3.三岳城址
形 態 | 山城址 | 難易度 | ★★--- |
比 高 | 430m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | 熊、蛇、 スズメ蜂 | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 120m | ||
所要時間 | - / 20分 |
指 定 | 国指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、土塁、堀、石積 |
歴 史 | 遠江の国衆で、井伊谷を領していた井伊直盛-直親の城。井伊谷城を本城とし、三岳城は詰めの城としていた。 |
駐車場 | 御嶽(三岳)神社参道 – Google マップ |
住 所 | 静岡県 浜松市北区 引佐町 三岳597 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2022年2月27日(日)晴れと曇りが交互 with強風 |
3-①駐車場&登城口
御嶽神社の駐車場。咲夢茶屋から30分弱、佐久城からだと40分弱だろう。ここは地元のお出かけスポットなのか、比高300m超の山の上なのに驚くほど車が多い。写真には写っていないが、左のほうにも何台か停まっていて、階段下のもう1つの駐車場にも数台の車があった。
三岳城の登城口
左下のイラストは、浜松市マスコットキャラクターの「出世大名・家康くん」と「出世法師・直虎ちゃん」。
井伊直虎については諸説ある。井伊家15代当主・直盛の娘・次郎法師は、若い頃は直親(のちに16代当主)の許嫁だったが諸事情で結婚出来ず、直親が27歳で死んだ時、直親の子・直政は2歳だったため、次郎法師が「直虎」と名乗り名代として付いた。2017年NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の筋書きである。しかし専門家の意見は反対派が多く、① 次郎法師は直盛の娘であるが直虎は今川家臣・関口氏経の子で今川氏真の命で名代として派遣された説、② 次郎法師も関口直虎の幼名であり直盛の娘ではない説、などがある。とは言え、井伊の男が全員いなくなった時に嫡流の女性が名代に付くのは自然な話のように思えるし、今川がいまだ強大だとしても、そこから派遣されたよそ者(直盛の妹の嫁ぎ先の一族ではあるが)を名代で迎えるほうが不自然な事に思える。なので私は、大河と同じ「直盛の娘=次郎法師=直虎」説が一番有力だと考えている。
3-②登城道
電車のスイッチバックのようにジグザグに進む道は、距離は長くなるものの、緩やかに登れるというメリットがある。
しかし、ここからは鞍部までの尾根を一直線に登るため、かなりの急勾配になっている。
横から見た勾配。角度がえぐい。
三岳城の鞍部。当時は枡形虎口だった。左へ行くと「本丸」、右へ行くと「東曲輪」。元亀年間の武田と徳川の戦いの際、本丸を武田が、東曲輪を徳川が取り合っていた事もあったという。
3-③鞍部~本丸
体力はともかく筋力の消耗が激しので、短期決着を目指し、本丸を急ぐ。
駐車場から20分ほど登って本丸に到着。
曇っていたが、雲間から差し込む日の光が神々しい。
比高430mの本丸から、井伊谷と浜名湖が一望できる。「三岳城から見えるところは全て井伊領」と、井伊直親が言ったとか言わなかったとか。
本丸の西側にも曲輪があるので行ってみた。
西の曲輪は、いくつかの段曲輪になっているようだ。石垣で補強していたのか、あちらこちらに石が散乱している。
4.鳥羽山城址
形 態 | 山城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | 60m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆--- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 10m | ||
所要時間 | - / 2~3分 |
指 定 | 国指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、土塁、石垣、門跡、庭園跡 |
