城を始め、大分南部の城々を巡る

臼杵城址 九州
臼杵城址
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2.栂牟礼城

形 態山城址難易度★★★--
比 高210m整備度☆☆---
蟲獣類マムシ見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  60m
所要時間5分  /  35分
指 定佐伯市指定史跡
遺 構曲輪、堀切、畝状竪堀
歴 史大永7年(1527年)佐伯さいき惟治これはるは大友義鑑から謀叛を疑われ、臼杵長景軍2万で攻撃されたが栂牟礼城は落城しなかった。天正14年(1586年)島津義弘軍3万が豊後を侵攻した際、豊後各地の城は次々に落城していったが、栂牟礼城の佐伯惟定これさだは島津軍を撃退した。
駐車場栂牟礼城と小山田城の鞍部に駐車場あり。国道10号線と国道217号線の番匠交差点付近に、林道へ続く道がある。
住 所大分県 佐伯市 弥生 大字小田
トイレ駐車場にあり
訪問日2023年10月15日(日)晴れ

2-①駐車場~休憩施設

栂牟礼城の駐車場

佐伯さいき城から10分強で栂牟礼とがむれ城の麓を通過し、山の中腹にある駐車場へ向かったのだが、林道は荒れ放題に荒れており、丹後吉原山城に匹敵する怖い道だった。

栂牟礼城の案内板

栂牟礼とがむれ城の案内板。休憩施設を経由し、栂牟礼城へ行けるようだ。休憩施設からの道のりが何も書かれてないのと、栂牟礼城が山中のリゾートホテルみたいなイラストになっているのが気になるが・・・。

小山田城への道

向かって左へ行くと、栂牟礼城の支城・小山田こやまだ城へ通じる。

栂牟礼城へ向かう道

ターゲットはあくまで栂牟礼城なので、欲張らず目的地を目指す。

休憩施設の矢印看板

休憩施設への矢印看板。

休憩施設までの道のり

蜘蛛の巣を払いながら進む。

休憩施設

休憩施設(?)に出た。だが円形の曲輪は全周を木々に囲まれており、どこにも道が見えない。

矢印看板

そばにある矢印看板は、今来た道は「駐車場」、そのまま真っ直ぐで「栂牟礼城址」と指し示しているのだが。

道を見つけるナオ

ナオが木々のあいだに道とおぼしき空間を見つけた。

2-②尾根

栂牟礼城への道

草を掻き分け、至るところに張り巡らされた蜘蛛の巣を払いながら、少しづつ前へ進む。歴史資料館でプロジェクションマッピングの栂牟礼城を見たあとなので、整備の行き届いた城だと思っていた分、気持ちの落差が大きい。

栂牟礼城への道

少し道らしくなってきた。

時々ピンクリボンが木にくくられているので、正規ルートなのは確認できる。道の左右が低くなっており、尾根を歩いているようだ。

堀切

最初の堀切

栂牟礼城の縄張り図。城郭放浪記様の許可を得て掲載させていただく。

二重堀切-1つ目

虎ロープを頼りに、えぐい高低差の堀切を進む。

二重堀切

堀切の底。400年の歳月で削れ、堆積し、小さくなっていると思うが、それでも人の背丈以上ある。

尾根
二重堀切-2つ目

二重堀切-2つ目

尾根
堀切

さらに堀切。

尾根
竪堀

竪堀。標高が変わらない横移動の尾根道はここまでで、その先は急な登り坂になっている。

竪堀は尾根の上から南側へ向かって、深く刻まれている。

登坂
登坂

傾斜の急な尾根を登って行く。

2-③主郭部

a) 二の丸

斜面を登り切り、曲輪に出た。

二の丸

二の丸。堀切と登り尾根を踏破したので、あとは曲輪を進むだけ。

土橋?

土橋?

主郭曲輪群の真ん中あたり。あと半分。

b) 本丸

本丸段曲輪

本丸下の段曲輪

本丸下の堀切

最後の堀切

本丸の切岸

切岸に階段が付いている。

本丸。なぜか柑橘系の果実が散乱している。周辺にそんは木は無いので、誰かが持ち込んでばらまいたのだろうか??

本丸

戦国期に栂牟礼城が戦火にみまわれたのは2度。大永7年(1527年)には主君・大友義鑑よしあきに、天正14年(1586年)には薩摩の島津氏に攻められた。2万3万の大軍だったが、佐伯氏はいづれも撃退している。栂牟礼城の優秀さは、主郭部を取り囲む切岸にあるだろう。石垣の場合、従来の野面積みだと手足を掛けやすく登りやすいという欠点があるが、土の切岸だと登ろうとすると土が崩れるので、侵入は極めて困難になる。とすると傾斜のゆるやかな尾根から侵入することになるのだが、そこには何層もの堀切が待ち構えている。私とナオも、400年経って土砂の崩落と堆積でなだらかになっているだろう尾根だが、その堀切を通ってきて大変さを少しだけ体感してきた。

本丸上段の石垣

本丸上段の石垣。

本丸上段

本丸上段。天正14年(1586年)豊後の大友配下の城々は、薩摩の島津義弘率いる3万騎の軍勢に攻められた。城が次々と落とされていく中で、志賀しが親善ちかよし(20歳)の岡城と佐伯さいき惟定これさだ(17歳)の栂牟礼城は、これを撃退した。

