【西播磨:赤穂の城】赤松氏の史跡が良好に遺る有年山城を始め、赤穂の城々を巡る

有年山城の本丸 畿内近国
有年山城の本丸
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3.鍋子城

形 態山城址難易度★----
比 高130m整備度☆☆☆--
蟲獣類見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  130m
所要時間5分  /  20~25分
指 定
遺 構曲輪、土塁、堀切
歴 史 播磨守護・赤松氏の被官・富田右京の城。富田右京が有年山城へ異動になったあとは、岡豊前守(光広)が入城した。その後、小河丹後守が入った。
駐車場長谷川と千種川の合流付近の三角地帯-Google マップ
住 所兵庫県 赤穂市 東有年 権現前
トイレ最寄りのコンビニ
訪問日2023年1月21日(土)晴れ

3-①駐車スペース~

有年山城から1~2分。県道90号線沿いのT字路にデッドスペースがあるので停めさせていただく。

駐車スペースから有年山城が見える。

県道90号線沿い歩道を、河口方向へ向かって歩いて行く。

とても山城がある雰囲気ではない。ナオも「城どこ?」と聞いてきた。

3-②登城口~大龍権現

a) 登城口

ラビリンスの隠し通路のように、突如として現れる登城口。「西播磨の山城へGO」の旗が無ければ見逃してしまいそうだ。

ここには縄張り図があった。

b) 鳥居

大龍権現の鳥居。

戦国期のものではないように見えるが、石垣がある。

c) 井戸

荒れているほこらがあった。上には「大龍権現」の石碑、下にはなみなみと水が張っている洞穴があった。ここは比高120mの地点で、頂上は130m。流れてきた雨水ではここまで溜まらないので、下から湧き出ている泉なのだろう。「大龍権現」と呼ばれる所以ゆえんだ。

3-③東曲輪群

恐らく大龍権現の泉の前を通過して奥へ行くのが正規ルートだったと思うが、垂直登城を目指したので東曲輪へ上るルートを選んだ。腰曲輪の斜面を上り、頂上(尾根の曲輪群)を目指す。

東曲輪群の土塁

東曲輪

腰曲輪

3-④主郭部

主郭部へ向かう。

主郭部の帯曲輪

切岸を登る。

本丸

本丸からの景色。

本丸の西側の段曲輪

段曲輪が5つほど続く。尾根の堀切以外に目立った遺構は無さそうだ。

昼食「坂越牡蠣」

坂越さこしの古民家カフェ「暖木のんき」。大正時代の下駄屋さんを改装したご飯屋さんだ。

坂越牡蠣フライ定食。牡蠣の海臭さが全く無く、きめ細かい薄付きのパン粉の中に旨みを凝縮した牡蠣が7つも入っていた。

ナオは坂越牡蠣のパスタ

4.坂越茶臼山城

形 態山城址難易度-----
比 高158m整備度☆☆☆--
蟲獣類見応度☆----
指 定西播磨の山城13(サーティーン)
遺 構無し
歴 史 標高20mの坂越浦城と、標高162mの茶臼山城からなる。嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱により赤松氏が没落した後、赤松氏に替わって新たに播磨守護となった山名宗全が、赤松の残党に備えて茶臼山に砦を築いたという。のちに復権した赤松氏の一門で龍野城城主・赤松村秀の統治下になった。
駐車場本丸まで車で乗り入れ可能 茶臼山 – Google マップ
住 所兵庫県 赤穂市 坂越2022 
トイレ赤穂市坂越駐車場にトイレあり
訪問日2023年1月21日(土)晴れ

4-①登城口

ここから車で上って行く。

4-②本丸

本丸に到着。「遺構無し」との前情報通り、道中遺構は何も無かった。

でも景色は素晴らしい。城址はともかく、この坂越湾を見るためだけにでも上る価値はある。

茶臼山城は、千種川と坂越湾に挟まれた要害の地に築かれた物見砦だ。

次の目的地・赤穂あこう城は、千種川の河口付近のこの辺り。

5.赤穂城

指 定国指定史跡、国の名勝(各庭園)、日本100名城
遺 構曲輪、土塁、堀、門、,石垣
歴 史 岡備前守(光広)の加里屋城が前身。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、池田輝政が姫路に入封し、その弟の池田長政は姫路城の支城として赤穂城を建てた。
駐車場赤穂城跡公園 東駐車場 – Google マップ
住 所兵庫県 赤穂市 加里屋 中州6-59
トイレあり
訪問日2023年1月21日(土)晴れ

