【摂津の城】戦国下剋上の申し子・荒木村重の有岡城を始め、池田城や尼崎城など摂津西部の城々を歩く

池田城の模擬櫓 畿内近国
池田城の模擬櫓
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3.有岡城(伊丹城)

形 態平城址難易度-----
比 高整備度☆☆☆--
蟲獣類見応度☆☆---
指 定国指定史跡
遺 構曲輪、石垣、土塁、堀、井戸跡
歴 史 摂津の国衆・伊丹親興-忠親の城。下剋上により池田家を乗っ取った荒木村重により、天正2年(1574年)伊丹親興も滅ぼされた。子の忠親は浪人となり、本能寺の変後、羽柴秀吉に馬廻として仕えた。荒木村重は本拠地を伊丹城に移し、有岡城と改名し、総構のある城へと改修した。
駐車場タイムズ伊丹市立JR伊丹駅前駐車場 – Google マップ
住 所兵庫県 伊丹市 伊丹1-14
トイレ駐車場内
訪問日2022年9月11日(日)晴れ

3-①駐車場

池田城から渋滞込みで約30分。JR伊丹駅の北にある大型駐車場に車を停め、有岡城へ向かう。

3-②堀と石垣

有岡城の石垣

ここから本丸へ上る。

3-③主郭部

本丸。ここは摂津の国衆・伊丹いたみ親興ちかおきの伊丹城だったが、荒木村重が攻め落とした後「有岡城」に改名された。

礎石井戸跡

現存する石垣

石碑のような石が転用されている。

土塁

地図上の黒い線が総構そうがまえ、右側中央の伊丹駅の傍にあるのが有岡城だ。天正2年(1574年)荒木村重は伊丹親興を倒し、この地を手に入れた。それから天正6年(1578年)に村重が信長に反旗を翻し有岡城が戦場となるまでの間に、有岡城を改修し総構を完成させている。城域は南北に細長く、少しいびつな形をしており、東に主郭・有岡城、西南北にそれぞれ防御拠点となる櫓を持つ。その総構の形は琵琶湖を連想させ、東西南北4つの城と砦は琵琶湖4城をオマージュしているかのように思える。安土城が作られた時期と有岡城総構が作られた時期が同じということもある。もしそうだとしたら、それは荒木村重の信長へのリスペクトと考えられるし、その直後の謀反がことさら興味深い。総構を琵琶湖に例えるなら、有岡城のある東の位置は織田信長の安土城に比定する。西南北はそれぞれ、上臈塚じょうろうづか砦⇒打下うちおろし城(津田信澄)、鵯塚ひよどりづか砦⇒坂本城(明智光秀)、岸の砦⇒長浜城(羽柴秀吉)となる。ただし天正6年(1578年)に津田信澄は打下うちおろし城麓の琵琶湖湖畔に大溝城を築いて移った。

黒田官兵衛ゆかりの藤の木。天正6年(1578年)、謀反を起こした荒木村重の説得に向かった黒田官兵衛は、村重に捕まり有岡城内で投獄された。そして牢屋の窓の外に見える藤の花に希望を見、1年間の獄中生活を耐え忍んだ、という逸話による。しかし官兵衛が村重に捕らえられたのは事実だが、実のところ板間のちゃんとした部屋で軟禁状態だったようだ。

3-④岸の砦跡(猪名野神社)

有岡城の北西にある岸の砦跡(猪名野いなの神社)へ向かう。

有岡城から歩いて約10分で、猪名野神社に着いた。

猪名野神社の北側に、岸の砦の土塁がわずかに残る。当時の土塁はもっと高く、その上には柵や塀が設けられていたことだろう。

天正6年(1578年)荒木村重は従属していた織田信長に謀反を起こし、1年3ヶ月におよぶ“有岡城の戦い”が勃発した。荒木攻めの総大将を命じられたのは、織田家重臣・万見重元(仙千代)だった。しかし重元は、自ら総構そうがまえの塀を乗り越えようとした時、荒木方の兵に槍で突かれ命を落としたという。信長は、近衆から文官筆頭にまで出世した重元に武功も挙げさせ、織田家中の実力者へと成長させたかったのだと思う。残念ながら、万見重元はその期待に応えることなく、戦国史から姿を消した。

