目次
3.高瀬城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★★-- |
比 高 | 250m | 整備度 | ☆☆☆☆☆ |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆☆- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 250m | ||
所要時間 | - / 35~40分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、石垣、堀、土橋 |
歴 史 | 尼子氏の被官・米原綱広–綱寛の城。尼子十旗の第六旗。永禄8年(1565年)の毛利元就の第二次月山富田城攻めでは毛利軍に下ったが、永禄12年(1569年)に山中鹿介が尼子再興軍を掲げて挙兵すると、米原綱寛はそれに参加し高瀬城で毛利軍と戦った。 |
駐車場 | 高瀬不動明王 – Google マップ の付近の赤い橋の上 |
住 所 | 島根県 出雲市 斐川町 学頭 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2023年3月11日(土)快晴 |
高瀬城へは「高瀬不動明王」をナビに設定して向かう。三刀屋城から約30分。
3-①駐車場&登城口
高瀬不動明王の付近の赤い橋の上に、駐車場(4~5台分)がある。この道の先は行き止まりで、斐川クリーンステーションだけがある。
橋の手前にも駐車スペース(2~3台分)がある。合計5台の先客がいた。山城でこれほど人が集まっていることは珍しい。
橋の駐車場のすぐ横が登城口。
3-②三の丸(鉄砲立)
登城口の階段を上ると矢竹の群生地があった。矢竹は弓矢の矢を作るのに適している。
10分ほど歩き、三の丸(鉄砲立)の看板を発見。
三の丸(鉄砲立)は、進路の反対側にある。
三の丸(鉄砲立)。木が多いのであまり下は見えないが、ここは出丸的な防衛施設だった。
3-③七曲り
先へ進む。登城道の左右は切岸になっている。
上り始めて約20分。ちょうど中間くらい。
尼子家臣団のお城ではおなじみの七曲り。
七曲りのつづら折りが綿々と続いている。毛利軍は第二次月山富田城の戦いと、尼子再興軍との戦いと2度、この高瀬城を攻めている。これを進軍するのは大変だっただろう。
この高瀬城は、坂で丸太階段の無い場所は、土を削って土階段を作っている。しかも200m超級の山城であるにも関わらず、この整備が全域で施されているのだ。これには感服してしまう。
3-④駄置場(鞍部)
駄置場の虎口。
駄置場。武器や兵糧の貯蔵場として使用していた。
右へ行けば二の丸、左へ行けば本丸・甲の丸で、ここはその間の低い曲輪となるので、地形的には鞍部だ。敵兵が二の丸を無視して本丸・甲の丸の攻撃を急げば、二の丸の守備兵が背後から襲い、本丸・甲の丸の守備兵と挟み撃ちに出来る。二の丸を攻めた場合も同様の理屈で挟み撃ちになる。
3-⑤二の丸(小高瀬)
高瀬城の防御の要・二の丸へ。
二の丸(小高瀬)。
二の丸は、中央に櫓台がある。
櫓台に上ってみる。
高瀬城は、尼子氏の被官・米原氏の城だ。米原氏は南近江守護・六角氏の庶流で、六角治綱が近江国米原郷を領し、米原治綱と名乗ったのを始まりとする。尼子氏は南北朝時代の明徳3年(1392年)に出雲守護代を仰せつかり、近江から出雲へやって来た。六角治綱はそれから丁度100年後に生まれた人物なので、尼子氏の被官としては、米原氏はかなりの新参者ということになる。
米原氏がいつ米原氏になったのかは不明である。出雲では「マイバラ」ではなく「ヨネハラ」と呼ばれ、まあそれでもいいかと思って改名したのか、最初から最後まで「マイバラ」だったが後世の人が間違って「ヨネハラ」と呼んだのか、古文書にふりがなは打っていないので今となっては謎のままだ。
3-⑥本丸・甲の丸
駄置場を経由し、頂上へ。
a) 曲輪(本丸)
駄置場より40~50m高所にある曲輪。ここは縄張り図では単に「曲輪」と書かれているが、「本丸」と考えて良いだろう。
米原氏の最後の当主は米原綱寬という。米原氏は尼子氏の御手廻衆という重臣で、綱寬は年少期は尼子晴久の小姓だった。永禄5年(1562年)には、すでに父・綱広から当主の座を引き継いでいた。生年不明だが、綱寬はこの時20歳前後と考えられる。主家尼子氏はというと、前年に尼子晴久が死に、晴久の嫡男・義久が当主となっていた。そして尼子の代替わりをチャンスとみた安芸の毛利元就が、出雲侵攻を開始していた。
同年、高瀬城は毛利軍の攻撃を受け、あえなく降伏。米原綱寬は尼子氏から毛利氏への従属を余儀なくされた。その4年後の永禄9年(1566年)、尼子義久は月山富田城を開城し、戦国大名・尼子氏は滅亡した。
その後、米原綱寬は毛利元就の家臣として備中1万7千石で入封する。高瀬城の頃が1万石前後だったので、大幅な加増である。尼子氏を説得する使者の一人として、月山富田城の開城に貢献したことによるものと考えられる。多くの元尼子家臣と同様に、毛利家臣としての道を歩むこととなった。
運命の歯車が逆廻りし始めたのはその3年後の永禄12年(1569年)のこと。尼子義久の従弟・尼子勝久(16歳)が旗頭となり、尼子再興軍が結成された。発起人は、尼子一門衆の山中幸盛(24歳)。山中鹿介と呼ばれ、後世に語り継がれる人物だ。当初、米原綱寬(27歳?)は毛利元就の命で尼子再興軍討伐のために備中から出雲へ向かったのだが、山中鹿介のなんとしても尼子を再興したいというパワーに感化され、尼子再興軍に加わった。備中の所領と毛利家臣という将来を捨て、戦国大名尼子氏の再興を目指す道を選んだのだった。