5-①駐車場

赤穂城跡公園東駐車場に車を停め、併設している赤穂市立歴史博物館を見学した後、赤穂城へ。目の前の石垣は三の丸の石垣で、当時は石垣の横に清水門が建っていた。

水掘を挟んですぐ左には、二の丸の東北隅櫓台がある。

清水門跡から資料館を振り返る。米蔵跡に建つ資料館なので、外観を米蔵風にしている。

5-②三の丸

分岐あり。左へ行くと本丸二の丸へ。真っ直ぐ進むと三の丸大手門へ。まずは大手門から。

武家屋敷公園の門。

角の丸い石垣。この自然な丸みはもはや芸術。

大手門の番所。番所の向こうに見えるのは、三の丸大手隅櫓。

番所は、休憩所兼資料展示スペースになっている。大手門の説明や赤穂城の年表もあった。

大手門のそばから石垣を振り返る。枡形虎口になっており、当時は右側に門があった。

赤穂城三の丸大手門太鼓橋。どちらも再建。太鼓橋は当時は木橋だった。

「史蹟赤穂城跡」の石碑と三の丸大手隅櫓(再建)。赤穂城の顔となっているアングルだ。

大手門前にある巴屋で、赤穂の塩を使用した「塩味饅頭」で一服。

5-③二の丸

二の丸へ向かう。

二の丸門跡。ここから先は二の丸になる。

石垣の断面。「石垣」は土塁や切岸を補強するためにその表面を石で覆ったもので、特に石の裏にグリ石を入れて強度を上げているものを言うそうだ。グリ石がないものは「石積」と呼ばれる。発見された遺構の石垣が崩れている場合でも、残った石垣のグリ石の厚みを見て、石垣の高さを推測することが出来るそうだ。

二の丸庭園の門。

二の丸庭園は、復元整備の最中らしい。2002年に整備を開始しているが、完成予定時期は明記されていない。

5-④本丸

ここから本丸

a) 本丸門

本丸門

本丸門の左側に屏風塀びょうぶべいが見られる。私が屏風塀を学んだのは徳島城だが、徳島城の屏風塀は失われておりジオラマで見ただけだったので、再建とはいえ現物はこれが初めて。屏風塀の狭間がこちらを向いているのが、屏風塀の存在意義だ。

本丸門の右側は、横矢掛かりの石垣が二段構えになっている。奥の石垣は櫓台だが、櫓は建てなかったようだ。

本丸門の枡形虎口。外門と内門は動線がクランク状になるよう位置をずらしている。

狭間からこちらを狙うナオ。

ナオの目線。

b) 本丸御殿跡

表御殿跡。床に「拭板」などと書かれてあり、そこが何に使われていたスペースかが分かるようになっている。

c) 天守台

ここは天守台だが、天守は建てなかったようだ。

天守台に上る。本丸の南側の石垣(内側は土塁だが外側は石垣)は、内側にくの字に曲がっており、味方折と呼ばれる。くの字の奥の刎橋門はねばしもんを守っている。刎橋門の奥の櫓台も、櫓は建てなかったようだ。右の池は大池泉おおちせん

天守台から本丸門御殿跡を俯瞰する。

赤穂城といえば、浅野内匠頭たくみのかみの江戸城刃傷事件とそれに続く赤穂浪士の吉良きら邸討ち入りが有名だ。詳しいことは知らないが、その時代は、日本史において日本人の思想が根底から変わった変革期でもあり、浅野内匠頭と赤穂浪士たちは、その変革の犠牲者と言えなくもないだろう。

d) 厩口門

最後に厩口門うまやくちもんを見に行った。

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