【駿河:静岡の城】“東海一の弓取り”今川義元の館跡に建てられた駿府城を始め、静岡の城々を巡る

発掘された駿府城の石垣 東海
発掘された駿府城の石垣
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3.駿府城

指 定
遺 構[遺構]石垣、堀 [再建]櫓、門
歴 史 今川氏館を前身とし、天正13年(1585年)天守を備えた近世城郭として、徳川家康が築城した。慶長15年(1610年)には、5重7階の層塔型天守が築かれた。
駐車場タイムズ静岡市民文化会館前駐車場 – Google マップ
住 所静岡県 静岡市葵区 駿府町2
トイレあり
訪問日2023年9月17日(日)晴れ

3-①三の丸

静岡浅間神社から約5分。草深橋交差点の信号の向こうに、三の丸の石垣が見える。石垣の手前の水堀もしっかり残っている。

最寄りのタイムズが満車で、たっぷり30分待った。あとで調べたところ、三の丸にある静岡市民文化会館でnissy(エイベックスの俳優兼歌手・西島隆弘)の10周年コンサートがあったので、多分それが混雑の原因だろう。

北御門橋石垣を渡ると、その先は二の丸になる。

二の丸と本丸は、駿府城公園として整備されている。駿府城の見どころは主に4つ。①天守台発掘調査現場、②坤櫓ひつじさるやぐら[再建]、③東御門ひがしごもん巽櫓たつみやぐら[再建]、④紅葉山もみじやま庭園。

3-②天守台発掘調査現場

まずは天守台へ向かう。

家康手植えのミカン。隠居後に駿府城に居た際、紀州から献上されたという。

徳川家康像。晩年の家康だろう。軍配ではなく鷹狩りの鷹を携えているところに平和を感じる。

この先が天守エリア。

発掘調査中の天守台

天守は、天正期と慶長期に2度建てられた。

今川期の遺構も発見されている。

2023年現在、駿府城は国の史跡どころか県や市の史跡にも指定されていないが、これだけの歴史的価値があれば、調査が完了した段階で国指定史跡になるのではないだろうか?

この辺りは、すべて慶長期の石垣。

矢穴の跡が残る石。

3-③坤櫓

二の丸の南西を守る坤櫓ひつじさるやぐら

二の丸の水堀は全周残っているが、本丸と三の丸は一部だけ残っている。篠山ささやま城のような全方位馬出はなく、専守防衛の城として築いたという。

3-④東御門と巽櫓

本丸の水堀

二の丸の東側にある東御門

二の丸側の門の外側。近世城郭の定番、枡形虎口になっている。

枡形虎口の外側。東御門橋を介して三の丸と連絡している。

東御門に併設されている巽櫓。二の丸の南東を守る。

巽櫓内にあるジオラマ。

石切場の風景。石垣用の石を切り出している様が良く分かる。

石垣造りの風景。常に危険と隣合わせの過酷な重労働だ。

竹千代手習いの間。幼少期の徳川家康が、臨済寺で太原たいげん崇孚すうふに師事していた時の部屋が再現されている。

3-⑤紅葉山庭園

紅葉山庭園は、4つの庭を中心に、四季折々の表情を持っている。

4.丸子城

形 態山城址難易度★★---
比 高110m整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆-
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  110m
所要時間3分  /  20分
指 定
遺 構曲輪、土塁、
歴 史 駿河西部を守る今川氏館の支城のひとつ。今川氏の被官・斉藤安元が築城し、城主は代々斉藤家が務めた。文明8年(1476年)の今川氏の家督争いで、北川殿と龍王丸(今川義元の父)が身を寄せた城としても知られている。永禄11年(1568年)に武田信玄が駿河へ侵攻すると、武田家重臣・山形昌景が城主となった。
駐車場匠宿臨時駐車場 – Google マップ
住 所静岡県 静岡市駿河区 丸子
トイレ駐車場にあり
訪問日2023年9月17日(日)晴れ

4-①駐車場~

駿府城から20分弱で匠宿の駐車場に到着。

丸子まりこ城の案内板

駿府の工房 匠宿」は国内最大級の伝統工芸体験施設で、今川・徳川時代からの工芸(駿河竹千筋細工・和染・木工・漆・陶芸など)を体験出来る。

矢印看板に従って丸子まりこ城を目指す。

4-②登城口~

登城口

4-③外曲輪~北曲輪

丸子稲荷神社

丸子城の縄張り図。帯曲輪を蜘蛛の巣のように張り巡らせて曲輪と曲輪を連絡し、敵勢力のある西側には出曲輪(馬出うまだし)を備えた攻撃的な城だ。これは武田氏による縄張りで、城主には武田四天王のひとり・山県やまがた昌景まさかげが入っていた。

外曲輪。丸子城の東端にあり、最も広い曲輪。今川期は主要な曲輪だったと思うが、武田期には地形的にあまり重視されていなかったようだ。

土橋

渡りきって振り返った時のアングルが、土橋がよく分かる。

大手曲輪

北曲輪の虎口。左右の土塁がしっかり残っている。

北曲輪。今川期はここが本丸だったという。

文明8年(1476年)今川家第8代当主・今川義忠(40歳)が遠江で戦死すると、今川家の家臣たちは義忠の嫡子・龍王丸(5歳)を次期当主とする派と、武勇に優れていた義忠の従弟・小鹿おしか今川範満のりみつを擁立する派に分かれた。身の危険を感じた龍王丸の母・北川殿は、丸子まりこ城の斉藤氏を頼ってここに来たという。その後、小鹿派との戦に敗れた北川殿と龍王丸は、駿府に近い丸子を離れ、駿河西部の焼津まで逃れた。

長享元年(1487年)に龍王丸が16歳になると、北川殿は満を持して京都にいる弟・伊勢盛時(のちの早雲)を呼び寄せ、今川家を取り戻すべく小鹿今川範満に戦を仕掛けた。

その後の顛末については興国寺城【駿河:裾野&沼津の城】🔎で書いている。

これがきっかけで伊勢盛時は関東の戦国大名となる道へいざなわれ、その後の北条100年王国へと続いていく。歴史の歯車の色々なつながりを知ると、歴史はとても面白いと思う。

北曲輪の北側を守る土塁

北曲輪の北西にある横堀と土塁。横堀に兵を配置し、北曲輪の兵と二段攻撃で土塁の向こうの敵を叩く。

北曲輪の先。堀切と土橋

4-④二の丸~本丸

二の丸の虎口

二の丸

二の丸のビュースポットから見る丸子の町。

この先が本丸なのだが、大堀切が間を分断している。一度堀切へ降りてから本丸へ登った。

本丸から見る二の丸。

本丸の枡形虎口

本丸

本丸北側の土塁

本丸には4つの虎口がある。さっき入ってきた枡形虎口が1つ目。

2つ目は本丸の東側・平虎口。東段曲輪群に連絡している。

3つ目は本丸南側の虎口。帯曲輪というより犬走りか。こちらも東段曲輪群に連絡している。

4つ目は、本丸西側の喰違い虎口

少し分かり難いが、本丸より一段低いところに独立した出曲輪(馬出うまだしがある。先ほどの喰違い虎口に連絡している。

永禄11年(1568年)駿河へ侵攻した武田信玄は、今川家重臣達を調略し、ほとんど戦わずして駿河を手に入れた。今川氏真は遠江の掛川城へ退避したため、丸子城は武田方の攻撃拠点の城として改修された。

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