2021年12月12日(日)晴れのち曇りのち晴れ[2/2]
4.根来寺
根来寺は、平安時代後期に高野山の僧・覚鑁により始まった。戦国期には72万石の寺領、450基の坊舎、1万人を超える根来衆と呼ばれる僧兵を擁した。石山合戦(織田信長と石山本願寺による10年間に及ぶ戦い)では途中から織田方についたものの、本能寺の変後の小牧長久手の戦いでは徳川家康&織田信雄に与し羽柴秀吉の岸和田城を攻めたため、その後の秀吉による紀州征伐へとつながった。
粉河寺駐車場から20分弱で到着。岩出市民族資料館向かいの無料駐車場に車を停め、資料館と根来寺を見学する。駐車場の奥に見える建屋がトイレだ。
駐車場向かいの岩出市民俗資料館
大伝法堂(国の重要文化財)。文政9年(1826年)に建立。ここ大伝法堂をはじめ根来寺のほとんどの建造物が、江戸時代に建立されたものになる。つまりは紀州征伐の際に、羽柴秀吉によって破壊されたからである。
大塔(国宝)。天文16年(1547年)に建立。根来寺において、隣の大師堂と共に紀州征伐の戦火を免れた貴重な建造物。天文16年は真田昌幸が生まれた年なので、隔世の感がある。
大師堂(国の重要文化財)。明徳2年(1391年)に建立。大塔よりさらに150年古い。この頃、京都にいた室町幕府の征夷大将軍は、アニメ「一休さん」の「将軍様」でおなじみの足利義満である。金閣寺を建てた事でも有名な人だ。
戦国武将にしろ一休さんの将軍様にしろ、そんな時代に建てられた建造物がそのまま残っているという事は、途方もなくすごいことだと思う。
5.岸和田城
指 定 | 大阪府指定史跡、国の名勝(本丸庭園) |
遺 構 | 石垣、堀 [再建造物]復興天守、櫓、門 |
歴 史 | 楠木正成の一族が岸和田に城を建てたという伝説があるが、確たる史料は無く、真偽は不明。戦国時代には、和泉守護の細川氏や、同じく守護代の松浦氏が城主を務めた。その後、羽柴秀吉の領地となり、羽柴一門衆・小出秀政により、岸和田城天守が建てられた。 |
駐車場 | 岸和田市役所 第4駐車場 – Google マップ |
住 所 | 大阪府 岸和田市 岸城町9-1 |
トイレ | 城内 |
5-①駐車場
根来寺から40分強、岸和田城に隣接する岸和田市役所第4駐車場に到着。
5-②岸和田城
岸和田城の天守は、復興天守に該当する。天守には「現存天守」「復元天守」「復興天守」「模擬天守」の4種類があるのだが、復興天守は「元々天守があったのと同じ場所に想像で建てられたもの」を言う。復元出来るだけの潤沢な史料があれば良いのだが、無い場合は全国の現存天守や現存櫓、他城の絵や写真などの史料を参考にし、「ウチの天守はこんなんだったんじゃないかな?」と想像して建てることになる。
大阪湾の水を巧みに利用した見事な縄張り。
よく都道府県のしばりで三名城とする呼び方がある。大阪近隣の近世城郭の三名城といえば、“大阪城”、“岸和田城”、“尼崎城”であるが、尼崎城は兵庫県なので「大阪三名城」とはくくれない。それなら大阪湾に面した自治体にある城ということで「大阪湾三名城」としてはどうか。
a) 大手櫓門
岸和田城の大手櫓門
枡形虎口を右へ進む。
b) 天守
岸和田城天守。現在の天守は三層三階だが、本来は五層の天守が築かれていたという。
c) 八陣の庭
「八陣の庭」と呼ばれる庭園。国指定名勝となっている。
八陣の庭を天守から見るとこんな感じ。
天守から大阪湾が見える。午後から曇りがちだった天気が、少し晴れてきた。
6.根福寺城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★--- |
比 高 | 100m | 整備度 | ☆---- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 100m | ||
所要時間 | - / 15分 |
指 定 | |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、石垣、切岸、横堀、畝上竪堀 |
歴 史 | 和泉細川氏の嫡流で和泉守護代となった松浦 守の野田山城が前身。松浦守の死後に根来寺領となり、根福寺城と改称された。 |
駐車場 | 秬谷大川のT字交差点の殿の墓 – Google マップに駐車スペースあり(約2台) |
住 所 | 大阪府 貝塚市 秬谷 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
6-①駐車スペース
秬谷・大川のT字交差点。この山が根福寺城となる。この写真には写っていないが、左手前に小さな墓地があり、車はその周辺のスペースに停める。乗用車で2台は停められるとの私見だが、Googleマップのストリートビューを見ると、5台も停まっていた。
根福寺城は西と東に2つの山頂を持ち、その地形を生かして西城曲輪群と東城曲輪群からなる連郭式曲輪で構成されている。
城主は和泉守護代の松浦守。全盛期には和泉一国を治め、岸和田城を本城とし、この野田山城を支城としていた。この人物はもともと細川有盛という名前で、和泉細川家の当主・細川元有の嫡子だった。10代のころに起きた“事件”により細川家を離れ、一時根来寺に入り、後に和泉細川氏家臣・松浦家を継いだと言われる。そして和泉細川氏の通り字『有』を捨て、松浦守と名乗った。それと同時に、松浦家は和泉守護代へ昇格した。和泉細川家は、(たぶん)弟の細川元常が継いだ。
天文17年(1548年)細川本宗家・細川晴元とその重臣・三好長慶が対立すると、松浦守は三好長慶方に付いた。それにより、晴元を支援する弟の細川元常とは敵対関係となり、三好長慶が天下を取ると、自動的に松浦守は和泉の支配者となっていた。
6-②登城口
東側の登城口から登る。
階段になっていて、手すりもある。
道なりに進む。
5分ほど歩くと、そのまま山の周囲を回る左ルートと山の尾根へ登る右ルートの分岐が出現するので、右の尾根に登る。左へ進むと東城の外周を回るだけで、東城に登ることが極めて困難になるので運命の分かれ道だ。
正規ルートの目印発見。赤いリボンが使われることが多いが、ここは緑色のテープだ。
二重堀切のうちの1つ。(もうひとつは写真撮り忘れた。)
6-③東城曲輪群
東城の東郭に到着。この上が東の山頂部「東城櫓台」になる。
この上。
東城櫓台。案外と狭い。
城として使っていた頃は木々は無く、見晴らしは良かったことだろう。これらの木々を伐採して城址としての見栄えを求めた場合、木々によって地形が保たれている部分もあるだろうから、足場が崩れたりして地形が変わる懸念もある。
東城櫓台の北側にある東城北郭1。ここから北へ曲輪が続く。
東城北郭2
根福寺城最大の曲輪、東城北郭3。石がゴロゴロと転がっている。礎石??
6-④屋敷曲輪
東城北郭3から西側の斜面を下ったところに、屋敷曲輪がある。
二段石垣跡。東城北郭3と屋敷曲輪の間の傾斜部に石垣が組まれている。恐らく屋敷曲輪への土砂崩れ防止が目的だろう。
6-⑤西城曲輪群
さらに1段下った曲輪から西城曲輪群へ行こうとしたが、竹の倒木により立ち入るスペースのない状態になっていた。本丸は西城にあるため見れないのは非常に残念だが、怪我しない事が最優先。ここで引き返すことにした。
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