3.一宮城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★--- |
比 高 | 120m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
蟲獣類 | 猪 | 見応度 | ☆☆☆☆- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 120m | ||
所要時間 | - / 20分 |
指 定 | 徳島県指定史跡、続日本100名城 |
遺 構 | 曲輪、石垣、竪堀 |
歴 史 | 三好之虎(実休)の家臣で一門衆の小笠原成助(一宮成助)の城。三好長慶の妹を妻としていた。 |
駐車場 | 一宮城跡 登山口 – Google マップ 登城口にあり(2~3台) |
住 所 | 徳島県 徳島市 一宮町 西丁 |
トイレ | 登城口にあり |
訪問日 | 2022年6月26日(日)晴れ |
勝瑞城から約30分で一宮城に到着。一宮城は阿波小笠原氏の城で、信濃小笠原氏を本家とする小笠原一族の一派だ。鎌倉時代に、征夷大将軍となった源頼朝に阿波の守護を命じられ、この地に来た。室町時代になると足利尊氏が征夷大将軍となり、細川氏が阿波守護としてやってきた。小笠原氏は細川氏と戦って敗れたため臣従し、後に台頭してきた三好氏にも臣従した。しかし武士としての血筋や歴史が明確な小笠原氏は、名門としての矜持を持ち続けていたに違いない。
3-①駐車場&登城口
一宮城の登城口。案内板、トイレ、杖、駐車場あり。登城口に必要なものは一通り揃っている。御城印や缶バッチの無人販売も行っている。
駐車場はここ。幅約2mの道路を挟んで登城口の向かいにある。切り株に注意して停める必要があるが、2台~3台は停められる。
駐車場の奥の太鼓橋(この角度だと塀に見えるが太鼓状のアーチ。斜めから撮るの忘れた><;)を渡った先に、一宮神社がある。鎌倉時代は阿波一宮だったので、その名残だろうか。天正13年(1585年)の羽柴秀吉による四国攻めの時、一宮城は長宗我部元親の領土だった。重臣・谷忠澄が守る5,000の兵に対し、羽柴秀長を総大将とする秀吉軍50,000の軍勢が攻めて来て、一宮神社を含むこの辺一体は焼け野原となった。
3-②一宮神社
江戸時代初期の承応2年(1653年)、阿波藩3代目藩主・蜂須賀光隆により一宮神社は再建された。
1回10円のおみくじ。値段もさることながら、古めかしいフォルムの自動販売機というのが感動もの。
3-③登城道
登城開始。
石階段が続く。
a) 倉庫跡
上って左にある最初の曲輪・倉庫跡。
b) 腰曲輪
明神丸の下にある腰曲輪。
c) 湧水
3-④才蔵丸
才蔵丸の虎口。
才蔵丸。
先へ進む。
3-⑤門跡
門跡。右へ行けば明神丸、左へ行けば本丸という要の曲輪。
明神丸の手前にある縄張り図。明神丸を無視して左の帯曲輪から本丸を目指すと、背後を明神丸の兵に攻められ、本丸の兵と挟み撃ちにされる仕組みだ。
3-⑥明神丸
明神丸。
3-⑦本丸
帯曲輪を通って本丸へ。
本丸の石垣。
本丸。
天正5年(1577年)一宮城城主・小笠原成助は、細川真之が土佐の長宗我部元親の力を借りて三好に反旗を翻したとき、同調して一緒に三好長治を討った。
当主不在となった阿波三好家は、長治の弟で十河家を継いでいた存保が同時に継いだ。小笠原成助は長宗我部元親を後ろ盾として三好の本城・勝瑞城を攻め、十河存保と争奪戦を繰り広げた。しかし三好一族のバックには羽柴秀吉がいたので思うように戦果は上がらず、苦し紛れに羽柴方に内応したため、長宗我部元親にそれを咎められて謀殺された。
小笠原成助が思い描いていた青写真は、阿波一国の国主に復帰することだったのではないだろうか? 源頼朝の命で阿波に来て300年。捲土重来は果たせなかった。
昼食「中華そば いのたに」