翌年の永禄13年(1568年)、月山富田城付近の布部山で尼子再興軍7千騎が毛利軍2万騎に敗れると、米原綱寬は旧城・高瀬城に籠城した。そして7年前同様に毛利軍を迎え討ち、今度は1年近く奮戦したものの敗北。剃髪し可春斎と号して出家した。
米原綱寬の子・綱俊は、尼子再興軍にいた亀井茲矩に仕え、江戸期以降も津和野藩で武士を続けることとなる。
b) 甲の丸
甲の丸へ向かう。
大型土壙により、強制的に動線が曲げられている。
甲の丸が近い。
甲の丸。山の向こうに宍道湖が見える。
昼食「鶴華 波積屋」
お昼ご飯は、高瀬城と同じ斐川町にある鶴華波積屋で出雲そば。
肝心のそばが写っていない💦 右手前のお重の2段目3段目に、そばが入っている。
4.松江城
指 定 | 国宝、国指定史跡、日本100名城 |
遺 構 | 天守、石垣、堀、井戸、[再建]櫓、門、橋 |
歴 史 | 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功績により出雲を与えられた堀尾吉晴によって築かれた。 |
駐車場 | 松江城大手前駐車場 – Google マップ |
住 所 | 島根県 松江市 殿町 1-5 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2023年3月11日(土)快晴 |
4-①大手前~
国宝・松江城へは、鶴華波積屋から約50分、高瀬城からでも1時間以内で着く。大手前駐車場に車を停め、松江城へ。
大手前にある堀尾吉晴像。経歴は高知城の山内一豊とほぼ同じ。尾張の守護代・岩倉織田氏(伊勢守家)の重臣だったが、主君は美濃の斉藤氏と手を組み、同じ尾張の分家・織田信長(弾正忠家)と戦って滅びた。その後織田信長の配下に入り、木下秀吉の与力となったことで、秀吉の立身出世とともに堀尾氏も繁栄した。常に勝ち組に付くことで、最後は出雲24万石の大名となった。
しかし堀尾吉晴の嫡男・忠氏は慶長9年(1604年)に事故死し、その子・忠晴も寛永10年(1633年)に35歳で亡くなると、堀尾氏は断絶してしまった。
a) 外曲輪(馬溜)
外曲輪(馬溜)で、椿展が開催されていた。
外曲輪(馬溜)から見る、二の丸の中櫓。
同じく二の丸の太鼓櫓。手前には井戸がある。
b) 大手門跡
大手門跡。本丸天守が見える。
c) 本坂
本坂。名前からして、当時は石段ではなく土の傾斜面だったのだろうか?
d) 三ノ門跡
三ノ門を入ると二の丸になる。
4-②二の丸
二の丸。二の丸には3つの櫓がある。
a) 太鼓櫓
1つ目は太鼓櫓。
中には本物の太鼓が置いてあった。
太鼓櫓から俯瞰する大手門跡。その上には櫓が建っていたのだろう。近世城郭の門は、大砲でも持ってこないと突破出来ないほど分厚い。
b) 中櫓
3つの櫓のうち真ん中に位置する櫓、中櫓。
c) 南櫓
二の丸の南に位置する南櫓。
本丸へ向かう。
4-③本丸
a) 二ノ門跡
b) 一ノ門
c) 天守
本丸に建つ松江城天守。2015年に国宝に指定されている。国宝城郭は、姫路城 犬山城 松本城 彦根城に続いて5基目となる。
横アングルで。
後ろから。
d) 乾櫓跡
e) 北ノ門
5.白鹿城
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★---- |
比 高 | 120m | 整備度 | ☆☆☆☆- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 約50m | ||
所要時間 | - / 約10分 |
指 定 | - |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀切、井戸 |
歴 史 | 出雲の国衆・松田満久–誠保の城。尼子十旗の第一旗。満久は尼子政久の娘(晴久の姉)を妻とし、尼子一門衆に加わったが、第二次月山富田城の戦いで毛利軍に敗北。満久は自害し、誠保は隠岐へ逃れた。その後、尼子再興軍が結成されると、誠保は尼子勝久や山中鹿介と最期まで行動を共にした。 |
駐車場 | 西の谷登山口-Google マップ (約4台分) |
住 所 | 島根県 松江市 法吉町 |
トイレ | 最寄りのコンビニ |
訪問日 | 2023年3月11日(土)快晴 |
5-①駐車場&登城口~
松江城から15分、白鹿城の西の谷登山口に車を停める。
登城口。
ここは城の裏側で、当時は切岸だったと思われる。
西の谷登山口から頂上までの比高は30mなのだが、横移動が多い。遺構は不明瞭な部分が多いとの前情報通り、城域は広いが遺構は確認出来ない。
5-②大井戸跡~本丸
永禄6年(1563年)の毛利元就による白鹿城攻めの際、毛利軍が石見銀山の鉱夫を使って水抜き工作を行ったという大井戸跡。
本丸。白鹿城の中で北に位置する本丸は、頂上に比べて低い曲輪だ。月見御殿跡と命名されているので、恐らく城主の居館があったのではなかろうか?
5-③一の床
一の床へ向かう。
白鹿城の一の床。ここが城の頂上となる。一般的な詰丸に相当するだろう。
白鹿城は、尼子十旗の筆頭・松田満久の城である。出雲において、宍道湖と中海の間に位置し、美保関の港を抑える要の城だった。尼子経久は孫娘(晴久の姉)を満久に嫁がせ、国衆だった松田氏を尼子一門衆に取り込んだ。
一の床は南北に細長い曲輪だ。
一の床の南側に、二の床 三の床が続いている。
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