佐伯氏は、天正6年(1578年)の耳川の戦いで、当主・佐伯惟真これかど(34歳?)とその父・佐伯惟教これのり(58歳?)親子が討死し、惟真これかどの子・惟定これさだ(9歳)が跡を継いでいた。主立った家臣たちもその時死んでいると考えると、惟定を支える家臣団は心許なく、たった8年で島津軍と互角以上に戦える軍事力を備えたとは考えにくい。ひとえに栂牟礼城のポテンシャルが凄かったということだろう。

栂牟礼城攻めを諦め撤退する島津軍を、佐伯惟定(17歳)は城から討って出て野戦で追撃し、完全勝利を収めた。

3.臼杵城

形 態海城址難易度-----
比 高13m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  13m
所要時間-  /  10~15分
指 定大分県指定史跡、続日本100名城
遺 構畳櫓、卯寅口門櫓、堀、石垣
歴 史 大友宗麟により臼杵湾に浮かぶ断崖絶壁の丹生にうじまに築かれた海城・丹生島城を前身とする。慶長5年(1600年)に稲葉貞通(一徹の子)が入部し、近世城郭・臼杵うすき城となった。
駐車場臼杵市観光交流プラザ – Google マップ
住 所大分県 臼杵市 臼杵100-2
トイレあり
訪問日2023年10月15日(日)晴れ

3-①臼杵城址

臼杵城

栂牟礼城から30~40分で、臼杵城に到着。

臼杵市の地図

臼杵城の正面にある臼杵市観光交流プラザの駐車場に車を停めさせていただき、御城印を購入するため中へ。

臼杵城の案内板

臼杵城の前身・丹生島にうじま城は、当時は海に浮かぶ島だった。

天文19年(1550年)大友義鎮よししげ(のちの宗麟そうりん)20歳のとき、重臣たちの謀反により父・大友義鑑よしあきが討たれた。その後も大友氏は重臣たちの謀反に見舞われる。天文22年(1553年)には一万田いちまだ宗像むなかた、服部が、弘治2年(1556年)には本庄、中村、小原おばらが謀反を起こした。謀反の原因は、若き当主・義鎮がフランシスコ=ザビエルにキリスト教の布教を許可したことによる宗教対立だったようだ。

人口8,000人で当時全国有数の城下町だった府内ふない(現大分市)を本拠地としていた大友義鎮だが、重臣たちの謀反による混乱を避けるため、人口2,000人の臼杵へ本拠地を移したという。そして永禄5年(1562年)義鎮32歳の時に丹生島にうじま城(臼杵城)を築城し、出家し休庵きゅうあん宗麟そうりんと名乗った。嫡子の義統よしむねはまだ4歳なので出家しても大友家の当主は務めており、ここから九州各地へ指令を発信し、統治を行っていた。

臼杵城

近世城郭・臼杵城。朝鮮出兵後大友氏は改易され、新たに入部してきた稲葉貞通により、丹生島城は臼杵城として改築された。右上の建物は畳櫓(現存)、中央の建物は大門櫓(復元)。

臼杵城

臼杵城の正面・古橋口

水堀

水堀。城の周囲は全て埋立地なので、ここは戦国期は海だった。

3-②鐙坂~大門櫓

櫓跡

城内へ入る。

案内板

臼杵城の案内板鐙坂あぶみざか

臼杵城案内板と鐙坂

鐙坂あぶみざかは、宗麟時代からのものだ。今は壁の崩落防止の工事を行っている。

鐙坂の説明板

鐙坂を上から見ると、その動線が鐙の形をしている。

中門櫓跡

中門櫓跡

畳櫓たたみやぐら(現存二重櫓)

大手門と二の丸の石垣
大手門

大門櫓(再建櫓門)

時鐘櫓跡

大門櫓を通る前に時鐘櫓跡を見学。櫓は無くなったが、鐘は再建されている。

昔は時間になると人が突きにきたそうだが、今は機械仕掛けの滑車を使って自動的に突いている。

3-③二の丸

二の丸

大門櫓を通って二の丸へ。

二の丸

二の丸には駐車場はないが、自家用車の乗り入れは可能になっている。散策者の邪魔にならない場所ならどこでも停めていいようだ。

二の丸
二の丸
大友宗麟のレリーフ

大友宗麟のレリーフ(復元)。本物は明治の彫刻家によって彫られたものだが、青銅ブロンズ製だったため太平洋戦争時に政府に献納され、今は残っていない。

フランキー砲

佛狼機フランキー(レプリカ)。天正4年(1576年)ポルトガルから大友宗麟に贈られた日本で初めての大砲。宗麟はこれを量産し、この城に配置した。天正14年(1586年)島津義弘軍3万に攻められた宗麟は、領民を全てこの城へ避難させ籠城し、そしてこのフランキー砲を使って島津軍を撃退した。日本で初めて大砲が使われた戦いだった。

二の丸広場

二の丸広場。

3-④本丸

二の丸広場

本丸の堀と石垣が見えてきた。

空堀

二の丸と本丸の間の空堀

空堀

反対側の空堀

本丸鉄門跡

鉄門くろがねもん

本丸
天守櫓跡

天守櫓跡。実は本丸は二の丸より低い位置にある。宗麟時代はここが二の丸で、今の二の丸が本丸だったという。

卯寅口門脇櫓

もうひとつの現存櫓、卯寅口門脇櫓うとのくちもんわきやぐら卯寅うとらと書いて“うとの”と読む。なぜ“うとの”なのかは解明されていない。当時はここは船付場で、海へ通じる門だった。

卯寅口門脇櫓
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