昼食「必死のパッチ製麺所」

昼ご飯は近くの「必死のパッチ製麺所」で、飛魚煮干しスープのラーメン。

4.富松城

形 態平城址難易度-----
比 高整備度☆☆☆--
蟲獣類見応度☆----
指 定尼崎市指定史跡
遺 構曲輪、土塁、水堀跡
歴 史 摂津の守護代・薬師寺元一-国長の城。細川京兆家に仕えた。永正元年(1507年)細川政元の3人の養子による家督争いで、薬師寺国長は細川高国に臣従し、高国が勝ち残ったため、父・元一と同じ守護代の地位に就いた。しかし大永7年(1527年)阿波から進軍してきた細川晴元に敗れた。三好長慶台頭後は三好氏の城となり、越水城の支城として機能した。
駐車場Dパーキング武庫之荘本町3丁目第1 – Google マップ
住 所兵庫県 尼崎市 武庫之荘本町3-6
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2022年9月11日(日)晴れ

有岡城から約20分、尼崎市の県道606号線と道意線どいせんの交差点に、富松とまつ城はある。街中にあって、藪に覆われた土の城は、まるでドラえもんの道具で遠い田舎の山城の一部が突如出現したかのようだ。

道路を隔てた北側のエリアも、富松城の一部。櫓があったようだ。

富松城は全周フェンスに囲われており、立ち入り禁止だ。遺構が損なわれないように保護されている。

南側のフェンス越しに残存土塁富松とまつ城は、細川高国と細川晴元の家督争いや、細川晴元と三好長慶の下剋上の戦いの舞台のひとつとなった。面白いのは、どちらの戦いも後者が父の無念を晴らすために前者にリベンジを挑んだ戦いとなっていることだ。細川晴元は父・澄元のかたき細川高国を、三好長慶は父・元長のかたき細川晴元を、それぞれ敗走させている。

5.尼崎城

形 態平城址難易度-----
比 高整備度☆☆☆☆☆
蟲獣類見応度☆☆☆--
指 定
遺 構[再建]天守、石垣
歴 史 三河の国衆で徳川家康の家臣・戸田氏鉄が、元和3年(1617年)に築城した。現在建っているのは外観復元の模擬天守で、当時の天守はここから南へ200mの尼崎市立明城小学校にあった。
駐車場尼崎城駐車場 – Google マップ
住 所兵庫県 尼崎市 北城内27
トイレ城内
訪問日2022年9月11日(日)晴れ

5-①外観復元天守

富松城から約20分、大阪湾3名城のひとつ「尼崎城」。

大阪の陣で豊臣氏が滅んだあと転封となった戸田氏鉄うじかねが、元和3年(1617年)に尼崎城を建てた。ここは西三之丸だった場所で、実際に天守が建っていた本丸はここから南へ約200mの場所(現・尼崎市立明城小学校)にあったので、この天守は“模擬天守”となる。しかし外観は当時のまま復元されている。

戦国期に荒木村重の城だった尼崎城は、ここから東へ約600mの場所(現・大物主神社)にあった。

4層4階の層塔型天守。

どの角度もかっこいい。2015年に完成したこの尼崎城は、旧ミドリ電化(現エディオングループ)の創業者が10億円超の私財を投じて建てたものだ。大人の事情により、当時と同じように本丸に建てることは出来なかったが、外観と大きさは再現されている。

5-②天守内部

雁木に塀に虎口。いい意味で、オブジェのように魅せる城だ。

写真左奥の薄緑色の屋根をした小学校の体育館辺りが、尼崎城本丸のあった場所だ。

体験型のコーナーが多いのは、新しい城ならでは。城に親しんで貰うためには良いアプローチだと思う。

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