【相模×伊豆の城】小田原城、山中城、韮山城など、250万石・小田原北条氏ゆかりの城々を巡る

山中城の「障子堀」 関東
山中城の「障子堀」
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2.石垣山城

形 態山城址難易度-----
比 高30m(駐車場から)整備度☆☆☆☆-
蟲獣類マムシ見応度☆☆☆--
指 定国指定史跡、続日本100名城
遺 構曲輪、石垣、堀切
歴 史 天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原攻めの際に小田原城から3kmの山に築いた付城。3~4万人を動員し、わずか80日で完成させた。完成後に周囲の木々を伐採して小田原城からもよく見える様にし、一夜で山の上に城が出現したように思えたため、一夜城とも言う。
駐車場石垣山城跡 – Google マップ 無料駐車場(58台)
住 所神奈川県 小田原市 早川1383-12
トイレあり
訪問日2022年8月7日(日) 曇り 時々晴れ時々雨

2-①駐車場

石垣山城の登城口にある無料駐車場に車を停めた。小田原城 → 早川港 → 石垣山城は、それぞれ10分弱で行ける。小田原城→石垣山城も、20分あれば着くだろう。駐車場の奥にある「一夜城ヨロイヅカファーム」というスイーツ屋さんで御城印を売っている。

これだけ立派な城をわずか80日で完成させるために、3~4万人を動員したという。豊臣秀吉が日本の王だったことを物語っている。ただ、石垣を組むことで関東ローム層の防御力を無効にしており、枡形虎口も本丸に一つあるだけで、城としての戦闘能力は低いように思う。とはいえ魅せることを目的にしている城なので、問題はなかっただろう。

2-②登城口

南曲輪の石垣。石垣山城の石垣は、近江の石工集団“穴太あのう衆”により造られた。

左へ行くと本丸だが、真っ直ぐ進み、先に二の丸(馬屋曲輪)を見学する。

2-③二の丸

小屋の向こうにあるのが、二の丸の石垣。

下りてまた上る。

二の丸(馬屋曲輪)。

縄張り図には載ってないが、櫓台跡がある。

二の丸展望台から小田原城が見える。(現地では分からなかったが、後で写真を見て気づいた。)

2-④本丸

本丸の石垣。石垣が崩れたのは、大正の関東大震災の時だという。

本丸物見台から小田原城が見えた!(これは現地でも確認出来た。)

小田原攻めの布陣。長谷川秀一や羽柴秀勝の名前があるのが興味深い。

本丸の西側に天守台がある。

2-⑤曲輪群

本丸下の帯曲輪

帯曲輪の下にある南曲輪

西曲輪

3.伊豆 山中城

形 態山城址難易度-----
比 高540m(駐車場から10m)整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆☆☆
指 定国指定史跡、日本100名城
遺 構曲輪、障子堀
歴 史 小田原城の西を守る支城として、三代目・北条氏康が築いた。天正18年(1590年)の小田原攻めの際、羽柴秀次を大将とする豊臣軍の攻撃を受け、わずか半日で落城した。
駐車場山中城跡 – Google マップ 売店側と広場側の2ヶ所に無料駐車場あり
住 所静岡県 三島市 山中新田 下ノ沢
トイレ2ヶ所の駐車場にそれぞれあり
訪問日2022年8月7日(日) 曇り 時々晴れ時々雨

3-①駐車場

石垣山城から約40分、箱根峠を越えた先にある山中城に到着。

山中城は、東海道を取り込む形で造られており、道の左右に城域を持つ。車は広場側(主郭部)に停めたので、国道1号線(旧東海道)を歩いて横断し、売店側(副郭部)へ。

3-②岱崎出丸

a) 曲輪

名も無き曲輪。

b) 御馬場曲輪

名も無き曲輪の先にある御馬場曲輪

御馬場曲輪の先にある堀切。1ヶ所だけだが仕切りがあり、障子堀しょうじぼりになっている。

堀切の先にある曲輪で、今は休憩所になっている。豊臣軍の侵攻に備えて工事中の曲輪だったらしい。工事が間に合わず戦闘になり、落城後に廃城となったため、そのまま放置されたという。