歴 史 | 元亀3年(1572年)に武田勝頼に二俣城を落とされ、同年、武田信玄と三方ヶ原で戦って大敗した徳川家康だったが、天正3年(1575年)長篠・設楽原の戦いの勝利で流れが変わり、二俣城を奪還すべく付城・鳥羽山城を築いた。 |
駐車場 | 鳥羽山公園駐車場 – Google マップ |
住 所 | 静岡県 浜松市天竜区 二俣町 二俣2364 |
トイレ | 駐車場にあり |
訪問日 | 2022年2月27日(日)晴れと曇りが交互 with強風 |
4-①駐車場
鳥羽山公園駐車場。三岳城から車で40分程度。
天竜川は、Uの字のカーブがいくつもあるのが特徴的。二俣城と鳥羽山城はそんなUの場所にある。
駐車場の前の案内版。
4-②登城口
間口の広い大手道。豊臣政権時に堀尾吉晴が浜松に転封した際、浜松城を本城、二俣城・鳥羽山城を支城とした。二俣城にのみ軍事機能を持たせ、鳥羽山城には迎賓館としての機能を持たせたため、鳥羽山城の大手道は幅6mほどの広さになったとのこと。
4-③本丸
大手門跡。
本丸。
展望台。
展望台から見る天竜川。長野県の諏訪湖を源流とし、伊那盆地から遠州灘へ流れる一級河川。
堀尾吉晴時代の庭園跡。
東門跡(本丸側)
東門跡(外側)。外枡形の虎口になっている。
大手門の反対側(北)にある搦手門。
5.二俣城址
形 態 | 山城址 | 難易度 | ----- |
比 高 | 40m | 整備度 | ☆☆☆-- |
蟲獣類 | - | 見応度 | ☆☆☆-- |
駐車場 → 登城口 → 主郭部 | |||
高 さ | - / 7m | ||
所要時間 | - / 2~3分 |
指 定 | 国指定史跡 |
遺 構 | 曲輪、石垣、虎口、天守台、堀切 |
歴 史 | 武田信玄-勝頼と、徳川家康が争奪戦を繰り広げた城。家康の長男・徳川信康の自刃の地でもある。 |
駐車場 | 二俣城駐車場 – Google マップ |
住 所 | 静岡県 浜松市天竜区 二俣町990 |
トイレ | あり |
訪問日 | 2022年2月27日(日)晴れと曇りが交互 with強風 |
5-①駐車場
鳥羽山城から車で5分ちょっとで二俣城駐車場に到着。
ここは北曲輪の下だから、帯曲輪の土塁かな?
天竜区の山城。厳選しなければ1日で回れそうにない。でもその計画を立ててる時が一番楽しい。
ここから二俣城へ上る。
木々の間から少しだけ天竜川が見える。この辺のどこかにあったはずだが、二俣城には水の手櫓があり、天竜川の水を汲み上げて使用していたという。
元亀3年(1572年)徳川領であった二俣城を、武田勝頼を大将とする武田軍が攻めた。堅固な二俣城を攻めあぐねた勝頼は、その水の手櫓の存在に気づき、天竜川の上流から大量の筏を流して水の手櫓にアタックし、崩落させた。水を絶たれた徳川軍は戦意を失い、二俣城は落城した。
搦手口の堀切
5-②本丸
本丸の喰違い虎口
北曲輪。今は神社が建っている。右手前のコンクリート部分に馬出があったそうだが、面影はない。
喰違い虎口から本丸へ入る。
本丸。
本丸東側の土塁。西側には天竜川という天然の水掘があるから大丈夫なので、東の守りはより重要になる。
本丸から見た喰違い虎口。
天守台。二俣城は、岡崎城から送られてきた家康の嫡男・徳川信康が自刃させられた地としても知られている。母・築山殿(瀬名)も連座させられ、浜松城近くの佐鳴湖で殺害された。信康事件については諸説あるが、家康に忖度した江戸時代の書物からは、真相は量れない。
足利義昭の追放後、織田信長は徳川家康に対して主君のように振る舞い、家康は徳川家の存続のためにそれに従うしかなかった。武田氏との戦いで疲弊した徳川家臣達の不満の受け皿となった信康と築山殿。家康の究極の選択は、自身の人生で最大の悲劇だっただろう。
5-③二の丸
天守台から二の丸方面を見る。二の丸と本丸の境に枡形虎口がある。駐車場から上がってきた喰違い虎口は裏門なので、こっちが正門だ。
二の丸。本丸の南にある一段下がった曲輪。
二の丸の南は、堀切を挟んで蔵屋敷跡がある。
二の丸の追手虎口(大手門)。手前の高台は櫓跡。
追手虎口を下から見上げる。二俣城は、武田軍が落城させた時も、徳川軍が落城させた時も、城の防御を突破して落としたわけではなく、城兵の士気の低下等で城を明け渡す形で落城させている。それだけ堅固な城だったという事なのかも知れない。
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