1.地黄城
形 態 | 丸山城:山城址 地黄陣屋:平城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 丸山城:40m | 整備度 | ☆☆--- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆--- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 40m | ||
所要時間 | - / 7分 |
指 定 | - |
遺 構 | [丸山城]曲輪、堀切 [地黄陣屋]曲輪、石垣 |
歴 史 | 丸山城は、摂津の国衆で細川家家臣・能勢頼幸の城。頼幸の次男・頼次が当主の時、天正10年(1582年)の山崎の戦いで明智光秀に味方したため、敗走し領地を失った。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで徳川方として戦功を挙げ、旧領を回復。丸山城の近くに地黄陣屋を築き、能勢家を明治まで存続させた。 |
駐車場 | [丸山城]丸山城 – Google マップ(東登城口前) [地黄陣屋]地黄城跡 – Google マップ(本丸) |
住 所 | [丸山城/地黄陣屋]大阪府 豊能郡 能勢町 地黄1196/地黄905-3 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2022年9月11日(日)晴れ |
1-①摂津丸山城址
a) 駐車場&登城口
登城口前のスペースに車を停めた。ここは城の東側になる。登城口はいくつかあるようだが、車を停めるならここが良い。
ここが登城口。藪の中に、人が一人通れる位の空洞がある。この城は藪が枯れきった2月頃にくるべきだったか。ナオは車で待機し、私ひとりで上ることにした。
b) 登城道
藪を掻き分け急坂を上って行くと道らしくなってきたのだが、道の真ん中に獣の頭蓋骨が・・・。
右手に階段らしきものがあるが、藪で覆われている。
藪を両手で掻き分け、倒木をまたぎ、恐らく道があるであろう方向へ上って行く。
かろうじで道が見える。
c) 二の丸三の丸
曲輪に出た。所要時間は7~8分。比高40mで急坂のショートコースだった割に時間が掛かった。写真左半分の少し低い曲輪が三の丸。右半分の少し高い曲輪が二の丸。
三の丸。
二の丸。
d) 帯曲輪&大手道
二の丸の西側に帯曲輪がある。
帯曲輪の先は道が続いている。ここが大手道だ。
大手道は麓まで続いている。
下まで下りても仕方がないので、踵を返して元の場所へ戻ることに。
e) 二の丸帯曲輪
二の丸の東側にも帯曲輪がある。こちらは本丸へ続いている。
東側の帯曲輪から本丸へ上がる。
f) 本丸
本丸。
本丸北側の土塁。無類の土塁好きを自称する私としては、山城に来て一番テンションが上がる場所だ。
堀切。
狼煙台跡。
丸山城最大の見所、狼煙台北側の切岸。この先には天王丸と呼ばれる曲輪がある。天王丸はだいぶ低い場所にあるので、戦闘用の曲輪ではないのだろう。考えられるのは、①城主の住居、②倉庫、③非戦闘民のための安全地帯、といったところか。
1-②地黄陣屋
丸山城から車で1~2分。歩いても5~6分のところに地黄陣屋がある。丸山城を“地黄古城”、地黄陣屋を“地黄城”という呼びかたもされる。
本丸の虎口。
奥に見える建物は、旧能勢町立東中学校の校舎だ。2016年に西中学校へ吸収合併され、西中が「能勢中学校」と名前を変えて存続し、こちらの東中は廃校となっている。
天正10年(1582年)の本能寺の変の後、明智光秀は山崎の戦いにて羽柴秀吉と戦い、敗れた。能勢氏の当主・能勢頼次は、明智光秀に与したため、敗走しこの地を追われた。東方(光秀)が西方(秀吉)に敗れ、能勢氏がこの地から居なくなったというのが、東中の廃校と重なって思える。
本丸。中学校があったころは、ここも子供たちの遊び場だったのだろうか。
祠の南側に土塁がある。
地元の国衆・能勢氏の石碑。
2.池田城
形 態 | 平山城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | 20m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、堀、土塁、井戸、礎石、[再建]模擬櫓、門、木橋 等 |
歴 史 | 摂津の国衆・池田長正-勝正の城。管領・細川氏の被官だったが、三好氏の一門衆となり、三好長慶台頭後は三好氏に臣従した。永禄11年(1568年)足利義昭が上洛した際、織田信長により三好氏は畿内から追放され、摂津守護として和田惟政が入った。池田勝正と伊丹親興は本領を安堵され、和田を補佐する守護代的な立場に任じられた。和田、池田、伊丹の3人を総して「摂津三守護」と呼ぶ。 |
駐車場 | APM CAR PORT24 建石 – Google マップ |
住 所 | [駐車場]大阪府 池田市 建石町8-15 [池田城跡公園]大阪府 池田市 城山町3-20 |
トイレ | 池田城跡公園内 |
訪問日 | 2022年9月11日(日)晴れ |
2-①大手道~
地黄城から約30分。コインパーキングに車を停め、大手門の跡地へ来てみた。当時はこの辺に大手門があり、逸翁美術館の北西を通るこの細い路地が、池田城の大手道だった。
細い路地を上って行くと開けた。
a) 三の丸跡
この辺りは池田城の三の丸だった。今は宅地化されており、面影はない。
b) 二の丸跡
三の丸の先にある二の丸。今はマンションが建ち並ぶ住宅街。
c) 本丸大手道
二の丸の先に、池田城跡公園(本丸)への矢印看板がある。
当時もここが本丸へ続く大手道だった。
城跡公園の案内板。池田氏の歴史について書かれているが、細川氏と織田信長の家臣だったことの記載はあるが、三好氏の一門衆で三好本宗家・三好長慶に臣従していたことは何も書かれていない。信長に従属していたのは10年足らずで、その前の30年以上は三好氏方だったのだが。
池田氏といえば織田信長の家臣で乳兄弟の池田恒興が有名だが、恒興の父・池田恒利はこの摂津池田氏の庶流で、尾張へ移住して織田氏の家臣となった。
木橋が東門に繋がっており、ここから本丸(城跡公園)に入れる。当時の木橋はここではなくもっと南の虎口門の位置にあった。
2-②本丸
東門に続く木橋。
木橋から見る空堀。
東門。
a) 本丸空堀
東門をくぐり、右のほうにある北門から外へ出てさらに右へ回り込むと、木橋の下の空堀に出る。動物侵入防止の門があるので、入った後はロックを元の位置に掛ける。
木橋の下の空堀は、“空堀散策路”になっている。
木橋と東門。
虎口門のある場所。当時はここ(ナオの頭上)に木橋があった。
虎口門。
南門から再び城跡公園へ。
b) 城跡公園
南門。
南門の近くにある模擬櫓。
模擬櫓の2階へ。
本丸の礎石が見える。ここに本櫓か主殿が建っていたのだろう。
虎口門。門の周辺が再建されているが、先は切岸で木橋は架かっていないので出入りは出来ない。
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