c) 岱崎出丸

岱崎たいさき出丸

d) 一ノ堀

曲輪の隅の見張り台から奥を見ると、その下に一ノ堀と呼ばれる障子堀がある。

岱崎出丸を囲むように一ノ堀が続く。

出丸最先端の見張り台。

e) スリ鉢曲輪

スリ鉢曲輪。中央が凹んだ曲輪で、武者溜まりとして使用していたという。虎口は南にあるので、西から来た敵が一ノ堀に手こずっている間にここから出て敵の側面に回り、挟撃する仕掛けだろう。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉により小田原侵攻が行われた。岱崎たいさき出丸は、玉縄北条氏の家臣・間宮康俊(73歳)が200騎の兵で守っていた。(山中城全体では4,000騎。)間宮康俊は伊豆水軍を統括し、江戸湾の警備も担当していた武将だ。羽柴秀次を大将とする68,000騎の豊臣軍が攻めて来た際、間宮康俊はこの武者溜まりから出撃しては引くというヒットアンドアウェイで戦い、羽柴秀次の家老・一柳ひとつやなぎ直末を銃撃で討ち取るなどの戦果を上げたものの、衆寡しゅうか敵せず、秀次の力攻めにより2時間ほどで岱崎出丸は陥落した。

『一柳家記』では、黒田官兵衛が朝食中の豊臣秀吉に一柳伊豆守いずのかみ直末の訃報を伝えたとされている。「伊豆殿手負い候」と聞いた秀吉は口に入れたのもを吐き出し「手負いとは討ち死にか!?」と官兵衛に問い但し、死んだことが分かると膳の上に涙を落として泣いたという。直末は、美濃攻略戦で18歳の時に秀吉の家臣となって以来20年間、秀吉と共に最前線で戦い続けてきた宿臣なので、悲しみもひとしおだったのだろう。

3-③三の丸

広場側の主郭部へ向かう。

三の丸の堀。ここより右側が三の丸で、国道1号線沿いに歩くか、この先にある池を回り込むかすると行ける。宗閑寺というお寺と、北条方豊臣方それぞれの武将のお墓がある。

田尻の池。池を回り込んで右へ行けば三の丸、池の先から左上へ上る階段を行けば二の丸

池の途中で左へ行く道は西ノ丸

3-④西の丸

まずは西の丸と西櫓へ。

西の丸の障子堀。右の山が西の丸で、左の山が西櫓。

西櫓の周りの帯曲輪を歩きながら、障子堀を見学。

a) 西櫓

西櫓に上がってみた。

西櫓は馬出のようだ。現在は曲輪と堀の高低差があまりないから頑張ったら曲輪に侵入出来そうな気がするが、この再現イラストを見る限り無理っぽい。こんな城を攻め落とせるのかと思うのだが、羽柴秀次は17倍の兵力差で、ここも数時間で攻め落とした。

西櫓から障子堀を見る。

西櫓から西ノ丸を見る。西ノ丸が母体なので、ここより高い場所にある。当時はここに木橋が渡してあった。西櫓を支え切れない場合は兵を西ノ丸に回収したあと、その橋を崩落させたのだろう。

b) 西の丸

西の丸

西の丸の前方に物見台がある。

西の丸物見台

西の丸物見台から西櫓を見る。

物見台から西の丸を振り返る。

溜池

3-⑤北の丸

西の丸から北の丸へ連絡する帯曲輪

北の丸。本丸の次に重要だったと言われる曲輪。

北の丸の周囲は、深い堀になっている。

3-⑥本丸

本丸へ続く架橋

本丸の奥にある天守台。豊臣軍の小田原侵攻に際し北条家重臣・松田康長(53歳)は、自ら山中城で迎え討つことを進言し、城将を買って出た。秀吉の兵站力へいたんりょくでは物資の補給が長くもたないから長期戦になれば北条方が有利になるとの目算だったようだ。実際は秀吉の兵站力も軍事力も松田康長の想像を遙かに超えるもので、山中城はわずか半日で全ての曲輪が陥落した。あらかじめ逃がした者や、陥落前に康長の命で逃げ延びた者は数名いたが、北条方4,000騎のほとんどは討ち死にした。

本丸

本丸下にある弾薬庫・兵糧庫

3-⑦二の丸

二の丸

<to be continued👣>

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