お昼ご飯は、一宮城と同じ徳島市にある徳島ラーメンの発祥の店・中華そば いのたに。
4.徳島城
形 態 | 平山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 60m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆☆ |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 60m | ||
所要時間 | - / 10分 |
指 定 | 国指定史跡、国の名勝、日本100名城 |
遺 構 | 曲輪、石垣、堀、庭園 |
歴 史 | 豊臣秀吉の股肱の家臣・蜂須賀正勝の嫡男、蜂須賀家政の城。25万石の徳島藩は、明治まで続いた。 |
駐車場 | ミニッツパーク24h 寺島本町東第8 – Google マップ |
住 所 | 徳島県 徳島市 幸町1-48 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2022年6月26日(日)晴れ |
徳島ラーメン・いのたにから約10分、一宮城からだと30分弱くらいか。徳島城の南側の線路向かいにあるコインパーキングに車を停め、陸橋口から徳島城へ入城する。
4-①表御殿跡
a) 舌石
線路の上の陸橋から、“舌石”と呼ばれる石垣が見えた。鉄砲狭間を備え、出窓のように突き出た屏風塀を支えるための石垣だ。珍しい遺構で、徳島城の名所となっている。
b) 鷲の門
陸橋口は裏口のようなものなので、まずは表玄関の鷲の門へ移動。
徳島城の表玄関・鷲の門。太平洋戦争の終戦間際の空襲で焼失し、平成元年に個人寄贈により復元された。
c) 黒門
内枡形虎口の先に、黒門(大手門)があった。
d) 徳島城博物館
城主の居館・表御殿跡に建つ徳島城博物館。
阿波藩藩祖・蜂須賀家政像。蜂須賀家政は、豊臣秀吉の股肱の家臣・蜂須賀正勝の嫡男。
4-②城山(徳島城)
a) 東登城口
東登城口。
b) 東二の丸
階段の途中にある東二の丸。山の頂上にある本丸が比高60mなのに対し東二の丸は比高40mだが、ここに三層三階の天守が建てられていたという。
c) 本丸石垣
天正期に造られた野面積みの石垣。
d) 本丸
本丸。御座敷、武具櫓、馬具櫓、弓櫓、火縄櫓などが建っていた。最も高い場所は城主の守る場所にするというのが戦国期の一般的な発想だと思うが、倉庫も置いてしまうというのは新感覚の縄張りだと思う。
e) 埋門
本丸北側にある埋門。この上に御座敷が建っており、床下通路からこの埋門を通って山を下れるようになっている。
f) 弓櫓跡
本丸の西側にある弓櫓跡。
西登城口へ向かって下っていく。
弓櫓の石垣。
g) 西二の丸
西二の丸。
h) 帳櫓跡
帳櫓跡。二の丸と三の丸の間にあり、二の丸より少し高い位置にある櫓。徳島城は本丸より低い曲輪(東二の丸)に天守があったり、本丸を倉庫のように使ったり、御座敷の下に埋門を造って忍者屋敷のような抜け道にしたり、この帳櫓といい奇想天外な縄張りが随所に見られる。
i) 西三の丸
西三の丸。
j) 西登城口
西登城口。東登城口から上って西登城口から下りたが、本来の大手道はこっち(西)だったようだ。東の道は当時は無かったのだろう。
山の中腹にある東二の丸に建っていた天守は「殿様は天守にいるはず」というバイアスを利用した時間稼ぎのニンジンなのかも知れない。有事には殿様は本丸で守られ、戦うための武器は全て本丸に揃っているので最大のパフォーマンスで敵を迎撃出来る。場合によっては殿様は埋門から北の麓へ逃げる。豊臣秀吉の軍師というと竹中半兵衛や黒田官兵衛の名が挙がりがちだが、本当の軍師は蜂須賀正勝であり、その嫡男の家政だったと思う。“天下の軍師”の本領発揮といったところか。
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