【長門×周防の城】中世と近世が融合した石垣の名城・萩城を始め、大内・毛利ゆかりの城々を歩く

錦帯橋と岩国城 西国
錦帯橋と岩国城
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4.岩国城

形 態山城址難易度-----
比 高200m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆☆
指 定日本100名城
遺 構曲輪、石垣、空堀
歴 史 毛利家一門の吉川広家の城。関ヶ原の戦いで西軍は敗北したが、東軍に与した吉川広家の尽力により、毛利本家は改易を免れた。しかし毛利家中では裏切り者のレッテルを貼られ、皆から嫌われた。
駐車場錦帯橋 下河原駐車場 – Google マップ
住 所山口県 岩国市 岩国1-5
トイレ吉香公園内
訪問日2022年5月28日-29日(土-日)晴れ

4-①駐車場

岩国城にアクセスする駐車場はいくつかあるのだが、岩国城錦帯橋のコラボ写真を撮るために下河原駐車場に停めた。

4-②錦帯橋

錦帯橋の上で岩国城を撮るユウ。

川底の石がくっきり見えるほど水が澄んでいる。

4-③吉香公園

吉香きっこう公園の噴水。吉香公園は、吉川広家の居館「土居」の跡地が公園化したもの。

こちらも噴水。

4-④ロープウェイ

15分毎に運行するロープウェイ。乗車時間は約3分。

ロープウェイ乗り場から岩国城までは左右2つのルートがあり、どちらも歩いて数分だ。右は南に面した城の正面を通る「南ルート」。左は城の裏手を通る「北ルート」。

4-⑤二の丸

南ルートを行く。

この石垣は、二の丸の石垣。

a) 城山案内図

b) 出丸

出丸跡

c) 大手門跡

大手門跡

d) 二の丸

大手門を入ったところが二の丸

二の丸から見る岩国城天守(再建)。天守の分類はよく分からない。岩国城は「外観復元天守」「復興天守」「模擬天守」の3通りの呼ばれ方をしている。築城当時の天守台とは違う場所に再建されているので、復興天守ではないことだけは確かだ。

4-⑥本丸

a) 再建天守

上の階が下の階より大きく張り出した建築法は、南蛮造なんばづくりと呼ばれている。国内で見られるのは岩国城と小倉城の2基だけ。

岩国城は、慶長7年(1602年)から慶長13年(1608年)の間に築かれ、元和元年(1615年)に一国一城令により廃城となった。周防の国は岩国城だけなので廃城にする必要は無かったのだが、毛利家中から「秀元様が長州櫛崎城を破却するのに吉川が破却しないのはおかしい」という声が挙がったため、秀元に忖度そんたくして廃城にしたと言われている。毛利秀元は毛利元就の四男・穂井田元清の子である。6歳の時に毛利輝元の養嗣子ようししとなるが、16歳の時に輝元に実子(秀就ひでなり)が生まれたため、養嗣子は解消された。しかしその後も輝元の名代みょうだいとして活動しているので、実質的に毛利家の当主であったと言っても過言では無いだろう。系譜としては、「14代:輝元」「15代:秀就」なので、その間の秀元はその名を刻まれることはなかったが、秀就が15代を継いだ後も“長府宰相ちょうふさいそう”と呼ばれ、権力を持っていた。

輝元も秀元も広家も毛利元就の孫でいとこ同士。元就の正室の子・吉川元春の子である広家と、元就の側室の子・穂井田元清の子である秀元では、広家の方がランクが上のように思えるが、秀元は輝元の養嗣子となった時点で当主側の人間となったため立場が上になった。兄弟でもいとこでも、当主と家臣がしっかり線引きされているのが、当然とはいえ面白い。

関ヶ原の戦い後、徳川家康は毛利輝元を改易し、吉川広家に毛利家を継がせて長門と周防の2ヶ国を治めさせようとしたが、広家は固辞し、毛利本家を残すことを家康に懇願した。これはひとえに、毛利元就の教育の賜物だろう。兄弟一族が一枚岩となって本家を支えることを、骨の髄まで教え込んだのだと思う。毛利家の強さの神髄を感じさせるエピソードである。

b) 天守台

築城当時の天守台。ここだと麓から見えにくいため、現在の場所に天守が再建されたとの事。

c) 東矢倉跡

東矢倉跡の石垣。

一国一城令で破却された際の石垣が散乱している。

d) 空堀

東矢倉と北の丸の間の空堀

e) 天守内部

天守入口の案内図。

天守最上階の床に、古い地図があった。岩国城のある横山を包み込むように流れる錦川は、岩国城の東側(写真奥方向)にあり、天然の水掘となっている。東から徳川に攻められた際は西の毛利本家を死守出来るよう、選定された縄張りだったのだろう。

天守最上階から見た城下町と錦川。

5.亀居城

形 態平山城址難易度-----
比 高40m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆--
指 定大竹市指定史跡
遺 構天守台、曲輪、石垣、土塁、堀切、井戸
歴 史 関ヶ原の戦い後、安芸へ移封された福島正則が、毛利氏の押さえとして周防と安芸の国境に建てた城。しかし広島城の支城としては立派過ぎる事が、改易の口実となった。
駐車場亀居城跡 – Google マップ(亀居城公園駐車場)
住 所広島県 大竹市 小方2-12
トイレ亀居公園内
訪問日2022年5月28日-29日(土-日)晴れ

岩国城から30分弱で、亀居城に到着。

5-①なしの丸&有の丸

なしの丸(奥)と有の丸(右手前)。曲輪のネーミングとしては変わっている。

こっちが有の丸。

福島正則は豊臣秀吉の子飼いの武将で、賤ヶ岳七本槍の一人。関ヶ原の戦いでは東軍の主力部隊として戦った。正則が岐阜城の織田秀信(信長の嫡孫)を打ち破ったことで石田三成の作戦が機能しなくなり、東軍勝利へと大きく傾いた。

5-②三の丸

三の丸の石垣。

三の丸

5-③二の丸

二の丸

5-④本丸

a) 本丸石垣

本丸の石垣

一周回ってみる。

b) 本丸虎口

本丸虎口。ここから本丸へ上る。

c) 本丸

本丸

d) 天守台

天守台。確かに広島城の支城としては立派過ぎる城だ。大阪城の豊臣秀頼と共に反旗を翻せば、徳川にとっては大きな脅威となっただろう。

5-⑤詰の丸

本丸の下にある詰の丸まかない所だったとの事だが、本丸より低い曲輪なのになぜ詰の丸と呼ばれているのかは不明。

※昼食「広島風お好み焼き」

お昼ご飯は広島の名店「みっちゃん総本店」でお好み焼き!!

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