【備後:福山の城】外様国衆から異例の立身出世を遂げた杉原盛重ゆかりの神辺城など、福山の城々を巡る

素戔嗚神社へ移築された相方城門 西国
素戔嗚神社へ移築された相方城門
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4.福山城

指 定国指定史跡
遺 構[現存]伏見櫓、鐘櫓、筋鉄御門、石垣[再建]天守、櫓等
歴 史 改易された福島氏に代わって元和6年(1620年)に入封した水野勝成により築城された近世城郭。
駐車場福山城駐車場 – Google マップ
住 所広島県 福山市 西町2-4
トイレあり
訪問日2023年8月13日(日)快晴

4-①昼食「小魚 阿も珍」

昼食のため、福山駅北口広場駐車場(コインパーキング)に車を停めた。山手銀山城から約40分。

福山城は駅のすぐそばにある。というか、駅が城内に造られている。城好きにはこの距離感は嬉しいだろう。ここからは月見櫓(左)と鏡櫓(右)が見える。

福山駅ビル商業施設・サンステーション福山(通称・さんすて福山)にある「小魚こざかな阿も珍あもちん」というお店で昼食を取った。

定食を頼んだ人で希望すると配られる「柚入りイカの塩辛」。内臓は入っていないので内臓入りが苦手なナオも舌鼓。

お目当ての1品は、福山の郷土料理「ねぶとの唐揚げ」。“ねぶと”は「いしもち」や「いしかべり」とも呼ばれ、瀬戸内海で取れる4cm程度の白身魚で、唐揚げにするとさかなに丁度良い。

4-②駐車場

昼食を終え、福山城の北側の駐車場に車を停め直した。

城内マップ

4-③天守

福山城天守(北側)。今回復元工事が行われ、天守北側全面に黒い鉄板が施された。石垣の手前に旧天守の礎石が並べられているが、ここは二の丸なので、礎石だけ天守台から移設されたものだ。

北西の角。北側面以外は今まで通りの白色の壁になっている。

南西の角。天守は角から見るとカッコイイ。

天守南正面。正面ももちろんカッコイイ。

4-④現存櫓と門

現存三重櫓・伏見櫓。2代将軍・徳川秀忠が、従弟伯父いとこおじの水野勝成のために京都の伏見城から移築した櫓。本丸の南端にあり、本丸北端の天守から遠かったため、昭和20年(1945年)の空襲で奇跡的に難を逃れた。

現存櫓門・筋鉄御門すじがねごもん。こちらも伏見城から移築された。伏見櫓と同じく本丸の南端にあるため奇跡的に戦火を免れ、今でもその勇姿を見ることが出来る。

本丸の内側から見る櫓たち。伏見櫓(左)とかね櫓(右)。鐘櫓は元和6年(1620年)の築城当時からあったと考えられている櫓で、こちらも伏見櫓や筋鉄御門と同じく当時のままに現存している。

4-⑤天守内部

地階ミュージアムショップに立て掛けられている鉄板のサンプル。

天守内部は基本的に写真撮影は禁止だが、いくつか撮影OKな場所がある。

5階 最上階 天空の間から見る福山駅と伏見櫓のコラボ。

ここから見ると、福山駅が多聞櫓に見えてくる。戦国期にこんな巨大な多聞櫓があったら、どんな軍隊も戦意を喪失しそうだ。

天守最上階からは福山市内が360度一望できる。

二の丸に移設されている旧天守の礎石

5.神辺城

形 態山城址難易度★----
比 高115m整備度☆☆☆☆-
蟲獣類見応度☆☆☆--
駐車場 → 登城口 → 主郭部
高 さ-  /  27m
所要時間-  /  5~10分
指 定
遺 構曲輪、石垣、堀切
歴 史 備後支配のため山名宗家から送り込まれた一門衆・山名理興ただおきの城。天文16年(1547年)の神辺合戦により、毛利元就に滅ぼされた。
駐車場神辺城案内図・神辺歴史民俗資料館駐車場 – Google マップ
住 所広島県 福山市 神辺町川北6-3
トイレ・黄葉山中腹の吉野山公園内
・神辺城の三番櫓跡
訪問日2023年8月13日(日)快晴

5-①駐車場+登城口~

福山城から約40分で、神辺城の駐車場に到着。こちらの小道を登って行けば、神辺歴史民俗資料館に行ける。

そして反対側に登城口がある。

神辺城の案内板。左下の解説によると、神辺城という呼称は廃城後のもので、当時は「村尾城」と呼ばれていたようだ。

本丸へ向かう道は左ルートと右ルートがあるが、曲輪が多いのは前者なので、先に左ルートへ行き、本丸を経由して右ルートで帰ることにした。

2つのルートの間の巨大な岩には堀切がある。

堀切の反対側(右ルート側)。“毛抜堀”という名前が付けられている。

左ルートに戻り、先へ進む。

右へ行けば三番櫓跡。下から順番に見たいので先に左へ下る。

5-②四番櫓跡~二番櫓跡

a) 四番櫓跡

左の坂を下った先は四番櫓跡になる。

いろいろあり過ぎる。

b) 三番櫓跡

三番櫓跡にはトイレがある。

三番櫓跡から見る神辺の町。

ここから二番櫓跡へ。

c) 二番櫓跡

二番櫓跡

二の丸へ。

5-③二の丸~本丸

a) 二の丸

二の丸

いぬい櫓跡と書かれた石碑。二の丸にも櫓があったようだ。

二の丸は、東西に細長い曲輪になっている。

二の丸の東端に看板が2つ。左は本丸へ、右は本丸下の石垣へ。

b) 石垣

先に石垣を見に行く。

本丸下の石垣。

C) 本丸

さきほどの分岐へ戻り、本丸へ。

本丸

神辺城(村尾城)は、山名一門衆・山名理興ただおきの城だったが、天文16年(1547年)に毛利元就により滅ぼされた。その次に入ったのは山手銀山城の杉原氏で、杉原盛重もりしげの代には毛利家評定衆となり、対尼子氏の西伯耆ほうき戦線の指揮官として活躍した。しかし天正9年(1581年)に盛重は48歳で病死。長男の元盛もともりが跡を継いだが、翌年の天正10年(1582年)織田へ寝返ろうと考えた弟・景盛かげもりにより、元盛は殺されてしまう。その後「本能寺の変」が起きたため、景盛は織田へ寝返るタイミングはなかったものの、謀反の罪をしっかり咎められ、毛利輝元の命により討たれた。それにより杉原氏は大きく衰退することとなった。

5-④荒布櫓跡~鬼門櫓跡

本丸のすぐ下にある井戸跡

その先にある荒布櫓跡

曲輪と曲輪が連続していないのが、神辺城の特徴だろう。荒布櫓跡ここと本丸の動線は、土橋になっている。

神辺城の北東を守る鬼門櫓跡

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